イシャータの受難

ペイザンヌ

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第2部 ヴァン=ブランの帰還

第15話 Coin-toss【ふたつの争い】

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「ならば──」

 ヴァン=ブランは引き締まった体をのそりと起こした。

「仲間内で争うのは好かんが、おまえがオレの意見を通さんというなら仕方ない」
「やるってのか?」
「言っとくがフライ。オレは昔のオレじゃないぞ」

 その声はまさに重低音だった。
 皆の顔に緊張が走る。


「──待たんかいっ! ゴラっ!」


 そんな叫び声が聞こえ、フライの息子である黒猫のハッシュが庭の方に飛び出してきたのはまさにその時だった。佐藤がそのすぐ後を追い、二匹は庭の中央で睨み合う。ついにハッシュが『フーッ』と毛を逆立てた。宣戦布告だ。佐藤もそれに応じて背中を高く持ち上げた。

「なんだありゃ?」





「なんだありゃ?」

 すっかり虚をかれたヴァン=ブランは横にいるメタボチックに尋ねた。

「メタボ、あのちっこいのは誰だ? 知らん顔だな」
「き、昨日来たばかりの新入りでさぁ。サトーだかスズキだか」

 ヴァンは目を細めた。

「ふーん……」
「ハッシュ?」

 フライが飛び出していこうとするのをヴァンは前足で制した。

「ほっとけ、子供の喧嘩だ。親がしゃしゃり出てどうする」
「ケガでもしたら……」
「ケガなんてほっときゃ治る」
「しかし……」
「何があったか知らんが、あの二匹、今夜、傷だらけの体でいろいろ考えることになる。いろいろな。それが血となり骨となる。それより……」

 ヴァンはニヤリと笑うとすっかり闘気を無くしたのかその場に腰を下ろした。

「予定変更だ。どうせならあいつらに俺たちのリーダー権を決めてもらうってのはどうだ?」
「なにっ?」
「勝負なんてどうせ水物だ。オレたちの代わりに喧嘩してくれるヤツらがいるっていうんだったら言葉通り『子供たちに未来を託す』ってのも一興だろう」

 そう言ってヴァン=ブランは豪快にあっはっはと笑う。

「さあ、どっちに賭ける? 聞くまでもないか」
「あ、あたりまえだ。むろん息子ハッシュが勝つ!」
「なら、オレはあの新入りだな。サトーダカスズキとかいう」

 そう言うとヴァンはとうとうゴロリと横になってしまった。

 しばらくの間、二匹の鳴き合いが続いた。よく春先の夜中などに聞こえてくるあの声だ。

 より相手よりも大きく、そしてより高い声で威圧する。猫のバトルの場合、大半はここで勝敗が決まると言っても過言ではない。この闘いはハッシュよりも1オクターブほど広い声域を持つ佐藤に有利だった。とどめに全身全霊の咆哮ほうこうを腹から喉にかけて放出するとハッシュはビクッと目をらせた。

『勝った』と、佐藤は思った。
 目をらせば負け──これは古今東西、猫のファイトにおけるセオリーでもある。

 だが、まだここでも10カウントを取られたわけでは決してない。ここで負けを認めるかどうかは劣勢の立場に立った者の判断次第なのだ。ハッシュは諦めずに佐藤に飛び掛かっていった。なかば意地である。

 すっかり決着がついたと思って油断していた佐藤にハッシュの鋭い爪が襲いかかった。虚をかれた佐藤は完全にけきることができずに左の頬をスッパリとやられた。最初は何も感じなかったものの、次第に鋭利な刃物で切った時のようにじわりじわりと痛みが広がってくる。

『なるほど。これくらいの攻撃やったら、これくらいの痛みを伴うってわけやな──』
 佐藤は頭のどこかでそんなことを理解しつつあった。

 今度は佐藤の方から仕掛けてみる。軽くジャブを打つときは脅しで爪を使うが本気でストレートを出す時はあえて爪を引っ込めたままにした。ハッシュの方も佐藤の頬から流れ出る血の量を目の当たりにして躊躇したのか爪を使う量を制限し始めた。

 ハッシュには佐藤がこう言っているように思えたのだ。『ボクらがやっとるんはただの“ケンカ”や。“殺し合い”でも“争い”でもない!』と。いわば、二匹はナイフを捨て素手の闘いに切り替えたのである。

 むしろそれが気にくわなかったのか思わずフライは声を出してしまった。

「ハッシュ、何をやってる!」

 そんな黒猫親子の顔を交互に見比べヴァン=ブランはまた「ふむ」と唸った。

 佐藤とハッシュのバトルはこれといった決定打もなく三分ほど続いた。わずか三分とはいえそれは闘っている側からすれば何時間にも匹敵する時間だ。

 だがいよいよ決着がつく時がきた。

 ハッシュがパンチを繰り出す瞬間、足にきたのかスリップしてしまったのだ。その機を逃すことなく佐藤はその上にのし掛かりマウントポジションを奪う。それと同時に前足を振りかぶった。『これで爪を出せばいつでもおまえの目ン玉をえぐりだせるんやぞ!』と言わんばかりに。


「決まったな」
「ぐ……」

 ヴァン=ブランは腰を上げると、折れんばかりに奥歯を食い縛っているフライを見た。

「佐藤!」

 イシャータの呼ぶ声が聞こえ、急に佐藤は肩の力が抜けた。それでもまた不意にハッシュが襲いかかってこないとも限らない。佐藤は警戒を怠らないよう斜に構えながらイシャータのもとへ歩み寄った。

「大丈夫か、イシャータ。怪我あらへんか?」
「何言ってんのよ! 怪我してんのはあんたの方じゃない。こんなになっちゃって……」
「たいしたことあれへんよ、こんなん。それより見た? ボク勝ったで! これがオスのバトルや!」

 一方、敗者となったハッシュは起き上がるとトボトボと歩き出した。その前にはフライが立ちはだかっている。

「へへ……」

 ハッシュは力なく笑ってみたが、フライは鬼の形相のままだった。

「……父さん?」
「ハッシュ…… きさま、何故負けた……! わかっているのか?! なぜ、負けた?!」

 そのフライの怒号に皆が振り返る。普段が穏やかなフライであるだけに猫たちは驚きを隠せずざわつき始めた。『まずいな』と、思うが早いかヴァンは本能的に二匹の間に割って入っていた。

「そうだぞ、ハッシュ。何故、負けたかわかるか? だいたいだな、おまえは左が甘いんだよ左が。攻撃に出る時にクセがある。それさえ直せば今度はきっと勝てる」

 ヴァンは片目を瞑ってみせた。
 ハッシュは自分の左足をしげしげと見てなんともいえぬ悔しそうな顔をしている。

「なあ? フライ」
「…………」

 フライは我にかえると急に自分自身の存在が疎ましくなったような気がした。がくりと肩を落とし、そのまま踵を返す。その姿を見て、ヴァンはひとつ溜め息をつくとフライの背中に無言で語りかけていた。

──今夜いろいろと考えることになるのは、ひょっとしたらフライ、おまえの方かもな。

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