イシャータの受難

ペイザンヌ

文字の大きさ
上 下
18 / 42
第2部 ヴァン=ブランの帰還

第18話 Sounds not to harmonize【すれ違う音色たち】

しおりを挟む
【イシャータ】

(また、彼の歌が聞こえる……)

 飼い猫時代のイシャータはベッドの傍らで御主人様と一緒に眠りにつくのが常だった。

 真夏の夜風が少しだけ開いた硝子戸のレースカーテンをふわりとふくらませる。イシャータは御主人様が寝静まったベッドからそっと飛び降りてそこからベランダへと出た。『飼い猫』のあかしである赤い首輪がチリンと揺れる。

 初めて歌声が聞こえたのもこんな満月の夜だった。月はあれから二度姿を変え、みたび完璧な円を夜空に描き出している。

 六十日が過ぎ、九十日を迎えたのだ。ということはヴァン=ブランが宣言した『百日』まであと十日ということになる──



【ペイザンヌ】


「おい、ペイ! 見ろよ、あのシャムだ」

 若き日のヴァン=ブランは目をギラつかせ、わしゃに言った。

「イシャータ?」
「ふーん、イシャータっていうのか」
「イシャータは『飼い猫』だろ?!」
「だからどうした。愛にノラも飼い猫もあってたまるか」
「愛ね……」
「なんだよ。俺は本気なんだぜ?」
「クローズの時もそう言ってたじゃん」
「もちろんあの時だって本気だったさ。しかしだ、いいか、俺はフライにバトルで勝ったんだぜ? なのにクローズはフライのやつを選んだ。こんな理不尽な話ってあるか?」
「試合に勝って勝負に負けることもあるのだ」
「うるせえな! だから俺は負けてないんだって! だったらおまえは何か? 愛ってやつは永遠で? 一生に一度きりで? そいつが報われなきゃその後はずっとクヨクヨしてなきゃなんねえってのか? フン、そんなのは俺の性に合わねぇな」
「そうは言ってないだろに」
「見てろ、俺はイシャータを必ずオトしてみせるぜ。クローズなんかより十倍も百倍もいいメスだ」

 ヴァンはそう吐き捨てるとイシャータの後を追いかけた。

「やれやれ……」

 わしゃは首を振るしかなかった。


【ヴァン=ブラン】


 その日は雨だったが俺は道の真ん中に突っ立っていた。正直クローズがフライのやつを選んだことはショックだった。

 なぜフライなのか? どうして俺ではダメなのか? 俺とフライの違いは何なのか?

 まるで自分の存在全てが否定されたようで空に八つ当たりしたい気分だった。

(……へへんだ。こんなんじゃ、ちっともこたえねぇな。もっとナベをひっくり返したように降らせてみやがれってんだ──)

 所詮はフラれたことに対して酔いしれたかっただけだ。わかってはいるのだが俺は二日間だけ自分にクヨクヨするのを許すことにした。

 だが二日だけだ──それでもまだウジウジしてるんなら俺は自分で自分を呪い殺してやる。

 あいつが俺の前を通り過ぎていったのはそんな時だった。
 突然の雨に降られ家路に急ぐ飼い猫のシャム。

 シャムはご丁寧にもこの豪雨の中を立ち止まって俺の方を振り返った。

「あんた、バッカじゃないの? 何そんなとこでボーッと突っ立ってんのよ」

 初対面のオスにそれだけの言葉を突然ふっかけてくるとはたいしたタマだ。俺は少し目を丸くしたが、なんだか可笑しくなった。何故ならそれは現在の俺の心のうちを叱咤するような言葉でもあったからだ。

「別に濡れたって死にゃしねえよ」

 俺はいわゆる買い言葉というやつを返す。

「バカね、耳の中に水が入ると大変なんだから」

 俺はふふんと笑ってみせた。ヒゲをつたって水滴がリズムよく垂れていく。

「やっぱり『野良猫ノラ』の考えていることはわけわかんないわ。その薄汚い毛並みがもっと汚くなる前に帰った方がいいと思うけど。あら、ごめんなさい、帰るところなんてないのよね」
「俺は別にノラじゃねえよ。『猫屋敷』で飼われてるぜ」
「『猫屋敷』!」

