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第2部 ヴァン=ブランの帰還
第16話 Wild at heart【傷あと】
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『わしゃの名はペイザンヌ、N区の野良猫だ』
皆が一斉に笑った。
『な……なんにゃ? なんで笑うのにゃ?!』
イシャータも思わず笑ってしまった。
「似とる」
「似てる似てる!」
『コラ! このクソガキども、てめえらまとめて踏みつぶしてやるぞ 』
「今度はギノスや」
「ギノス、ギノス! 似てる!」
子供たちはヴァン=ブランの『ものまね』に大はしゃぎだ。
「こんなもんじゃないぞ。よし、今度は〈ウミネコ〉の声を真似てやろう」
「〈ウミネコ〉ってどんな猫やのん?」
頬の傷あとがまだ生々しい佐藤が尋ねる。
「うむ、ここからずっと歩き続けるとだな、そこにはデッカイデッカイ水溜まりがある。それがまあ海というものなんだが……」
「この庭よりデッカイ?」
ようやく喋れるようになった仔猫たちがピョンピョン跳び跳ねた。
「あっはっは、デカイデカイ! お前らなどザブンとひと飲みだ」
『うにゅ~』と仔猫たちは肉球で目を押さえた。
「んで、その海っちゅうとこに猫がおるわけやな。そいつら泳げるんか?」
佐藤は人魚の猫バージョンを思い浮かべて興奮した。
「それがだな、なんと〈ウミネコ〉は鳥だ。奴らはこうやって鳴く。見てろ」
ヴァン=ブランは前足をバタバタやりながら『ミャアミャア! ミャア~!』と得意の声芸をを披露してみせる。
おどけているとはいえ鳥に育てられ鳥の言葉を話せるヴァン=ブランの物真似はまさにウミネコそのものだった。
集会の時とはうって変わったヴァンの道化ぶりに皆は腹を抱えて笑った。
「うっそやぁ! そんな鳥おるわけないがな」
「それだったらあたしでもできるよ。ニャー! ニャーニャー!」
「そりゃ、ただの猫やんけ」
また場がどっと沸いた。
それを区切りにヴァンは先程からこちらをチラチラとうかがっているイシャータのもとへ歩み寄ろうとしたのだが、ちょうどそのタイミングでクローズに耳打ちされてしまった。
三毛猫のクローズは今でこそフライの妻であるが、この『猫屋敷』では古参でもあった。もともとここにいたのはヴァンとクローズ二匹のみであり、そういった意味では幼馴染みや兄妹のように長いつきあいでもあったのだ。
「ヴァン、ちょっといい?」
「ん?」
冷蔵庫の一点に爪を引っ掛けるとヴァン=ブランはなんなくその扉を開けてみせた。さっきまで汗だくになってこじ開けようとしていたメタボチックが叫ぶ。
「魔法だ!」
「コツがある。ガキの頃、婆さんの目を盗んでよくつまみ食いしたもんだ」
「でも……思ったより少ないわ」
「ふむ。そうだな、三十匹じゃどう節約してももって三日くらいだな。あとは自給自足か」
ヴァンは冷蔵庫の中身をチェックしながらクローズにポツリと言った。
「クローズ。その、なんだ、フライにはすまなかったな」
クローズは一瞬なんのことかわからなかったが、すぐに理解し声を上げた。今朝、庭で一悶着あったリーダー権争いのことだ。
「ああ! ……仕方ないよ。他の時ならいざ知らずこういう場合でしょ。不本意ながら──頼りにすべきはあなたの方かなって私も思ってたし。てゆーかさ、あんたね、あんな場面で普通賭けなんかする?」
クローズはヴァンに負けず劣らず豪快に笑うと目を細め、からかうように小声で囁いた。
「だいたいあんたにリーダーなんか務まるの? いっつも一匹歩きばっかのくせに」
「ふむ……」
それでもヴァンはフライのことが気になってるのか言葉尻が下がる。
「フライのことなら気にしないで大丈夫よ。旦那を慰めるのも妻の仕事のうちってね」
ヴァンはしげしげとクローズを見つめ返した。
