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第1部 イシャータの受難
第5話 To become the excellent wild cat【立派な野良猫になるために】
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──そうよ、出来ないことなら教えてもらえばいいいんだわ。
イシャータは偶然手に入れた五尾の魚を先行投資することにした。
昼間の『観察』のおかげでおおよそ誰が何を得意分野としているのかの見当はついていた。
《魚 魚 魚 魚 魚》
まず、イシャータが訪れたのはN区でも指折りのハンターであるキャンノのところだった。キャンノは遺伝子の関係でそのほとんどがメスであるといわれる『サビ猫』である。その毛並みは近くで見れば見るほど美しい茶色と黒の混じりあったべっこう飴のような色をしていた。
足もとに置かれた一尾の魚を見て彼女は少し考えている様子だった。
「別段食べ物に不自由してるってわけじゃないんだけど──」
キャンノのこの答えをイシャータはある程度予測していた。自分で狩れるのだから食いものなんかで釣られるはずがない、と。
「ま、お互いメス同士だし。助け合わなきゃね」
イシャータはホッと息をついた。交渉成立だ。
おそらくは自分の得意分野を誰かに語りたいということもあったのだろう、キャンノは自慢の鋭い爪を見せながら“狩り”がなんたるやを熱く語ってくれた。
さすがは商売道具だ!
手入れを怠ってないのか、その爪はマニキュアでも塗ったかのごとく光輝いていた。彼女の講釈にイシャータはメモをとるかのように、ふんふんと頷く。
「そうそう、あの時のネズミったら私よりも大きかったんじゃないかしら」
時おり見せるそんな自慢話にもイシャータは嫌な顔ひとつみせずに相づちを打つ。機嫌を損ねてはいけない。
《魚 魚 魚 魚》
基本的にメス同士は助け合うというのがネコの本質だ。
二尾目の魚は植物に詳しいサラに渡した。三毛猫のサラは身体が小さいせいかあまり狩りはしない。しかし彼女はどの草が食べられ、どの草が危険なのかを誰よりも知っていた。
アロエやチューリップ、またはジャガイモの茎なども猫にとっては良くないことをイシャータは初めて知った。サラはその細くも響きのよい声で植物以外の栄養なども教えてくれる。
「イカなんかも腰を抜かしちゃうから食べちゃだめよ。アワビなんかはもっての他! 耳がポトリと腐れ落ちちゃうんだから!」
可愛い顔して淡々と恐ろしいことを言う……。
とはいえ、どちらも大好物であるイシャータにとっては聞き捨てならぬ言葉だった。思わず耳を押さえてぶるりと震えが走る。金輪際イカとアワビには近づかないようにしよう。
《魚 魚 魚》
三匹目の魚はオスであるにも関わらず人間に媚びを売るのがうまい白地に黒のブチ猫、ミューラーのもとに渡った。ミューラーはノラのくせにエサのほとんどを人間からもらうことでまかなっている。ミューラーは肉球をペロリと舐めるとチョイチョイとヘアスタイルを整え、言った。
「いかに自分が腹が減っていて可哀想なのかをアピールするのがコツだ」
イシャータはまるで女優であるかのごとく演技指導を受けることになった。ミューラーは魚をムシャムシャ頬張りながら「違う違う、わかってないな。もっと、こう科をつくってだね……」と体を触ってくる。
ベタベタ触るんじゃないよ、この野郎!
