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第2部 ヴァン=ブランの帰還
第20話 99 gone away【99(後編)】
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(わかったわ、ヴァン=ブラン。あなたがもし100日間、休まずに私の庭の前で、私の聴いたことのない歌を100曲歌ってくれたらその時は考えてやってもいいわ──)
イシャータとそんな約束をしたちょうど半分の50日を過ぎたあたりでヴァンはひどい熱にうなされた。昨晩、雨ざらしの中で歌い続けたからに違いない。
もうすぐ夜中になろうとしているのに立ち上がるのさえ必死な状態だった。そんな状態にも関わらずヴァンの中からまた新しい歌は生まれてくる。
『これはいいぞ。これは最高だ。この歌をアイツに聞かせないでどうする』
朦朧とする意識の中、ヴァンはやっとの思いで立ち上がったがヨタヨタと歩くので精一杯だった。
──ほらね、思った通りだわ。続くわけないのよ。
イシャータは勝ち誇っていた。しかし……。
なんだろう、この気持ちは?
どうにもモヤモヤして眠れない。
『何よ……ちょっと遅すぎやしない? マジでやめちゃうわけ?』
イシャータは思い切ってベッドから飛び降りた。自分でもよくわからぬ苛立ちを胸に抱えてベランダに出る。ヴァン=ブランがフラフラと庭に入ってきたのは丁度その時だった。
はからずも鉢合わせの形となってしまったためイシャータの心臓はドキリと跳ねあがった。思わず息を飲む。顔が火照っていくのを感じた。
二匹が顔と顔、そして目と目を合わせたのは約40日ぶりだった。ヴァンは虚ろな目でにやりと笑みを浮かべる。
「待たせたな、レディース & ジェントルメン! ちょいとばかし飛行機が遅れちまったもんでね」
そんな風におどけて見せてはいるもののヴァンの息づかい荒かった。体調が悪いのは誰が見ても明らかだった。
その夜の曲は今までの中でも最高の出来栄えだったといえるが、一方でそれを歌うヴァンの声といえばガラガラでそれはそれは酷いものだった。
『何よこれ? 聞いてらんないわ……』
そんな思いとは裏腹に、それはイシャータが初めてフルコーラスをベランダの上で聴いた夜となった。『あの映画ではこのエピソードの結末はどうなっていただろう?』そんなことを考えながら。
▼▲▼▲▼▲
65日目の朝、ヴァン=ブランに異変が起きた。
曲がうまく完成しないのだ。
こんなことはヴァンにとっても初めてだった。歌が閃かないわけではない。ただ、納得がいかないのだ。得体の知れない焦りの中、なんとかその夜は歌い終えることが出来たがヴァンは『歌う』ということに対し、初めて恐怖を覚えていた。
その日からヴァンにとって地獄の日々が始まった。
75日目。
まるでからからに乾いた雑巾から一滴の水を絞るような日々が続いていた。本来、『無』から何かを作り出すということは突き詰めて言えば自分自身と向き合う作業に他ならない。
今まで『陽』だったものが──ある日を堺に突然──すべて『陰』へと変わる瞬間だった。
『俺は本当にイシャータのことが好きなんだろうか? ただクローズのことを忘れようとしてるだけじゃないのか?──』
そんなことに始まり、
『こんなことをしてイシャータが本当に振り向いてくれるのか?──』
と、さらに重みを増してくる。
代わりに託される使命といえば、今度はその中からさらに眩しい『陽』を見つけ出すことへと変わる。
ヴァンの場合、それまで『陽』の部分が他より遥かに大きかったため、反動もまた人一倍大きかったといえた。今やヴァンはそんな砂漠の中でほんの一握りの砂金を探し求め続ける漂泊者となりつつあった。
『そもそも俺はいったい何をやってるんだ? 毎日毎日女の気を引くためにこんなことをやってる日々に何か得るものなどあるのか?──』
そういった様々な疑問が行列をなし、ヴァンの答えを待ちわびている。まるで底のない奈落に向かってどんどん落下していく気分だった。最後には、いつしか──
『俺とは何者なのだ?──』
『何のため生きているんだ?──』
そういった数多の流星群をかわしながらつるつると滑る氷の上を走り始めなければならなくなる日がくるだろう。それは、そう、さほど遠くない未来に。
85日目。
ヴァンは憔悴していた。
どうしても心の奥底から歌が生まれてこないのだ。幸か不幸か耳を澄ませばメロディは溢れてくる。くるのではあるが……。
『俺は一度だって努力をしたことがあったろうか──』
『俺の歌なんて完成された絵に半紙を乗せて“なぞっていた”だけじゃないのか──』
と、昨日とはまた違うそんな疑問が打ち寄せてくる。
ヴァンは自分の歌がいかに薄っぺらで上部だけだったのかを思い知った。
これでみんなが喜んでくれるだと?