 イシャータはくすくす笑った。

「あぁ、あのお化け屋敷みたいなとこね。ノラの人間がノラの猫を集めてるだけじゃない。あんなの飼われてるなんて言えないわ」
「まあ、そうかもな」

 俺があっはっはと笑い飛ばしたのでシャムのやつめ、面白くないらしい。

「もういいから行けよ。いつまでも俺なんかに付き合ってるとおまえの方こそ風邪ひくぞ」
「…………」

 逆に同情されてさらに気分を害したのか、シャムは露骨にフンと横を向き雨の中を走り去っていった。気の強いメスは嫌いじゃない。

(クローズに似てるな……)

 一瞬そんな思いがまた頭によぎる。雨のやつは俺の罵倒に腹を立てたのか、いっそう激しさを増しつつあった。


【ギリー】


 お婆さんがシャッターを押す瞬間、ヴァンはふざけて私の頭の上に前足を乗せた。

「なにすんだよぉ!」

 ヴァンはあっはっはと笑った。ヴァンは最近機嫌がいい。よく笑うし冗談も言うし遊んでもくれる。

 ヴァンが笑いかけてくれると私は幸せな気分になる。それもたくさんたくさんだ。この気持ちを音にするとどんなだろう?

 ほにょほにょ?

 ふにふに?

 言葉ではうまく言い表せないや。でも──私は知ってしまったのだ。どうして彼の機嫌がいいのか、その理由を。

 ヴァンはこのところ毎日深夜になると『猫屋敷』を抜け出してどこかいなくなってしまう。だからある晩、私は彼のあとをこっそりつけてみることにした。体が大きくスピードも速い彼についていくのは子猫の私には至難のわざだったが、それでも時々月が照らし出すヴァンの銀色の毛並みを目印にして必死に後を追いかけた。

 ギンザ通りの商店街を抜け、横断歩道を走り、塀を飛び越え、やがて住宅街に辿り着くとヴァンはとある一軒家の庭に入っていった。

──これからなにが始まるのだろう。

 私は少し離れたところからヴァンの姿を見張っていた。

 ヴァンはしばらく二階の窓を見上げて何か物思いにふけっているように見えた。やがて夜の静寂にヴァンの歌声が溶けていく。それはいつ歌い始めたのか気付かぬくらいに自然だった。まるで眠っている誰かを起こさぬように、いやむしろ──まずは夢の中にそっと忍び込み、そこから優しく呼び掛けるように……。

 あの武骨で暴れん坊のヴァンが歌っている時だけはまるで音符の妖精のようになってしまう。

 物語にある『鳥のヴァンブラン』が愛するトリルのために奏でた歌はきっとこんな感じだったに違いない。私は何故自分がここにいるのかすらも忘れて、しばしヴァンの歌声に耳を傾けてしまっていた。

『この歌を私のためだけに歌ってくれたらどんなにか素敵だろう──』

 でもヴァンはいつも私のことなど子供扱いだ。私がちょっと成長したかと思えばヴァンもまたちょっと先へ行く。いつまでたっても追いつけやしない。

『私の周りだけ、もっと時間が速く流れてくれればいいのに……』

 そんなことを考えていた時だ。二階のベランダでチリンと鈴の音がして私は現実の世界に引き戻された。

 顔を出したのはシャム猫のイシャータだった。

 私は自分の中で何かが音をたてて崩れていくのをハッキリ感じた。この目の前に置かれた風景の意味を理解するのにさほど時間はかからない。この『間違い探し』の答えは子猫の私であっても簡単に解ける問題だった。

 ヴァンはヴァンで幸せの音色を奏でていたのだ。そしてその音は私の中の音とは決して重なり合うことはないのである。


【イシャータ】


(また、彼の歌声が聞こえる──)

 イシャータは御主人様が寝静まったベッドからそっと飛び降り、ベランダに出た………………。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。

三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎ 長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!? しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。 ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。 といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。 とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない! フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

うちでのサンタさん

うてな
ライト文芸
【クリスマスなので書いてみました。】  僕には人並み外れた、ある能力を持っていた。 それは『物なら一瞬にして生成できてしまう』能力だ。 その能力があれば金さえも一瞬で作れてしまう、正に万能な能力だった。 そして僕はその能力を使って毎年、昔に世話になった孤児院の子供達にプレゼントを送っている。 今年も例年通りにサンタ役を買って出たんだけど…。 僕の能力では到底叶えられない、そんな願いを受け取ってしまう…  僕と、一人の男の子の クリスマスストーリー。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

受けさせたい兄と受けたくない妹(フリー台本)

ライト文芸
受験生になった妹がインフルエンザの予防接種を受けに行くことになったが

処理中です...