「私はあなたが好きですよ~、みゃお~ん、て感じで」
なんだかバカバカしくなってきた。イシャータは少しイラッとしたが頭をプルプルと震わすとミューラーに対してとっておきの愛想をしてみせた。
「そうそう、いいね。そんな感じ!」
「ホント? 嬉しいっ! ミューラーさんって凄く教え方が上手なのね。なんだか尊敬しちゃう」
「いやぁ、なぁに、エヘ、エヘヘ」
ふむ……なるほど。これが演技か。
《魚 魚》
さて、残る魚はあと二尾だ。
実際ねぐらとの往復で疲れも見え隠れしているのは否めない。このまま食ってしまっても構わないし、正直次のところに行くべきかどうかイシャータはずっと迷っていたのだ。
“その手段”を使うかどうかは別問題として、知識として知っておくにこしたことはないんじゃないか? いわば貯金のようなものだ。そう言い聞かせイシャータは意を決してもう一匹だけ訪ねることにした。
その一匹とはギノスの手下であるロキだった。彼はトラネコの中でもキジトラであり、俗に言う『泥棒猫』だ。主に人間の家に入り込んでエサを奪ってくることを専門としている。
「おまえ捨てられたんだってな」
ロキはそう言うとニヤニヤ笑った。まったくもって、こういうところはボスのギノスにそっくりだ。朱に染まればなんとやらである。
「そうさな、侵入しやすい馬鹿な人間の家は山ほど知ってる。それに同じノラのよしみだ、少しくらい情報を流してやったって構やしないさ。なあ、イシャータ」
ロキは『ノラ』のところに強いアクセントを置くと意味ありげに視線を落とした。
「……だが、魚一匹ってんじゃなぁ」
イシャータは心の中で舌打ちすると、目を細めた。
この業つくばりめ!──
二尾とも渡すとなると本当に自分が食べる分まで無くなってしまう。そもそも、これはそうまでして手に入れるべき情報なのか?
イシャータは迷った。ダメだ。最後の魚は渡せない。
「この一匹は担保のようなものよ。あなただってどうしてもエサに困ることあるでしょ? その時にはまた必ず食糧を提供するから」
そう言ってはみたものの、もちろんイシャータにそんな当てなどあるわけがない。ロキは品定めするような目付きでイシャータをジロジロ見るとネズミの玩具を弄ぶような顔つきで鼻を鳴らした。
「フン、まあ、いいだろ。だが、もし俺を騙したりしたらギノス様が黙ってないってことも肝に銘じておけよ」
ロキに凄まれたイシャータは、まるで人間がいうところの『ヤミ金』に手を出してしまったような心持ちになり少し気が滅入ってしまった。
かくしてイシャータは四尾の魚と引き換えに四つの情報を得た。交番近くのねぐらに戻る途中、今現在の欲望を我慢して明日に繋げた自分をちょっと誇らしく思ったりもした。
そんな矢先。イシャータは見てしまったのだ。道脇の路地で、まだ歩くことさえおぼつかないような子猫がミャアミャア鳴いているのを。
その甲高い声がこう要求しているのは明らかだった。
『何か食わせろ』と。
《魚》
ねぐらに戻ったイシャータは最後の一尾を見つめ、どうすべきか考えていた。
──どうするかだって? 食べるに決まってるじゃないか。
だが、先程の子猫の鳴き声が脳裏に焼き付いて離れない。イヤなものを見てしまった。あの子も捨てられたのだろうか?
イシャータは『ぐるぁにゃあ』と鳴いた。
だって、私だってお腹すいてんだもん!
