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アンジェリーヌは王宮での大役を果たした後、色々忙し過ぎて全く顔を出すことのできなかったロンの店へと向かっていた。
一番不安で大変だった時に力になってくれた恩人の店に、また新たなお菓子のレシピを届けようとウキウキして、侍女の服装に身を包んで公爵邸を出た。
道中の幅の広い川には石組みで作られた階段のある高架橋がかかっていた。
アンジェリーヌが川を眺めながら渡りきって階段を下ろうとした時、背中に衝撃を感じた。
その瞬間、アンジェリーヌの足元は宙に浮き、危ないと思う間もなく世界が回転し階段を転がり落ちていった。
頭を強く打ったアンジェリーヌは完全に意識を失い、冷たい地面に倒れたまま動かなくなった。階段付近にいた人々が慌てて集まり、あたりは騒然となった。
知らせを受けたナリスとフェリクスが真っ青になりアンジェリーヌが運ばれた病院に駆け付けたが、全身と頭を強く打っておりこの先も気が抜けない状況であると医師から告げられた。
頭に布を巻かれ、生気のない顔で横たわっているアンジェリーヌの手を両手で握るとナリスは顔を悲しみに歪めた。
「一人で行かせるのではなかった」
「兄上・・・大丈夫だよ、アンヌは強いよ。絶対大丈夫だよ」
あとから駆けつけてきた公爵はその状況を見て、この非常事態にこれ以上侯爵家に黙っていることは出来ないと連絡を取った。
駆けつけてきた侯爵とアベルはベッドで死んだように眠っているアンジェリーヌの姿を見て崩れ落ちた。
侯爵は怒りを抑えながら何があったのかを聞いた。
「アンジェリーヌ嬢はどうやら突き落とされたようです」
その言葉に二人は驚きの声をあげた。
予想もしていない事態だった。
「突き落とされた!? 誰に?犯人は捕まったのですか!?」
「いいえ。初めは事故だと思われていましたが、突き飛ばして逃げたものがいるという目撃者が現れたのです。ですがはっきり姿は見ておらず犯人までは・・・大切なお嬢様をこんな目にあわせて申し訳ありません」
公爵が頭を下げたそれを二人の子供は少し驚いて見た。
アンヌの事は自分たちが勝手にしたことで責任は自分たちにある。父が黙認してくれていたとはいえ、主犯のように自分たちの代わりに謝っている。
二人の兄弟と確執のあったこの父が自分より身分の低い侯爵に。
「私がそちらのお屋敷へ探しに行ったのにも関わらず騙したわけですか! その挙句こんな‼」
「・・・お詫びのしようも本当にありません」
ロッシュ公爵は侯爵の怒りに震えるその姿を見て、彼が娘の事を本当に心配していたとわかった。どのような経緯があったのかは知らないが、その胸中を思うと申し訳なさでいっぱいになったのだった。
侯爵はアンジェリーヌの手を握っているナリスを突き飛ばす勢いで近づくと
「アンジェリーヌ、目を開けてくれ。もう一度声を聞かせてくれ。頼む! お前の笑顔を取り戻させてほしい。私の事は嫌いでいい・・・お前さえ元気でいてくれたらもう・・・」
悲痛な声でアンジェリーヌに語りかける。
アベルも姉の姿を見て涙をボロボロ落としている。
しかし、皆がどれだけ呼びかけてもアンジェリーヌの意識は戻らないまま日にちだけが過ぎた。
医師から命の危険だけは過ぎ去ったといわれたアンジェリーヌは病院から侯爵邸へと戻されたのだった。
そして、それはロジェにも知らされた。
血相を変えて駆けつけてきたロジェは、アンジェリーヌのベッドわきで立ち尽くしてしまった。
「なんで・・・なんでこんな・・・」
「突き落とされたそうです。犯人はまだわかっておりません」
沈痛な面持ちで言う侯爵にロジェは食って掛かる。
「今までアンジェリーヌはどこにいたんですか!? ロッシュ家ではないのですか⁉」
「・・・アンジェリーヌが自分の身元を偽って侍女として雇ってもらっていたようです」
そう言った侯爵も、そんなことは信じてはいなかった。
アンジェリーヌがどうしても帰りたくないと言い、匿ってもらっていたのだろう。まさかこんなことになるとは思わずに。
公爵家には憤りしか感じないが、ロッシュ家のおかげでこれまでアンジェリーヌは無事だったのだ。それにアンジェリーヌの方がロッシュ家に迷惑をかけていた可能性まであり、ペルシエ家は抗議することが出来なかったし、するつもりもなかった。