「ふーん。いい女になったもんだな」
「あははは、ちゃかさないでよ。それとももう一度口説いてみる?」
二匹はしばし真顔で見つめ合ったが、やがてどちらがというわけでもなしに吹き出してしまった。気まずいような照れ臭いような静寂がお約束のように訪れ、それをクローズの言葉がゆっくりと溶かしてゆく。
「……ヴァン、それでもね、やっぱり私はフライを選んだことを後悔してないよ。だってさ、あなたはさ、なんだかんだ言ったって一匹でも生きていけるもの」
そう言うとクローズは冷蔵庫の扉をぱたりと閉めた。ヴァン=ブランはそれに対して何か答えようとしたが、開いた口をおとなしく閉じることにした。今、ここで何か言葉を口に出すことは自分にとっても反則のように思えたのである。どうせ言葉にするのであれば後回しになどせず『あの時』にそうしておくべきだったのだ。
あれも夏の日だった──
ヴァンは思い返していた。
旅に出る前のことを。
今よりもっと若く、血気盛んだった時のことを。
そして今、目の前にいるこの美しい三毛猫を巡ってフライとバトルをしたあの日のことを──
▼▲▼▲▼▲
あの日のフライは本当に強かった。まるで天までもがフライの味方をしているようだった。先ほどまで広がっていた青空が急転し、夕立ちを乗せた雨雲が空一面を包み込むと辺りを暗くし始めたのだ。暗闇の中で黒猫と闘うのはハンデを背負わされているようなものだった。
いつも温和な性格のフライなど楽勝だと高をくくっていたせいもあったが、それ以上にフライのクローズに対する想いの丈──その高さを見誤っていたことこそヴァン=ブランが苦戦を強いられた最大の要因だったといえた。
ニヤニヤ笑いながら闘い始めたヴァンに対し、フライは最初から最後まで全力だった。喧嘩慣れしておらずペース配分も滅茶苦茶だったため最終的にはフライが力尽きる形となってしまったが、序盤でのフライの猛攻はヴァンの体を雑巾のようにボロボロにしていた。
余裕だと思っていたのが一転、まるでダブル・ノックアウトを食らい先に立ち上がった方が勝ちといったような『スタミナ頼りの辛勝』になってしまった。
そのことがヴァンにはショックだった。
フライのクローズに対する想いが自分のものより重いことを身をもってぶつけられた気がしたのだ。
「なにやってんのよ! あんたたち!」
小雨がぱらつき始めた頃、当の本人であるクローズがこちらに駆け寄ってきた。フライはぐったりと体を横たえ、クローズを見上げていた。
「くそ……くそっ、くそっ!」
あの時のフライの表情をヴァンは今でもはっきりと覚えていた。腫れた顔で歯を喰いしばるあの顔を。もともと温和であり、皆のリーダー格であり、そしてあまり感情をみせるタイプではないのに、そのフライがぶるぶると震えながら溢れそうになる涙を必死にこらえ、どんな表情をしていいのかわからずくしゃくしゃにしていた──あの顔を。
「大丈夫、フライ?」
フライに囁きかけるクローズのその声でヴァンは自分が完全に敗北したことを悟った。
「なんだよ、勝者はこっちなんだぜ」
そうやってまだ意気がるヴァンを睨み付けるとクローズは恫喝した。
「うるさいっ! フライもフライだよ……私を何だと思ってんだ。女を物扱いすんなっ!」
雨は次第に強さを増してきたが、ヴァンはそんなことも気にせず、フンと鼻を鳴らすとそのままふらふらと表へ向かって歩き始めた。
そしてヴァンはその日はじめてイシャータと出会った。
▼▲▼▲▼▲
「あたしたち、これからどうなっちゃうんだろね。何かいい方法でもあるの? “リーダー”さん」
急にそんな言葉を投げかけられヴァンは引き戻された。
「ん、ああ……そうだなぁ、あるといえばあるような……ないといえばないような」
「あきれた、何の策もないのにあんな大口たたいたの?」
「まあそう言うなよ。大船に乗せてやるとは言い切れんが、少なくとも泥舟でもない」