──あの子は誰かきっと優しい人間が拾ってくれるさ、そうに決まってる。
イシャータは大きく口を開け、最後の魚にかぶりついた。
▲▼▲▼▲▼
一口だけかじられた魚が子猫の前に落ちた。
イシャータは子猫の体をペロペロ舐めてやると魚にかぶりつき、口の中で柔らかくほぐしてやった。子猫はまだ目も開かぬほど幼かった。くんくんと匂いを嗅ぐと、やがてそれをゆっくり食べ始めた。
これでいいんだとイシャータは無理やり納得することにした。ようやく芽生え始めた自分への誇りを自ら潰してしまってどうする。何があってもそれだけはしたくなかった。それに答えるかのようなタイミングで子猫はイシャータをちらりと見上げミャアと鳴くと、再び魚に顔を落とす。
イシャータはその姿を見て恨めしそうに言った。
「……半分くらいは、残してよね」
もうすぐ朝がやってこようとしていた。
《魚 = 0》
イシャータは偶然手に入れた五尾の魚を先行投資することにした。
昼間の『観察』のおかげでおおよそ誰が何を得意分野としているのかの見当はついていた。
《魚 魚 魚 魚 魚》
まず、イシャータが訪れたのはN区でも指折りのハンターであるキャンノのところだった。キャンノは遺伝子の関係でそのほとんどがメスであるといわれる『サビ猫』である。その毛並みは近くで見れば見るほど美しい茶色と黒の混じりあったべっこう飴のような色をしていた。
足もとに置かれた一尾の魚を見て彼女は少し考えている様子だった。
「別段食べ物に不自由してるってわけじゃないんだけど──」
キャンノのこの答えをイシャータはある程度予測していた。自分で狩れるのだから食いものなんかで釣られるはずがない、と。
「ま、お互いメス同士だし。助け合わなきゃね」
イシャータはホッと息をついた。交渉成立だ。
おそらくは自分の得意分野を誰かに語りたいということもあったのだろう、キャンノは自慢の鋭い爪を見せながら“狩り”がなんたるやを熱く語ってくれた。
さすがは商売道具だ!
手入れを怠ってないのか、その爪はマニキュアでも塗ったかのごとく光輝いていた。彼女の講釈にイシャータはメモをとるかのように、ふんふんと頷く。
「そうそう、あの時のネズミったら私よりも大きかったんじゃないかしら」
時おり見せるそんな自慢話にもイシャータは嫌な顔ひとつみせずに相づちを打つ。機嫌を損ねてはいけない。
《魚 魚 魚 魚》
基本的にメス同士は助け合うというのがネコの本質だ。
二尾目の魚は植物に詳しいサラに渡した。三毛猫のサラは身体が小さいせいかあまり狩りはしない。しかし彼女はどの草が食べられ、どの草が危険なのかを誰よりも知っていた。
アロエやチューリップ、またはジャガイモの茎なども猫にとっては良くないことをイシャータは初めて知った。サラはその細くも響きのよい声で植物以外の栄養なども教えてくれる。
「イカなんかも腰を抜かしちゃうから食べちゃだめよ。アワビなんかはもっての他! 耳がポトリと腐れ落ちちゃうんだから!」
可愛い顔して淡々と恐ろしいことを言う……。
とはいえ、どちらも大好物であるイシャータにとっては聞き捨てならぬ言葉だった。思わず耳を押さえてぶるりと震えが走る。金輪際イカとアワビには近づかないようにしよう。
《魚 魚 魚》
三匹目の魚はオスであるにも関わらず人間に媚びを売るのがうまい白地に黒のブチ猫、ミューラーのもとに渡った。ミューラーはノラのくせにエサのほとんどを人間からもらうことでまかなっている。ミューラーは肉球をペロリと舐めるとチョイチョイとヘアスタイルを整え、言った。
「いかに自分が腹が減っていて可哀想なのかをアピールするのがコツだ」
イシャータはまるで女優であるかのごとく演技指導を受けることになった。ミューラーは魚をムシャムシャ頬張りながら「違う違う、わかってないな。もっと、こう科をつくってだね……」と体を触ってくる。
ベタベタ触るんじゃないよ、この野郎!