「そんなはずはない! わざわざ変装させて連れ歩いていたんだ、知らないわけがない!」
やはり劇場で会った女はアンジェリーヌだったのだ。
粗雑で開けっ広げだった彼女は、奥ゆかしくて品のあるアンジェリーヌにはとても見えなかったが、あれがやはりアンジェリーヌだったのだ。
ナリスと二人で仲良く寄り添っていた姿を思い出し、嫉妬で胸が焼けつく。
だがロジェは首を振った。
今はそんなことを悩んでいる場合ではない。アンジェリーヌを何としても回復させなくてはならないのだから。
「この度の事件は王家の耳にも届きまして、国王直々に早期解決を騎士団に指示されました。影も動かしていただいているようです」
「王家が? いったいどうして・・・」
「アンジェリーヌは恐れ多くも王家の方々と交流させていただいていたようです。ロッシュ公爵子息の縁で」
「あの男の・・・」
「ロジェ殿。婚約の件有耶無耶になっておりましたが、娘はこのような状態ですし、やはり婚約は解消いたしましょう。もともとあなたも望んでおられたのだから」
「それはっ! 私は婚約の解消など・・・本気で思っていないとお伝えしたではありませんか!」
「ですがあの時、娘は受け入れておりました。」
「あれはっ!あれは・・・あまりにもアンジェリーヌがいつもと違ったから。ついかっとなって売り言葉に買い言葉で。あの時からアンジェリーヌは別人のようだった。アンジェリーヌは優しくて、気品があって、花が咲くような笑顔が似合っていて・・・でもいつのころからものを言わなくなり暗くなって・・・」
「それは・・・私のせいです」
「私も悪かったのです。彼女の苦しみに全く気がつかず助けなかったばかりか・・・ひどい態度をとってしまった。だから・・・彼女はもう愛想が尽きてあのような・・・」
「ロジェ殿は娘に・・・本当に好意を持ってくださっていたのですか?」
「もちろんです。・・・信じていただけないのも無理はありませんが」
「あの子が奇跡的に目覚めたら、私は今度こそ娘が幸せになる道を選ばせるつもりです。うちが嫌なら公爵家で暮らすことも認めます」
その言葉にロジェは、アンジェリーヌの目覚めと自分を選んでくれることを祈るしかなかった。
みんなの祈りが届いたのか、ついにアンジェリーヌが目覚めた。
しかもロッシュ家からナリスとフェリクスが見舞いに来た時間に、ロジェが鉢合わせをするという最悪の雰囲気の中で。
「アンヌ!」
いち早くアンジェリーヌの様子に気がついたフェリクスが弾んだ声をあげた。
アンジェリーヌの目蓋が少し震えたかと思うとゆっくりと目があいた。
訳が分からないというように目を瞬くと、驚いたように周りを見渡した。
ナリスが近寄ろうとするより早く、ロジェがアンジェリーヌの側によるとその側に跪いた。
「アンジェリーヌ、気分はどう?大丈夫かい?」
「ロジェ様・・・どうして?」
アンジェリーヌは私室で、ベッドに寝ている自分の側にロジェがいるのを見て頬を染めた。
「君は長い間意識を失っていたんだ。ようやく・・・ようやく戻ってきてくれた。ありがとう」
ロジェは涙を落とした。
アンジェリーヌは信じられないというようにそれを見たが、嬉しそうにほほ笑んだ。そしてその後ろに立っているナリスやフェリクスと目が合うと恥ずかしそうに頬を染めながら
「あの・・・ロジェ様のご友人ですか?」
と言った。
「え!?」
皆が驚いて声をあげた中、ナリスだけは黙っていた。
ナリスは悲しそうに顔を歪めると、唇を一度ぎゅっと噛みしめてから笑顔を作り、
「ええ、そうです。気がつかれて良かった、まだ体調も十分ではないでしょうから私どもはこれでお暇します」
そう言ってナリスはフェリクスを連れてアンジェリーヌの部屋を出た。
「兄上! どういうことですか! アンヌの側にいないと・・・」
フェリクスがそう言い、追いかけてきたアベルも
「ナリス様!お待ちください!」
と引き留めた。
しかし、ナリスは力なく首を振ると、
「彼女には婚約者がいる。私の出る幕ではないよ」
アンジェリーヌに冷たい以前のロジェでなかった。今の彼ならアンジェリーヌを大切にしてくれるはずだとナリスは思った。
「兄上⁈」
「ナリス様⁉」
二人の声にもう何も答えずナリスは公爵家の馬車に乗りこんだのだった。
一方、部屋に残されたロジェも驚いていた。