ちゃんちゃら可笑しい。
ヴァンは自分の名前の由来ともなった鳥たちの『ヴァンブラン・ボイス』の物語をいつしか思い返していた。
──なるほど、『声を盗まれる』とはこういうことなのかもしれないな。
全てがその物語どおりに進行している皮肉にただ苦笑するしかなかった。
95日目。
ヴァンはとうとう行き場のない叫び声をあげた。
『ダメだ……俺の歌はクソだ! クソ以下だ!』
これは実質的にヴァンの敗北宣言だったといえる。いったい自分が何に負けたのか、それすらわからないままに。
99日目。
ヴァンはイシャータの聴いたこともないような曲を99日、ついに歌い通した。約束の日まであと一日である。イシャータは真剣に思いを巡らせた。
『ヴァンはやり遂げた。明日の夜……今度は私が答えを出さなければならない』
その日、ヴァンはひょいと塀の上に飛び乗ると、いつもよりも長くイシャータの顔を見つめていた。もちろんそれがしばしの別れになるであろうことなどその時のイシャータには気付くはずもない。
ヴァンは振り返ると闇の中へ勢いよくジャンプした。
それ以来『N区』でヴァン=ブランの姿を見かけた者はいない。ただイシャータの目に銀色の残像が残っているだけだった。イシャータはのちにそれが映画のエピソードの結末と同じだということを思い出した。
主人公の少年は老人に尋ねていた。
『どうして彼は去ったの? たったあと一日じゃないか?』
老人は答える。
『さあな、それがわかったらわしにも教えてくれ』
そしてそれはイシャータと同じ気持ちだった。
イシャータとそんな約束をしたちょうど半分の50日を過ぎたあたりでヴァンはひどい熱にうなされた。昨晩、雨ざらしの中で歌い続けたからに違いない。
もうすぐ夜中になろうとしているのに立ち上がるのさえ必死な状態だった。そんな状態にも関わらずヴァンの中からまた新しい歌は生まれてくる。
『これはいいぞ。これは最高だ。この歌をアイツに聞かせないでどうする』
朦朧とする意識の中、ヴァンはやっとの思いで立ち上がったがヨタヨタと歩くので精一杯だった。
──ほらね、思った通りだわ。続くわけないのよ。
イシャータは勝ち誇っていた。しかし……。
なんだろう、この気持ちは?
