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13:『君がいない物語』の始まり≫≫
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「見いつけた」
そう言って私の隣の席に真っ黒な服を着たおじさんが腰かけてきたの。おまけに──まるで魔法使いみたいなツバの広い帽子を深く被ってるし、非常灯からの緑色の光がそのおじさんの顔を半分シルエットにしてたから私には誰だかよくわかんない。
「おじさんにもそのポップコーン少しくれる?」
「おじさん、映画館ではね、帽子とらなきゃダメなんだよ。それにね、パパに知らない人に話しかけられてもお返事しちゃいけないって言われてるの」
「でも、もう返事しちゃってるよ?」
「あ、そっか。でもダメなの」
黒い服のおじさんはくすくす笑って私の言いつけ通り帽子を脱いだわ。怖いお顔じゃないし、おじさんいい子だから私はポップコーンをあげることにしたの。
「ありがと」
「服の上にボロボロこぼしちゃダメだよ」
「この映画、面白いかい?」
「ううん、ちっとも」
私は声を潜めてそう言っちゃった。だって本当にそうなんだもん。だからきっと休日なのに映画館には私たち以外ほとんどお客さんがいないんだ。あれ、私たちって言うのなんかヘン。だって私とおじさんはお友達じゃないもんね。私以外にはおじさんしかいない。うん、これが正しいにほんご。
「おじさん途中から入ってきてお話わかるの?」
「ん、まあね……」
「このお姉ちゃんね、恋人が死んじゃったの。交通事故で」と、私はスクリーンを指差す。ちょうど人気男性アイドルユニットが歌うバラード曲をバックにヒロインがイルミネーションを眺めている場面シーンだった。私、この曲大好き。
「ふーん……そうなんだ」
「うん、このお姉ちゃんを助けようとしてね、代わりに車にはねなれちゃったの。赤い傘がね、ぽーんって、お空に飛んだの」
「それは可哀想だね」
「……うん。でねでね、ここはね、このお姉ちゃんとその恋人が初めてデートしたところなの。観覧車にも乗ったんだよ。私もね乗ったことあるんだ、観覧車、パパと。──お姉ちゃんね、恋人のこと思い出して泣いてるの」
「ありがちな話だね」
「ね、ベタだよねー」
スクリーンの中のお姉ちゃんは一人ぼっちでベンチに腰掛けて楽しそうに行き交う人たちを見てる。あ、涙が頬をつたって落ちたわ。作り物だってわかってても人が泣いてるのを見るとやっぱり胸がきゅんってなっちゃうんだよね。
「でもこのお姉ちゃんね、とっても嬉しかったんだと思うの。大好きな人と一緒に自転車乗ったり、みんなでもんじゃ焼き食べたり、いっぱいいっぱい走ったりしたの」
「そうか」
「いっぱい嬉しかったからこそ、いっぱい悲しいんだと思うの──」
あれ…… 声が震えてる? 私、どうして泣いてんだろ? こんなベタベタで陳腐な物語なんて感動するはずないのに。スクリーンの中のお姉ちゃんにつられちゃったのかな。
おじさんは私の涙をハンカチで拭ってくれた後、頭をポンポンと優しく叩くと立ち上がったわ。
「お洒落な髪の色だね。こういうのアッシュ・イエローっていうのかな?」
「……えへへ」
「それじゃ、おじさん行かなきゃ」
「最後まで観ていかないの?」
「最後? このお話ストーリーにはね、終わりがないんだよ」
「ええっ! そうなの?」