アンジェリーヌとナリスの間にはもっと深い絆があったはずだ。
意識のないアンジェリーヌの側でずっと祈っていたあの男が、あんなにあっさりと帰っていくとは思わなかった。そしてアンジェリーヌもナリス達によそよそしく、婚約者の自分に頬を染めている。
アンジェリーヌにけんもほろろな態度をとられ、ナリスと仲の良いところを見せられると覚悟そしていた。それがいい意味で予想が外れ、ロジェはほっとした。
「ロジェ様?私はどうしたのでしょう」
「君は階段から突き落とされたんだ。何か覚えていないかい? 誰か見た?」
「突き落とされた? 何も覚えていません」
不安そうな表情になるアンジェリーヌは、以前のアンジェリーヌにすっかり戻っていた。
「君はロッシュ家の侍女として世話になっていたのだろう? その時何かなかったかい?」
「ロッシュ公爵家ですか? 侍女なんてなんのことですか?」
「え?! さっきの二人は知っているだろう?」
しかしアンジェリーヌは首をかしげて
「ではあのお二人はロッシュ家の方々なのですか? なぜ私のお見舞いに!? ロジェ様のご友人ではないのですか?」
アンジェリーヌがとぼけている様子はなかった。
その後も少し話をしたが家出する少し前からの記憶が全くなく、婚約解消の事も全く知らない様子だった。
頭を打ったせいだろうかと心配な点は多々あるものの、アンジェリーヌが婚約解消の事を全く覚えていないことにロジェは胸をなでおろしたのだった。
知らせを受けて飛んで帰って来た侯爵に抱きしめられ、すまなかったと謝られたアンジェリーヌは父の優しい態度に嬉し涙を流した。
そして自分をいじめていたマノンやメイドたちがいなくなっていたことに驚いた。それに心から安堵しつつ、やけに親し気な弟といい、自分を甘やかそうとしてくれる父といい侯爵家にどんな変化があったのかと首をかしげた。
すぐに医者が呼ばれ、ゆっくり休みなさいと言う言葉に従いアンジェリーヌはもうしばらく寝室でゆっくりと過ごすことになった。
転落事故の事、義母がいなくなったことやロジェが優しくなったことなど自分の知らないことが多いことに不安を覚え、ぼんやり天井を見ながら色々考えているとき、不意にとても大切なことを思い出した。
白い世界の事を。
一番不安で大変だった時に力になってくれた恩人の店に、また新たなお菓子のレシピを届けようとウキウキして、侍女の服装に身を包んで公爵邸を出た。
道中の幅の広い川には石組みで作られた階段のある高架橋がかかっていた。
アンジェリーヌが川を眺めながら渡りきって階段を下ろうとした時、背中に衝撃を感じた。
その瞬間、アンジェリーヌの足元は宙に浮き、危ないと思う間もなく世界が回転し階段を転がり落ちていった。
頭を強く打ったアンジェリーヌは完全に意識を失い、冷たい地面に倒れたまま動かなくなった。階段付近にいた人々が慌てて集まり、あたりは騒然となった。
知らせを受けたナリスとフェリクスが真っ青になりアンジェリーヌが運ばれた病院に駆け付けたが、全身と頭を強く打っておりこの先も気が抜けない状況であると医師から告げられた。
頭に布を巻かれ、生気のない顔で横たわっているアンジェリーヌの手を両手で握るとナリスは顔を悲しみに歪めた。
「一人で行かせるのではなかった」
「兄上・・・大丈夫だよ、アンヌは強いよ。絶対大丈夫だよ」
あとから駆けつけてきた公爵はその状況を見て、この非常事態にこれ以上侯爵家に黙っていることは出来ないと連絡を取った。
駆けつけてきた侯爵とアベルはベッドで死んだように眠っているアンジェリーヌの姿を見て崩れ落ちた。
侯爵は怒りを抑えながら何があったのかを聞いた。
「アンジェリーヌ嬢はどうやら突き落とされたようです」
その言葉に二人は驚きの声をあげた。
予想もしていない事態だった。
「突き落とされた!? 誰に?犯人は捕まったのですか!?」
「いいえ。初めは事故だと思われていましたが、突き飛ばして逃げたものがいるという目撃者が現れたのです。ですがはっきり姿は見ておらず犯人までは・・・大切なお嬢様をこんな目にあわせて申し訳ありません」
公爵が頭を下げたそれを二人の子供は少し驚いて見た。
アンヌの事は自分たちが勝手にしたことで責任は自分たちにある。父が黙認してくれていたとはいえ、主犯のように自分たちの代わりに謝っている。
二人の兄弟と確執のあったこの父が自分より身分の低い侯爵に。