どうにもモヤモヤして眠れない。
『何よ……ちょっと遅すぎやしない? マジでやめちゃうわけ?』
イシャータは思い切ってベッドから飛び降りた。自分でもよくわからぬ苛立ちを胸に抱えてベランダに出る。ヴァン=ブランがフラフラと庭に入ってきたのは丁度その時だった。
はからずも鉢合わせの形となってしまったためイシャータの心臓はドキリと跳ねあがった。思わず息を飲む。顔が火照っていくのを感じた。
二匹が顔と顔、そして目と目を合わせたのは約40日ぶりだった。ヴァンは虚ろな目でにやりと笑みを浮かべる。
「待たせたな、レディース & ジェントルメン! ちょいとばかし飛行機が遅れちまったもんでね」
そんな風におどけて見せてはいるもののヴァンの息づかい荒かった。体調が悪いのは誰が見ても明らかだった。
その夜の曲は今までの中でも最高の出来栄えだったといえるが、一方でそれを歌うヴァンの声といえばガラガラでそれはそれは酷いものだった。
『何よこれ? 聞いてらんないわ……』
そんな思いとは裏腹に、それはイシャータが初めてフルコーラスをベランダの上で聴いた夜となった。『あの映画ではこのエピソードの結末はどうなっていただろう?』そんなことを考えながら。
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65日目の朝、ヴァン=ブランに異変が起きた。
曲がうまく完成しないのだ。
こんなことはヴァンにとっても初めてだった。歌が閃かないわけではない。ただ、納得がいかないのだ。得体の知れない焦りの中、なんとかその夜は歌い終えることが出来たがヴァンは『歌う』ということに対し、初めて恐怖を覚えていた。
その日からヴァンにとって地獄の日々が始まった。
75日目。
まるでからからに乾いた雑巾から一滴の水を絞るような日々が続いていた。本来、『無』から何かを作り出すということは突き詰めて言えば自分自身と向き合う作業に他ならない。
今まで『陽』だったものが──ある日を堺に突然──すべて『陰』へと変わる瞬間だった。
『俺は本当にイシャータのことが好きなんだろうか? ただクローズのことを忘れようとしてるだけじゃないのか?──』
そんなことに始まり、
『こんなことをしてイシャータが本当に振り向いてくれるのか?──』
と、さらに重みを増してくる。
代わりに託される使命といえば、今度はその中からさらに眩しい『陽』を見つけ出すことへと変わる。
ヴァンの場合、それまで『陽』の部分が他より遥かに大きかったため、反動もまた人一倍大きかったといえた。今やヴァンはそんな砂漠の中でほんの一握りの砂金を探し求め続ける漂泊者となりつつあった。
『そもそも俺はいったい何をやってるんだ? 毎日毎日女の気を引くためにこんなことをやってる日々に何か得るものなどあるのか?──』
そういった様々な疑問が行列をなし、ヴァンの答えを待ちわびている。まるで底のない奈落に向かってどんどん落下していく気分だった。最後には、いつしか──
『俺とは何者なのだ?──』
『何のため生きているんだ?──』
そういった数多の流星群をかわしながらつるつると滑る氷の上を走り始めなければならなくなる日がくるだろう。それは、そう、さほど遠くない未来に。
85日目。
ヴァンは憔悴していた。
どうしても心の奥底から歌が生まれてこないのだ。幸か不幸か耳を澄ませばメロディは溢れてくる。くるのではあるが……。
『俺は一度だって努力をしたことがあったろうか──』
『俺の歌なんて完成された絵に半紙を乗せて“なぞっていた”だけじゃないのか──』
と、昨日とはまた違うそんな疑問が打ち寄せてくる。
ヴァンは自分の歌がいかに薄っぺらで上部だけだったのかを思い知った。
これでみんなが喜んでくれるだと?
ちゃんちゃら可笑しい。
ヴァンは自分の名前の由来ともなった鳥たちの『ヴァンブラン・ボイス』の物語をいつしか思い返していた。
──なるほど、『声を盗まれる』とはこういうことなのかもしれないな。
全てがその物語どおりに進行している皮肉にただ苦笑するしかなかった。
95日目。
ヴァンはとうとう行き場のない叫び声をあげた。
『ダメだ……俺の歌はクソだ! クソ以下だ!』
これは実質的にヴァンの敗北宣言だったといえる。いったい自分が何に負けたのか、それすらわからないままに。
99日目。
ヴァンはイシャータの聴いたこともないような曲を99日、ついに歌い通した。約束の日まであと一日である。イシャータは真剣に思いを巡らせた。
『ヴァンはやり遂げた。明日の夜……今度は私が答えを出さなければならない』
その日、ヴァンはひょいと塀の上に飛び乗ると、いつもよりも長くイシャータの顔を見つめていた。もちろんそれがしばしの別れになるであろうことなどその時のイシャータには気付くはずもない。
ヴァンは振り返ると闇の中へ勢いよくジャンプした。
それ以来『N区』でヴァン=ブランの姿を見かけた者はいない。ただイシャータの目に銀色の残像が残っているだけだった。イシャータはのちにそれが映画のエピソードの結末と同じだということを思い出した。
主人公の少年は老人に尋ねていた。
『どうして彼は去ったの? たったあと一日じゃないか?』
老人は答える。
『さあな、それがわかったらわしにも教えてくれ』
そしてそれはイシャータと同じ気持ちだった。
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