「そうだよ。だから君もここでいっぱいいっぱい泣いたらいつまでも観てるだけじゃなく、そろそろ客席から立ち上がらなきゃね」
「…………」
「どうしたんだい?」
「あげる」
私はおじさんに残りのポップコーンを差し出した。
「いいの?」
「うん」
「そっか、ありがと」
おじさんはポップコーンを受けとるとそのまま一番前の客席の方まで歩いてったわ。でね、ステージに上って、スクリーンの方に向かって……て、あれれ? おじさん、そっちは出口じゃないよぉ。
そしてね、おじさんはそのまま映画の中に入っていっちゃったんだ。へんなの……。
突然目の前にポップコーンが現れた。顔を上げるとそこには口をもぐもぐさせているカミジョウの姿があった。片方の眉を釣り上げ「食うか?」とドラム型の紙パックを差し出す。ベンチに腰掛けたまま私が答えずにいるとカミジョウが隣にどかりと座った。
観覧車を見上げているとどこかで聞いたようなアイドルの歌が耳に入ってきた。どこで聞いたんだっけ? そうだ、このカミジョウという男と初めて会った時に観た、あの映画の中で流れていた曲だ。
「上条さんが……書いたんですよね?」
「まあ、そうだな」
「あなたが……井戸部くんを──」
「死なせた? いや『殺した』かな?」
「……どうして?」
カミジョウは大袈裟に溜め息をついてみせると、いかにもといった様子で首を横に振った。
「だから俺は仮想現実ってのが嫌いなんだ。映画ってのはスクリーンを一枚通して観るに限る」
「……答えになってません」
「あのままじゃ、いつになったって君がこの世界に踏ん切りがつけられないと思ったから──」
ポップコーンが宙に舞った。
空中に舞う赤い傘の記憶がそれに重なる。
私はいつの間にか立ち上がっていた。人の頬を叩くのはこんな感触なんだと思った。
「………………」
「あーあ、もったいない」
カミジョウは空になった紙パックを拾い上げると逆さに振ってみせた。
「せっかくお嬢ちゃんにもらったのになぁ」
そうニヤつくカミジョウの左側の頬には赤みが増してきている。私はその部分めがけ、もう一度思いきり手のひらを叩きつけたが上条はそれを避けようとしなかった。
「ぃ…………ってぇ~。別の頬を差し出すつもりだったが、同じ側とは…… 。なかなかやるね」
「気持ちいいんでしょうね?」
「あいにくそっち方面のシュミはない」
「神にでもなったつもりなんでしょ?! さぞかし気分がいいことなんでしょうね? 人の心を弄んだり自由自在に命を奪ったり……」
「ここは〈 REM 〉の中だ。ここでなら俺をなぶり殺しにしようがめった刺しにしようが誰からも罪には問われんよ」
私は手のひらををもう一度振り下ろそうとしたが今度はいとも簡単に掴まれてしまった。
「…………!」
「ホントによかったよなぁ、ここが仮想世界で。嫌になったらいつだって逃げ帰れる。考えてもみろよ、もしこれが現実だったらどうだ? 本気で立ち直れないよなぁ」
今度は左手首を掴まれる。じたばたともがく私に上条はさらに言葉を浴びせかけてきた。
「人はどうして映画や物語に感動するのかわかるか? それが嘘だからだよ。自分のことじゃないからだ。その嘘が本当になったら感動なんてしてる場合じゃない。そんな余裕なんてないんだ。わかるか、それが今の奥田麗美という存在なんだ」
「なにを…… 言ってるの?」
「最初はそんなつもりじゃなかった」
上条はいつかのように私にツバの広い帽子を被せた。また猫になって逃げるつもりだろうか。それとも犬に……?
