イシャータの受難

ペイザンヌ

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第3部 佐藤の試練

第31話 Othello【白と黒のゲーム】

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「俺はN区のヴァン=ブランの使いでやって来た」
「ヴァン=ブラン?」

 その名前にシースルーのヒゲがピクリと反応した。

「我々は主を失い野良になった三十匹の猫だ。N区とS区の堺にある公園一帯を開放してもらうべく交渉に参上した。ザンパノ殿の寛大な心使いを求める次第である」
「そりゃまた随分と都合のいい要求だな。それで我々に見返りはあるのか?」
「ない」

 フライはきっぱりと言い切った。ここは何度もヴァンに念押しされた場面だ。

「ただし、条件として公園以外の貴殿の縄張りにはいっさいの干渉はもちろん、手を出さないと約束する」
「断る。……と言ったらどうする?」
「その時は我が将であるヴァン=ブランがS区全域のボスの座をかけて貴殿に闘いを申し込むことになる」
「…………」

 ザンパノはゆっくりと立ち上がる。外光に照らし出されたザンパノの顔を改めて見たフライは何故やつが極端に表に出るを嫌うのかがわかったような気がした。

──みにくい。

 片目は完全に潰れ、毛はうみのようなもので所々固まってしまっている。そこにはというものに今までさんざん苦しめられてきたのだろう、ザンパノの生きざまが刻印されていた。

「勝てるつもりか? この俺に」
「ヴァンは手強てづよいぜ?」
「ザンパノ、そいつだよ」
「?」

 シースルーがゆっくりと顔をもたげる。

「聞いたことがあるんだ。『ヴァンブラン』というのは確か鳥どもの小話に出てくる主人公の名前だよ。流れ的にみてもどうやら彼こそが『鳥の名を持つもの』らしいね」

『さっきから何故こいつらはこれほどにこだわるのだろう』とフライが思っている間も、シースルーの頭の中ではコツコツとパズルのピースが埋められていく。

「おそらく本来のシナリオはこうだ。ザンパノ、君はこいつらの要求を断る。そしてそのヴァン=ブランってヤツと対決することになり、敗れる。それが予言の答えなんだと思うよ」

 ザンパノは低く唸った。

「ならばおまえは闘わずしてこいつらの要求を飲めというのか?」
「別にいいんじゃないの? あんな公園の一つや二つくれてやったって。そこはさほど重要なポイントじゃないよ」

 シースルーは可笑しそうにくっくと笑う。

「ほ、本当か?!」

 名前だの予言だの、何を言ってるのかさっぱりわからないがフライにとってこんな風に簡単に話がまとまってくれるならばそれに越したことはない。

「そのかわり──」

 またきた。『だったら』『それなら』『そのかわり』は絶体に御法度である。

「そのヴァン=ブランってヤツのと引き換えってことでどうだろう?」





 フライは十秒ほど瞬きをするのを忘れていた。

「? ? ? ──」

 言葉の意味を理解するまでに随分時間がかかった。また、理解ができても意味が不明だった。

 こいつらがヴァンに何か恨みでもあるというのであればともかく、フライにはこの交換条件の意図がさっぱり見えない。フライが戸惑っているその間、シースルーはザンパノにそっと囁いていた。

「他はさておき『鳥の名を持つもの』、これはこの予言の最重要キーワードだ。この脅威だけはどうしても取り除いておかなければならない。それに、ほら、ザンパノ」

 そう言ってシースルーはザンパノにフライの額を促した。

「見て、あの黒猫の額にある白い斑点スティグマ。あれこそがだ。彼こそが第三の目を持つ猫だよ。彼は『鳥の名を持つもの』を倒す方法を知っている」

 シースルーはフライに向き直り単刀直入に問い詰める。

「ねえ、黒猫、どんな経緯いきさつでここに来たか知らないけど、君さ、そのヴァン=ブランって奴に対してよこしまな感情を抱いてるんじゃない? 恨み辛み? 過去の因縁? もしくは嫉妬とか……。僕もいろいろ考えたんだけどさ、そうでなければ辻褄が合わないんだ」

 フライは胸の内を見透かされたような気がしてドキリとした。そしてシースルーはフライのそういう微妙な表情を決して見逃すことはない。

「だって君はヴァン=ブランを裏切る運命にあるからね。君は彼の弱点、もしくは彼を倒す方法を知ってるね? それと引き換えならあの公園くらいくれてやってもいいって僕らは言ってるんだよ。ねえ、ザンパノ?」

 予想だにしていない展開にフライは混乱した。

──裏切る? 俺が? ヴァンを?

 シースルーは目を閉じた。

「黒猫。君ね、一国一城の主になれるよ。そう遠くない未来、自分自身の縄張りレンジを持てるんだ。嘘じゃない。僕にはその姿が見えるんだ。何を言ってるんだって思うかもしれないけど、僕はね、未来が見えるんだ」
「俺が……一国一城の主?」
「協力してくれるよね。君もヴァン=ブランが邪魔なんだろ? お互いの利害関係は一致しているし、悪い話じゃないと思うんだけどなぁ」
「待て! 勝手に話を進めるな」
「君は戻って“交渉は決裂した”と伝えればいい。そうすればそのヴァン=ブランはザンパノと対決することになるだろ? そこで僕たちは手を組み彼の命を奪う。そうだな…………『公園は勇敢なヴァン=ブランの死をたたえ、寛大なる心のザンパノが譲渡する』という筋書きにすればいいんじゃないかな」

 シースルーは説法を説く僧のようにとくとくと語り、フライに考える隙を与えようとしない。

「ふざけるな。もし裏切りがバレたら俺は破滅するんだぞ!」

 シースルーはにっと笑う。言葉の節々にフライの心が傾きかけているのがありありと見て取れるからだ。

 もう一息だ。

「大丈夫、バレやしない。なぜならヴァン=ブランは死ぬから。だから」


 ▼▲▼▲▼▲


──ウラギリ? ……ヴァンがシヌ?

 どうにも話が呑み込めない。佐藤はこの場に漂う不穏な空気を確かに感じていた。なにか良からぬことが起きようとしているのではないか……という。

 一語も聞き流すまいと佐藤はピンとその小さな耳を立てた。

 ▼▲▼▲▼▲

 まるで血が逆流しているようだった。フライは身体中の毛穴から変な汗が流れ出るのを感じた。

──なんだこれは? 俺はただ交渉に来ただけだろ? なのに何故、俺はこんな話をこいつとしてるんだ?

「さあ、取引に入ろうよ。君はそのヴァン=ブランを倒す方法を知ってるね? いや、知ってるはずだ」
「…………」

 フライは頷いた。頷くというよりは目をきつく瞑って、ただ首を縦にゆらゆらと動かしているようにも見える。

「確かに……この方法ならヴァンを九割がた倒せる。だが、倒すだけじゃ駄目だ。確実に息の音を──」

 シースルーは目を蘭々と輝かせた。

「……止めてもらう。これが条件だ」

 ガシャガシャ! ガシャン! ドタッ!──

 窓の外からビールケースの崩れる音が響いた。

「誰だっ!」
(にゃ、にゃお~ん♪──)
「なんだ、猫か……」
「バカッ、俺たちも猫だっ!」

 シースルーはハッとなり、窓の外へ走り出した。

曲者くせものだ! なんとしても捕まえろ!」

 ザンパノの怒号の前にフライも走り出していた。

──まずい…………誰だか知らんが今の会話を漏らされるわけにはいかない。何としても!


 さいは投げられたのである。
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