「……頼りがいのあるリーダーだこと」
クローズは目を見開いた。
皆が一斉に笑った。
『な……なんにゃ? なんで笑うのにゃ?!』
イシャータも思わず笑ってしまった。
「似とる」
「似てる似てる!」
『コラ! このクソガキども、てめえらまとめて踏みつぶしてやるぞ 』
「今度はギノスや」
「ギノス、ギノス! 似てる!」
子供たちはヴァン=ブランの『ものまね』に大はしゃぎだ。
「こんなもんじゃないぞ。よし、今度は〈ウミネコ〉の声を真似てやろう」
「〈ウミネコ〉ってどんな猫やのん?」
頬の傷あとがまだ生々しい佐藤が尋ねる。
「うむ、ここからずっと歩き続けるとだな、そこにはデッカイデッカイ水溜まりがある。それがまあ海というものなんだが……」
「この庭よりデッカイ?」
ようやく喋れるようになった仔猫たちがピョンピョン跳び跳ねた。
「あっはっは、デカイデカイ! お前らなどザブンとひと飲みだ」
『うにゅ~』と仔猫たちは肉球で目を押さえた。
「んで、その海っちゅうとこに猫がおるわけやな。そいつら泳げるんか?」
佐藤は人魚の猫バージョンを思い浮かべて興奮した。
「それがだな、なんと〈ウミネコ〉は鳥だ。奴らはこうやって鳴く。見てろ」
ヴァン=ブランは前足をバタバタやりながら『ミャアミャア! ミャア~!』と得意の声芸をを披露してみせる。
おどけているとはいえ鳥に育てられ鳥の言葉を話せるヴァン=ブランの物真似はまさにウミネコそのものだった。
集会の時とはうって変わったヴァンの道化ぶりに皆は腹を抱えて笑った。
「うっそやぁ! そんな鳥おるわけないがな」
「それだったらあたしでもできるよ。ニャー! ニャーニャー!」
「そりゃ、ただの猫やんけ」
また場がどっと沸いた。
それを区切りにヴァンは先程からこちらをチラチラとうかがっているイシャータのもとへ歩み寄ろうとしたのだが、ちょうどそのタイミングでクローズに耳打ちされてしまった。
三毛猫のクローズは今でこそフライの妻であるが、この『猫屋敷』では古参でもあった。もともとここにいたのはヴァンとクローズ二匹のみであり、そういった意味では幼馴染みや兄妹のように長いつきあいでもあったのだ。
「ヴァン、ちょっといい?」
「ん?」
冷蔵庫の一点に爪を引っ掛けるとヴァン=ブランはなんなくその扉を開けてみせた。さっきまで汗だくになってこじ開けようとしていたメタボチックが叫ぶ。
「魔法だ!」
「コツがある。ガキの頃、婆さんの目を盗んでよくつまみ食いしたもんだ」
「でも……思ったより少ないわ」
「ふむ。そうだな、三十匹じゃどう節約してももって三日くらいだな。あとは自給自足か」
ヴァンは冷蔵庫の中身をチェックしながらクローズにポツリと言った。
「クローズ。その、なんだ、フライにはすまなかったな」
クローズは一瞬なんのことかわからなかったが、すぐに理解し声を上げた。今朝、庭で一悶着あったリーダー権争いのことだ。
「ああ! ……仕方ないよ。他の時ならいざ知らずこういう場合でしょ。不本意ながら──頼りにすべきはあなたの方かなって私も思ってたし。てゆーかさ、あんたね、あんな場面で普通賭けなんかする?」
クローズはヴァンに負けず劣らず豪快に笑うと目を細め、からかうように小声で囁いた。
「だいたいあんたにリーダーなんか務まるの? いっつも一匹歩きばっかのくせに」
「ふむ……」
それでもヴァンはフライのことが気になってるのか言葉尻が下がる。
「フライのことなら気にしないで大丈夫よ。旦那を慰めるのも妻の仕事のうちってね」
ヴァンはしげしげとクローズを見つめ返した。
「ふーん。いい女になったもんだな」
「あははは、ちゃかさないでよ。それとももう一度口説いてみる?」
二匹はしばし真顔で見つめ合ったが、やがてどちらがというわけでもなしに吹き出してしまった。気まずいような照れ臭いような静寂がお約束のように訪れ、それをクローズの言葉がゆっくりと溶かしてゆく。