「私がそちらのお屋敷へ探しに行ったのにも関わらず騙したわけですか! その挙句こんな‼」
「・・・お詫びのしようも本当にありません」
ロッシュ公爵は侯爵の怒りに震えるその姿を見て、彼が娘の事を本当に心配していたとわかった。どのような経緯があったのかは知らないが、その胸中を思うと申し訳なさでいっぱいになったのだった。
侯爵はアンジェリーヌの手を握っているナリスを突き飛ばす勢いで近づくと
「アンジェリーヌ、目を開けてくれ。もう一度声を聞かせてくれ。頼む! お前の笑顔を取り戻させてほしい。私の事は嫌いでいい・・・お前さえ元気でいてくれたらもう・・・」
悲痛な声でアンジェリーヌに語りかける。
アベルも姉の姿を見て涙をボロボロ落としている。
しかし、皆がどれだけ呼びかけてもアンジェリーヌの意識は戻らないまま日にちだけが過ぎた。
医師から命の危険だけは過ぎ去ったといわれたアンジェリーヌは病院から侯爵邸へと戻されたのだった。
そして、それはロジェにも知らされた。
血相を変えて駆けつけてきたロジェは、アンジェリーヌのベッドわきで立ち尽くしてしまった。
「なんで・・・なんでこんな・・・」
「突き落とされたそうです。犯人はまだわかっておりません」
沈痛な面持ちで言う侯爵にロジェは食って掛かる。
「今までアンジェリーヌはどこにいたんですか!? ロッシュ家ではないのですか⁉」
「・・・アンジェリーヌが自分の身元を偽って侍女として雇ってもらっていたようです」
そう言った侯爵も、そんなことは信じてはいなかった。
アンジェリーヌがどうしても帰りたくないと言い、匿ってもらっていたのだろう。まさかこんなことになるとは思わずに。
公爵家には憤りしか感じないが、ロッシュ家のおかげでこれまでアンジェリーヌは無事だったのだ。それにアンジェリーヌの方がロッシュ家に迷惑をかけていた可能性まであり、ペルシエ家は抗議することが出来なかったし、するつもりもなかった。
「そんなはずはない! わざわざ変装させて連れ歩いていたんだ、知らないわけがない!」
やはり劇場で会った女はアンジェリーヌだったのだ。
粗雑で開けっ広げだった彼女は、奥ゆかしくて品のあるアンジェリーヌにはとても見えなかったが、あれがやはりアンジェリーヌだったのだ。
ナリスと二人で仲良く寄り添っていた姿を思い出し、嫉妬で胸が焼けつく。
だがロジェは首を振った。
今はそんなことを悩んでいる場合ではない。アンジェリーヌを何としても回復させなくてはならないのだから。
「この度の事件は王家の耳にも届きまして、国王直々に早期解決を騎士団に指示されました。影も動かしていただいているようです」
「王家が? いったいどうして・・・」
「アンジェリーヌは恐れ多くも王家の方々と交流させていただいていたようです。ロッシュ公爵子息の縁で」
「あの男の・・・」
「ロジェ殿。婚約の件有耶無耶になっておりましたが、娘はこのような状態ですし、やはり婚約は解消いたしましょう。もともとあなたも望んでおられたのだから」
「それはっ! 私は婚約の解消など・・・本気で思っていないとお伝えしたではありませんか!」
「ですがあの時、娘は受け入れておりました。」
「あれはっ!あれは・・・あまりにもアンジェリーヌがいつもと違ったから。ついかっとなって売り言葉に買い言葉で。あの時からアンジェリーヌは別人のようだった。アンジェリーヌは優しくて、気品があって、花が咲くような笑顔が似合っていて・・・でもいつのころからものを言わなくなり暗くなって・・・」
「それは・・・私のせいです」
「私も悪かったのです。彼女の苦しみに全く気がつかず助けなかったばかりか・・・ひどい態度をとってしまった。だから・・・彼女はもう愛想が尽きてあのような・・・」
「ロジェ殿は娘に・・・本当に好意を持ってくださっていたのですか?」
「もちろんです。・・・信じていただけないのも無理はありませんが」
「あの子が奇跡的に目覚めたら、私は今度こそ娘が幸せになる道を選ばせるつもりです。うちが嫌なら公爵家で暮らすことも認めます」
その言葉にロジェは、アンジェリーヌの目覚めと自分を選んでくれることを祈るしかなかった。
みんなの祈りが届いたのか、ついにアンジェリーヌが目覚めた。
しかもロッシュ家からナリスとフェリクスが見舞いに来た時間に、ロジェが鉢合わせをするという最悪の雰囲気の中で。