だが私が帽子を払いのけるとそこには意外な人物が立っていた。
「…………蘭 …………?」
「学校で犬や猫に化けるわけにはいかないからね。君の親友としてそばにいる方が都合が良かった」
口調は男のようだが、声は女性の──今までずっと聞いてきた蘭の声だった。もっとも初めから蘭は男勝りの口調なんだけど。
蘭、いや蘭の姿をしたカミジョウの左の頬は赤く腫れたままだった。
「え……? え…………?」
「こうやってずっと君のそばで物語を繋いでた。図書館のトイレや、もんじゃ焼きの店でもスマホを弄るふりをしてね」
そう言いながら蘭 ── いや、カミジョウは、その細い指でスマホを扱う真似をしてみせる。
驚いた。というより、私はいろんなことを思い出していた。この物語の最初からこのカミジョウは私のすぐそばにいたのだ。
そういえば図書館から出た後に蘭は腕を組んで何か考え込んでいた。てっきり私が井戸部くんに気があるのではと疑っていると思っていたのだが、今思うとあれは……物語が進展しないことに対する困惑だったに違いない。
井戸部くんの自転車で学校に送ってもらった時も蘭は確かめるように校舎からこちらを見下ろしていたじゃないか。
待てよ……蘭……取手蘭……『トリテラン』? 『物語進行役』? はは……いかにもおじさんが考えつきそうな駄洒落じゃないか。
「最初は適当にラブストーリーでもでっちあげてさっさと戻るつもりだった。だけど君は 『いい加減な気持ちで私の物語を書かないでほしい』──そう言った。だから俺は、少し欲が出てしまったのかもしれない」
私は記憶を呼び起こした。
(私はどんな三ツ星シェフが作ったカレーよりもお母さんが作ったカレーの方が好きですーー)
そう、そんなことを話していた書店からの帰り道。あの夕暮れだ。
(だってそれはお母さんしか作れないんだし、何より私だけのために作ってくれてるからーー)
20点ーーつまらない台詞、ストレートすぎる、あの言葉だ。
「俺はどういう結末が一番相応しいのか考えた。その結果、この物語は終わらせてはいけないんじゃないか──そこに辿り着いた」
「終わらせないって……」
「『ああ面白かった』だけじゃきっと駄目なんだと思った。物語ってのは終わった後に何かを持ち帰らなきゃ嘘だ。これが君だけのための物語であるなら、なおさらだ」
「私のためって、井戸部くんを奪ったのが私のためだっていうんですか? わからない……わかんないよ。何言ってんだか」
「わからないんじゃない。キミは覚えていないだけだ」
カミジョウは私の手をとって一枚の写真を握らせた。
「この世界の思い出に焼き付けておくといい」
それは観覧車の前で撮ってもらった記念写真だった。私はそこに映った二人の姿を見て心臓が速まるのを感じた。
「これって……」
そこに映っていたのは私と井戸部くんではなかった。この二人は確か、私たちの前列にいた車椅子の父娘連れじゃないか。私は自分の周りの世界が物凄いスピードで拡張し、そのまま無限に広がっていくような気がした。
「麗美ちゃん、もう一度聞く。君にお父さん、いたっけ?」
「いるわよ! いたわ……その時は……。あの時は……」
「去年の誕生日、何をしたか覚えてる?」
「やめてよ! どうせ、そんなの作られた記憶のくせに!」
「麗美ちゃん。君の……本当の名前は?」
「私の? 本当の名前……?」
空間は膨張を止め、今度は一気に私に向かって収縮してくる。突風が私の髪を後ろに跳ねあげた。あのスキーのVRの時のように。私の……アッシュ・イエローの髪を…… 。
「私は……私の名前は……奥田……」
「美波」
そう後ろから呼び掛けられ、私は振り向いた。振り向くだけでは駄目だった。その人の顔を見るためには振り向いて、見上げなければならない。なぜなら私は車椅子に乗ってるから。車椅子に乗った小さな少女だったから。