「私はあなたが好きですよ~、みゃお~ん、て感じで」
なんだかバカバカしくなってきた。イシャータは少しイラッとしたが頭をプルプルと震わすとミューラーに対してとっておきの愛想をしてみせた。
「そうそう、いいね。そんな感じ!」
「ホント? 嬉しいっ! ミューラーさんって凄く教え方が上手なのね。なんだか尊敬しちゃう」
「いやぁ、なぁに、エヘ、エヘヘ」
ふむ……なるほど。これが演技か。
《魚 魚》
さて、残る魚はあと二尾だ。
実際ねぐらとの往復で疲れも見え隠れしているのは否めない。このまま食ってしまっても構わないし、正直次のところに行くべきかどうかイシャータはずっと迷っていたのだ。
“その手段”を使うかどうかは別問題として、知識として知っておくにこしたことはないんじゃないか? いわば貯金のようなものだ。そう言い聞かせイシャータは意を決してもう一匹だけ訪ねることにした。
その一匹とはギノスの手下であるロキだった。彼はトラネコの中でもキジトラであり、俗に言う『泥棒猫』だ。主に人間の家に入り込んでエサを奪ってくることを専門としている。
「おまえ捨てられたんだってな」
ロキはそう言うとニヤニヤ笑った。まったくもって、こういうところはボスのギノスにそっくりだ。朱に染まればなんとやらである。
「そうさな、侵入しやすい馬鹿な人間の家は山ほど知ってる。それに同じノラのよしみだ、少しくらい情報を流してやったって構やしないさ。なあ、イシャータ」
ロキは『ノラ』のところに強いアクセントを置くと意味ありげに視線を落とした。
「……だが、魚一匹ってんじゃなぁ」
イシャータは心の中で舌打ちすると、目を細めた。
この業つくばりめ!──
二尾とも渡すとなると本当に自分が食べる分まで無くなってしまう。そもそも、これはそうまでして手に入れるべき情報なのか?
イシャータは迷った。ダメだ。最後の魚は渡せない。
「この一匹は担保のようなものよ。あなただってどうしてもエサに困ることあるでしょ? その時にはまた必ず食糧を提供するから」
そう言ってはみたものの、もちろんイシャータにそんな当てなどあるわけがない。ロキは品定めするような目付きでイシャータをジロジロ見るとネズミの玩具を弄ぶような顔つきで鼻を鳴らした。
「フン、まあ、いいだろ。だが、もし俺を騙したりしたらギノス様が黙ってないってことも肝に銘じておけよ」
ロキに凄まれたイシャータは、まるで人間がいうところの『ヤミ金』に手を出してしまったような心持ちになり少し気が滅入ってしまった。
かくしてイシャータは四尾の魚と引き換えに四つの情報を得た。交番近くのねぐらに戻る途中、今現在の欲望を我慢して明日に繋げた自分をちょっと誇らしく思ったりもした。
そんな矢先。イシャータは見てしまったのだ。道脇の路地で、まだ歩くことさえおぼつかないような子猫がミャアミャア鳴いているのを。
その甲高い声がこう要求しているのは明らかだった。
『何か食わせろ』と。
《魚》
ねぐらに戻ったイシャータは最後の一尾を見つめ、どうすべきか考えていた。
──どうするかだって? 食べるに決まってるじゃないか。
だが、先程の子猫の鳴き声が脳裏に焼き付いて離れない。イヤなものを見てしまった。あの子も捨てられたのだろうか?
イシャータは『ぐるぁにゃあ』と鳴いた。
だって、私だってお腹すいてんだもん!
──あの子は誰かきっと優しい人間が拾ってくれるさ、そうに決まってる。
イシャータは大きく口を開け、最後の魚にかぶりついた。
▲▼▲▼▲▼
一口だけかじられた魚が子猫の前に落ちた。
イシャータは子猫の体をペロペロ舐めてやると魚にかぶりつき、口の中で柔らかくほぐしてやった。子猫はまだ目も開かぬほど幼かった。くんくんと匂いを嗅ぐと、やがてそれをゆっくり食べ始めた。
これでいいんだとイシャータは無理やり納得することにした。ようやく芽生え始めた自分への誇りを自ら潰してしまってどうする。何があってもそれだけはしたくなかった。それに答えるかのようなタイミングで子猫はイシャータをちらりと見上げミャアと鳴くと、再び魚に顔を落とす。
イシャータはその姿を見て恨めしそうに言った。
「……半分くらいは、残してよね」
もうすぐ朝がやってこようとしていた。
《魚 = 0》
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