「アンヌ!」
いち早くアンジェリーヌの様子に気がついたフェリクスが弾んだ声をあげた。
アンジェリーヌの目蓋が少し震えたかと思うとゆっくりと目があいた。
訳が分からないというように目を瞬くと、驚いたように周りを見渡した。
ナリスが近寄ろうとするより早く、ロジェがアンジェリーヌの側によるとその側に跪いた。
「アンジェリーヌ、気分はどう?大丈夫かい?」
「ロジェ様・・・どうして?」
アンジェリーヌは私室で、ベッドに寝ている自分の側にロジェがいるのを見て頬を染めた。
「君は長い間意識を失っていたんだ。ようやく・・・ようやく戻ってきてくれた。ありがとう」
ロジェは涙を落とした。
アンジェリーヌは信じられないというようにそれを見たが、嬉しそうにほほ笑んだ。そしてその後ろに立っているナリスやフェリクスと目が合うと恥ずかしそうに頬を染めながら
「あの・・・ロジェ様のご友人ですか?」
と言った。
「え!?」
皆が驚いて声をあげた中、ナリスだけは黙っていた。
ナリスは悲しそうに顔を歪めると、唇を一度ぎゅっと噛みしめてから笑顔を作り、
「ええ、そうです。気がつかれて良かった、まだ体調も十分ではないでしょうから私どもはこれでお暇します」
そう言ってナリスはフェリクスを連れてアンジェリーヌの部屋を出た。
「兄上! どういうことですか! アンヌの側にいないと・・・」
フェリクスがそう言い、追いかけてきたアベルも
「ナリス様!お待ちください!」
と引き留めた。
しかし、ナリスは力なく首を振ると、
「彼女には婚約者がいる。私の出る幕ではないよ」
アンジェリーヌに冷たい以前のロジェでなかった。今の彼ならアンジェリーヌを大切にしてくれるはずだとナリスは思った。
「兄上⁈」
「ナリス様⁉」
二人の声にもう何も答えずナリスは公爵家の馬車に乗りこんだのだった。
一方、部屋に残されたロジェも驚いていた。
アンジェリーヌとナリスの間にはもっと深い絆があったはずだ。
意識のないアンジェリーヌの側でずっと祈っていたあの男が、あんなにあっさりと帰っていくとは思わなかった。そしてアンジェリーヌもナリス達によそよそしく、婚約者の自分に頬を染めている。
アンジェリーヌにけんもほろろな態度をとられ、ナリスと仲の良いところを見せられると覚悟そしていた。それがいい意味で予想が外れ、ロジェはほっとした。
「ロジェ様?私はどうしたのでしょう」
「君は階段から突き落とされたんだ。何か覚えていないかい? 誰か見た?」
「突き落とされた? 何も覚えていません」
不安そうな表情になるアンジェリーヌは、以前のアンジェリーヌにすっかり戻っていた。
「君はロッシュ家の侍女として世話になっていたのだろう? その時何かなかったかい?」
「ロッシュ公爵家ですか? 侍女なんてなんのことですか?」
「え?! さっきの二人は知っているだろう?」
しかしアンジェリーヌは首をかしげて
「ではあのお二人はロッシュ家の方々なのですか? なぜ私のお見舞いに!? ロジェ様のご友人ではないのですか?」
アンジェリーヌがとぼけている様子はなかった。
その後も少し話をしたが家出する少し前からの記憶が全くなく、婚約解消の事も全く知らない様子だった。
頭を打ったせいだろうかと心配な点は多々あるものの、アンジェリーヌが婚約解消の事を全く覚えていないことにロジェは胸をなでおろしたのだった。
知らせを受けて飛んで帰って来た侯爵に抱きしめられ、すまなかったと謝られたアンジェリーヌは父の優しい態度に嬉し涙を流した。
そして自分をいじめていたマノンやメイドたちがいなくなっていたことに驚いた。それに心から安堵しつつ、やけに親し気な弟といい、自分を甘やかそうとしてくれる父といい侯爵家にどんな変化があったのかと首をかしげた。
すぐに医者が呼ばれ、ゆっくり休みなさいと言う言葉に従いアンジェリーヌはもうしばらく寝室でゆっくりと過ごすことになった。
転落事故の事、義母がいなくなったことやロジェが優しくなったことなど自分の知らないことが多いことに不安を覚え、ぼんやり天井を見ながら色々考えているとき、不意にとても大切なことを思い出した。
白い世界の事を。
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