「さあ、行くよ。美波」
「お父……さん?」
その人は顔いっぱいに皺を作って微笑みかけてきた。もし井戸部くんが年を重ねたらきっとこんな顔になったんだろうな──そんな笑顔だった。
お父さんはバリアフリーの床をつたわせ私の車椅子を観覧車のゴンドラの中に押し入れた。ガクンと無機質な音が辺りに響き渡りゴンドラが上昇を始める。
「わぁっ!」と歓声を上げ、私の胸は高鳴った。だが私は妙な ──まるでしこりのような違和感を感じずにはいられなかった。唇が震えた。
「ねえ、お父さん?」
「なんだい」
「これって変だよ」
「何がだい?」
「だって、私が車椅子に乗ってる時には……歩けなくなった時には、お父さんは……もう──」
お父さんは屈託のない顔でまた笑った。
「お父さんは車にひかれそうになった私を助けようとして……代わりに……事故で……」
胸に熱いものが込み上げてくる。私はお父さん以上に顔を皺くちゃにして息をしゃくりあげた。
「私のせいで、お父さんは……私のせいで…………」
「美波、それは違うんだよ。悪いのはお父さんなんだ。お父さんがもっとしっかりおまえを見ていればおまえの大事な その『両足』 を奪うこともなかった。お父さんはおまえを守れなかった。私はおまえの人生を台無しにしてしまった」
「…………」
「美波、もう自分を責めるのはやめなさい。お願いだから私の存在を重荷にしないでおくれ」
「重荷だなんて……」
「強く、生きてほしい」
「……私ね、走れたんだよ」
「ん?」
「ずっとずっと走ってみたかったの、皆みたいに。私ね、すっごいスピードでね、顔で風を切ってね、息が切れるまでね、走ったの! 嬉しかったなぁ……どこまでもどこまでも、地平線のずっと向こうまで走っていけそうな気がしたの!」
「そうか。そうか」
嬉しそうに頷くお父さんに抱きつきたくて私は手を伸ばす。それに気付き、お父さんは私を車椅子ごと抱きしめてくれた。少し煙草の匂いがする。いつかお父さんと食べたもんじゃ焼きの匂いもする。
「遠くにいかないで」
「ああ、どこにもいかないよ。いくものか――」
嘘でもよかった。いや、きっとそれは嘘ではない。父はいつも、これからだってずっと私のすぐそばにいる。
私たちの乗ったゴンドラは今、最頂部に達しようとしていた。
そう言って私の隣の席に真っ黒な服を着たおじさんが腰かけてきたの。おまけに──まるで魔法使いみたいなツバの広い帽子を深く被ってるし、非常灯からの緑色の光がそのおじさんの顔を半分シルエットにしてたから私には誰だかよくわかんない。
「おじさんにもそのポップコーン少しくれる?」
「おじさん、映画館ではね、帽子とらなきゃダメなんだよ。それにね、パパに知らない人に話しかけられてもお返事しちゃいけないって言われてるの」
「でも、もう返事しちゃってるよ?」
「あ、そっか。でもダメなの」
黒い服のおじさんはくすくす笑って私の言いつけ通り帽子を脱いだわ。怖いお顔じゃないし、おじさんいい子だから私はポップコーンをあげることにしたの。
「ありがと」
「服の上にボロボロこぼしちゃダメだよ」
「この映画、面白いかい?」
「ううん、ちっとも」
私は声を潜めてそう言っちゃった。だって本当にそうなんだもん。だからきっと休日なのに映画館には私たち以外ほとんどお客さんがいないんだ。あれ、私たちって言うのなんかヘン。だって私とおじさんはお友達じゃないもんね。私以外にはおじさんしかいない。うん、これが正しいにほんご。
「おじさん途中から入ってきてお話わかるの?」
「ん、まあね……」
「このお姉ちゃんね、恋人が死んじゃったの。交通事故で」と、私はスクリーンを指差す。ちょうど人気男性アイドルユニットが歌うバラード曲をバックにヒロインがイルミネーションを眺めている場面シーンだった。私、この曲大好き。