「……ヴァン、それでもね、やっぱり私はフライを選んだことを後悔してないよ。だってさ、あなたはさ、なんだかんだ言ったって一匹でも生きていけるもの」
そう言うとクローズは冷蔵庫の扉をぱたりと閉めた。ヴァン=ブランはそれに対して何か答えようとしたが、開いた口をおとなしく閉じることにした。今、ここで何か言葉を口に出すことは自分にとっても反則のように思えたのである。どうせ言葉にするのであれば後回しになどせず『あの時』にそうしておくべきだったのだ。
あれも夏の日だった──
ヴァンは思い返していた。
旅に出る前のことを。
今よりもっと若く、血気盛んだった時のことを。
そして今、目の前にいるこの美しい三毛猫を巡ってフライとバトルをしたあの日のことを──
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あの日のフライは本当に強かった。まるで天までもがフライの味方をしているようだった。先ほどまで広がっていた青空が急転し、夕立ちを乗せた雨雲が空一面を包み込むと辺りを暗くし始めたのだ。暗闇の中で黒猫と闘うのはハンデを背負わされているようなものだった。
いつも温和な性格のフライなど楽勝だと高をくくっていたせいもあったが、それ以上にフライのクローズに対する想いの丈──その高さを見誤っていたことこそヴァン=ブランが苦戦を強いられた最大の要因だったといえた。
ニヤニヤ笑いながら闘い始めたヴァンに対し、フライは最初から最後まで全力だった。喧嘩慣れしておらずペース配分も滅茶苦茶だったため最終的にはフライが力尽きる形となってしまったが、序盤でのフライの猛攻はヴァンの体を雑巾のようにボロボロにしていた。
余裕だと思っていたのが一転、まるでダブル・ノックアウトを食らい先に立ち上がった方が勝ちといったような『スタミナ頼りの辛勝』になってしまった。
そのことがヴァンにはショックだった。
フライのクローズに対する想いが自分のものより重いことを身をもってぶつけられた気がしたのだ。
「なにやってんのよ! あんたたち!」
小雨がぱらつき始めた頃、当の本人であるクローズがこちらに駆け寄ってきた。フライはぐったりと体を横たえ、クローズを見上げていた。
「くそ……くそっ、くそっ!」
あの時のフライの表情をヴァンは今でもはっきりと覚えていた。腫れた顔で歯を喰いしばるあの顔を。もともと温和であり、皆のリーダー格であり、そしてあまり感情をみせるタイプではないのに、そのフライがぶるぶると震えながら溢れそうになる涙を必死にこらえ、どんな表情をしていいのかわからずくしゃくしゃにしていた──あの顔を。
「大丈夫、フライ?」
フライに囁きかけるクローズのその声でヴァンは自分が完全に敗北したことを悟った。
「なんだよ、勝者はこっちなんだぜ」
そうやってまだ意気がるヴァンを睨み付けるとクローズは恫喝した。
「うるさいっ! フライもフライだよ……私を何だと思ってんだ。女を物扱いすんなっ!」
雨は次第に強さを増してきたが、ヴァンはそんなことも気にせず、フンと鼻を鳴らすとそのままふらふらと表へ向かって歩き始めた。
そしてヴァンはその日はじめてイシャータと出会った。
▼▲▼▲▼▲
「あたしたち、これからどうなっちゃうんだろね。何かいい方法でもあるの? “リーダー”さん」
急にそんな言葉を投げかけられヴァンは引き戻された。
「ん、ああ……そうだなぁ、あるといえばあるような……ないといえばないような」
「あきれた、何の策もないのにあんな大口たたいたの?」
「まあそう言うなよ。大船に乗せてやるとは言い切れんが、少なくとも泥舟でもない」
「……頼りがいのあるリーダーだこと」
クローズは目を見開いた。
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