「ふーん……そうなんだ」
「うん、このお姉ちゃんを助けようとしてね、代わりに車にはねなれちゃったの。赤い傘がね、ぽーんって、お空に飛んだの」
「それは可哀想だね」
「……うん。でねでね、ここはね、このお姉ちゃんとその恋人が初めてデートしたところなの。観覧車にも乗ったんだよ。私もね乗ったことあるんだ、観覧車、パパと。──お姉ちゃんね、恋人のこと思い出して泣いてるの」
「ありがちな話だね」
「ね、ベタだよねー」
スクリーンの中のお姉ちゃんは一人ぼっちでベンチに腰掛けて楽しそうに行き交う人たちを見てる。あ、涙が頬をつたって落ちたわ。作り物だってわかってても人が泣いてるのを見るとやっぱり胸がきゅんってなっちゃうんだよね。
「でもこのお姉ちゃんね、とっても嬉しかったんだと思うの。大好きな人と一緒に自転車乗ったり、みんなでもんじゃ焼き食べたり、いっぱいいっぱい走ったりしたの」
「そうか」
「いっぱい嬉しかったからこそ、いっぱい悲しいんだと思うの──」
あれ…… 声が震えてる? 私、どうして泣いてんだろ? こんなベタベタで陳腐な物語なんて感動するはずないのに。スクリーンの中のお姉ちゃんにつられちゃったのかな。
おじさんは私の涙をハンカチで拭ってくれた後、頭をポンポンと優しく叩くと立ち上がったわ。
「お洒落な髪の色だね。こういうのアッシュ・イエローっていうのかな?」
「……えへへ」
「それじゃ、おじさん行かなきゃ」
「最後まで観ていかないの?」
「最後? このお話ストーリーにはね、終わりがないんだよ」
「ええっ! そうなの?」
「そうだよ。だから君もここでいっぱいいっぱい泣いたらいつまでも観てるだけじゃなく、そろそろ客席から立ち上がらなきゃね」
「…………」
「どうしたんだい?」
「あげる」
私はおじさんに残りのポップコーンを差し出した。
「いいの?」
「うん」
「そっか、ありがと」
おじさんはポップコーンを受けとるとそのまま一番前の客席の方まで歩いてったわ。でね、ステージに上って、スクリーンの方に向かって……て、あれれ? おじさん、そっちは出口じゃないよぉ。
そしてね、おじさんはそのまま映画の中に入っていっちゃったんだ。へんなの……。
突然目の前にポップコーンが現れた。顔を上げるとそこには口をもぐもぐさせているカミジョウの姿があった。片方の眉を釣り上げ「食うか?」とドラム型の紙パックを差し出す。ベンチに腰掛けたまま私が答えずにいるとカミジョウが隣にどかりと座った。
観覧車を見上げているとどこかで聞いたようなアイドルの歌が耳に入ってきた。どこで聞いたんだっけ? そうだ、このカミジョウという男と初めて会った時に観た、あの映画の中で流れていた曲だ。
「上条さんが……書いたんですよね?」
「まあ、そうだな」
「あなたが……井戸部くんを──」
「死なせた? いや『殺した』かな?」
「……どうして?」
カミジョウは大袈裟に溜め息をついてみせると、いかにもといった様子で首を横に振った。
「だから俺は仮想現実ってのが嫌いなんだ。映画ってのはスクリーンを一枚通して観るに限る」
「……答えになってません」
「あのままじゃ、いつになったって君がこの世界に踏ん切りがつけられないと思ったから──」
ポップコーンが宙に舞った。
空中に舞う赤い傘の記憶がそれに重なる。
私はいつの間にか立ち上がっていた。人の頬を叩くのはこんな感触なんだと思った。
「………………」
「あーあ、もったいない」
カミジョウは空になった紙パックを拾い上げると逆さに振ってみせた。
「せっかくお嬢ちゃんにもらったのになぁ」
そうニヤつくカミジョウの左側の頬には赤みが増してきている。私はその部分めがけ、もう一度思いきり手のひらを叩きつけたが上条はそれを避けようとしなかった。
「ぃ…………ってぇ~。別の頬を差し出すつもりだったが、同じ側とは…… 。なかなかやるね」
「気持ちいいんでしょうね?」
「あいにくそっち方面のシュミはない」
「神にでもなったつもりなんでしょ?! さぞかし気分がいいことなんでしょうね? 人の心を弄んだり自由自在に命を奪ったり……」
「ここは〈 REM 〉の中だ。ここでなら俺をなぶり殺しにしようがめった刺しにしようが誰からも罪には問われんよ」
私は手のひらををもう一度振り下ろそうとしたが今度はいとも簡単に掴まれてしまった。
「…………!」
「ホントによかったよなぁ、ここが仮想世界で。嫌になったらいつだって逃げ帰れる。考えてもみろよ、もしこれが現実だったらどうだ? 本気で立ち直れないよなぁ」
今度は左手首を掴まれる。じたばたともがく私に上条はさらに言葉を浴びせかけてきた。
「人はどうして映画や物語に感動するのかわかるか? それが嘘だからだよ。自分のことじゃないからだ。その嘘が本当になったら感動なんてしてる場合じゃない。そんな余裕なんてないんだ。わかるか、それが今の奥田麗美という存在なんだ」
「なにを…… 言ってるの?」
「最初はそんなつもりじゃなかった」
上条はいつかのように私にツバの広い帽子を被せた。また猫になって逃げるつもりだろうか。それとも犬に……?
だが私が帽子を払いのけるとそこには意外な人物が立っていた。
「…………蘭 …………?」
「学校で犬や猫に化けるわけにはいかないからね。君の親友としてそばにいる方が都合が良かった」
口調は男のようだが、声は女性の──今までずっと聞いてきた蘭の声だった。もっとも初めから蘭は男勝りの口調なんだけど。
蘭、いや蘭の姿をしたカミジョウの左の頬は赤く腫れたままだった。
「え……? え…………?」
「こうやってずっと君のそばで物語を繋いでた。図書館のトイレや、もんじゃ焼きの店でもスマホを弄るふりをしてね」
そう言いながら蘭 ── いや、カミジョウは、その細い指でスマホを扱う真似をしてみせる。
驚いた。というより、私はいろんなことを思い出していた。この物語の最初からこのカミジョウは私のすぐそばにいたのだ。
そういえば図書館から出た後に蘭は腕を組んで何か考え込んでいた。てっきり私が井戸部くんに気があるのではと疑っていると思っていたのだが、今思うとあれは……物語が進展しないことに対する困惑だったに違いない。
井戸部くんの自転車で学校に送ってもらった時も蘭は確かめるように校舎からこちらを見下ろしていたじゃないか。
待てよ……蘭……取手蘭……『トリテラン』? 『物語進行役』? はは……いかにもおじさんが考えつきそうな駄洒落じゃないか。
「最初は適当にラブストーリーでもでっちあげてさっさと戻るつもりだった。だけど君は 『いい加減な気持ちで私の物語を書かないでほしい』──そう言った。だから俺は、少し欲が出てしまったのかもしれない」
私は記憶を呼び起こした。
(私はどんな三ツ星シェフが作ったカレーよりもお母さんが作ったカレーの方が好きですーー)
そう、そんなことを話していた書店からの帰り道。あの夕暮れだ。
(だってそれはお母さんしか作れないんだし、何より私だけのために作ってくれてるからーー)
20点ーーつまらない台詞、ストレートすぎる、あの言葉だ。
「俺はどういう結末が一番相応しいのか考えた。その結果、この物語は終わらせてはいけないんじゃないか──そこに辿り着いた」
「終わらせないって……」
「『ああ面白かった』だけじゃきっと駄目なんだと思った。物語ってのは終わった後に何かを持ち帰らなきゃ嘘だ。これが君だけのための物語であるなら、なおさらだ」
「私のためって、井戸部くんを奪ったのが私のためだっていうんですか? わからない……わかんないよ。何言ってんだか」
「わからないんじゃない。キミは覚えていないだけだ」
カミジョウは私の手をとって一枚の写真を握らせた。
「この世界の思い出に焼き付けておくといい」
それは観覧車の前で撮ってもらった記念写真だった。私はそこに映った二人の姿を見て心臓が速まるのを感じた。
「これって……」
そこに映っていたのは私と井戸部くんではなかった。この二人は確か、私たちの前列にいた車椅子の父娘連れじゃないか。私は自分の周りの世界が物凄いスピードで拡張し、そのまま無限に広がっていくような気がした。
「麗美ちゃん、もう一度聞く。君にお父さん、いたっけ?」
「いるわよ! いたわ……その時は……。あの時は……」
「去年の誕生日、何をしたか覚えてる?」
「やめてよ! どうせ、そんなの作られた記憶のくせに!」
「麗美ちゃん。君の……本当の名前は?」
「私の? 本当の名前……?」
空間は膨張を止め、今度は一気に私に向かって収縮してくる。突風が私の髪を後ろに跳ねあげた。あのスキーのVRの時のように。私の……アッシュ・イエローの髪を…… 。
「私は……私の名前は……奥田……」
「美波」
そう後ろから呼び掛けられ、私は振り向いた。振り向くだけでは駄目だった。その人の顔を見るためには振り向いて、見上げなければならない。なぜなら私は車椅子に乗ってるから。車椅子に乗った小さな少女だったから。
「さあ、行くよ。美波」
「お父……さん?」
その人は顔いっぱいに皺を作って微笑みかけてきた。もし井戸部くんが年を重ねたらきっとこんな顔になったんだろうな──そんな笑顔だった。
お父さんはバリアフリーの床をつたわせ私の車椅子を観覧車のゴンドラの中に押し入れた。ガクンと無機質な音が辺りに響き渡りゴンドラが上昇を始める。
「わぁっ!」と歓声を上げ、私の胸は高鳴った。だが私は妙な ──まるでしこりのような違和感を感じずにはいられなかった。唇が震えた。
「ねえ、お父さん?」
「なんだい」
「これって変だよ」
「何がだい?」
「だって、私が車椅子に乗ってる時には……歩けなくなった時には、お父さんは……もう──」
お父さんは屈託のない顔でまた笑った。
「お父さんは車にひかれそうになった私を助けようとして……代わりに……事故で……」
胸に熱いものが込み上げてくる。私はお父さん以上に顔を皺くちゃにして息をしゃくりあげた。
「私のせいで、お父さんは……私のせいで…………」
「美波、それは違うんだよ。悪いのはお父さんなんだ。お父さんがもっとしっかりおまえを見ていればおまえの大事な その『両足』 を奪うこともなかった。お父さんはおまえを守れなかった。私はおまえの人生を台無しにしてしまった」
「…………」
「美波、もう自分を責めるのはやめなさい。お願いだから私の存在を重荷にしないでおくれ」
「重荷だなんて……」
「強く、生きてほしい」
「……私ね、走れたんだよ」
「ん?」
「ずっとずっと走ってみたかったの、皆みたいに。私ね、すっごいスピードでね、顔で風を切ってね、息が切れるまでね、走ったの! 嬉しかったなぁ……どこまでもどこまでも、地平線のずっと向こうまで走っていけそうな気がしたの!」
「そうか。そうか」
嬉しそうに頷くお父さんに抱きつきたくて私は手を伸ばす。それに気付き、お父さんは私を車椅子ごと抱きしめてくれた。少し煙草の匂いがする。いつかお父さんと食べたもんじゃ焼きの匂いもする。
「遠くにいかないで」
「ああ、どこにもいかないよ。いくものか――」
嘘でもよかった。いや、きっとそれは嘘ではない。父はいつも、これからだってずっと私のすぐそばにいる。
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