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ペイザンヌ

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10:『果てのある物語』の始まり≫≫

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 日曜日の早朝、私は開放された大江おおえ運動公園競技場の外周トラックを走っていた。

(どうだ奥田おくだ。陸上、本当にやってみる気はないか?──)

 陸上部の顧問である“ビシバシ”こと石橋先生にそう言われ、脚力に自信が出てきた私は──もっともこれは上条が後々付け加えた設定なんだけど――学校が終わった後、夕飯前に走ることが日課になった。ジャージに着替え、初めのうちは家の周りをぐるぐると走るだけだったのが、慣れてくるに従いどうにもそれだけでは満足できなくなってきたのだ。そんな時――

(だったら競技場を使えばいいよ。朝方だったら人も少ないし……いや、あまり少なすぎるのも危ないかな。そうだ、日曜だったら俺たちもあそこで朝練してるしさ、もし、麗美れみちゃんが入部に迷ってんなら見学がてらにでもどう?――)

 と、井戸部いとべくんが言ってくれたので、私はさっそくそのお言葉に甘えてみることにした。



 なるだけ邪魔にならないよう、早いうちに家を出た私は陸上部が着替えやウォームアップをしている間、グラウンドを一人占めさせてもらうことにした。いや、正確には一人となのであるが。

「なあ、おい、麗美ちゃん。そろそろもう一段階ストーリーを進展しようじゃないか。そうすれば俺もこんな『犬』の生活からおさらばできるんだがなぁ」
「進展……っていったって……」

 長い舌を出しながら私と共に走っているダルメシアンが不貞腐ふてくされたように“話しかけて”くる。さすがにカミジョウも黒猫の姿では私のランニングについてくることはできないためここ最近は犬に姿を変えて一緒に走ることが多い。

上条かみじょうさんだって何だかんだいって結構楽しんでるんじゃないんですか? ぶっちゃけ私なんかより全然映画っぽいですよ。そんな風に猫とか犬とかに変身できるわけだし。なんか自分ばっかりズルい」

「あのな……好きでこんな格好してるわけじゃないぞ。だいたい俺は〈REM〉ってのは嫌いなんだ。映画ってのはスクリーンを一枚へだてて観るに限る」


〈 REM 〉とは、

Realityリアリティ・-Entertainmentエンターテイメント・-Motionpictureモーションピクチュア

ーーの略称であり、映画という媒介に取って代わった仮想現実ヴァーチャル・映画ムービーのことだ。カミジョウによると150年後では既に誰もが気軽に楽しめるほど普及が進み、馴染みのあるマシンへと変貌を遂げているのだという。

 ダルメシアンは私を追い越して前方に立ち塞がるとき立てるようにウォンと犬らしく吠えた。

「せっかくイグジステンス=レベルが上がってきてるんだ。一気に畳み掛けようや」

「そういえば、こないだも言ってましたよね。いったい何なんですか? その……なんちゃらレベルって?」

「まあ、君の存在価値的満足度を表すレベルってとこかな。ドーパミンやアドレナリンなんかの脳内物質と密接な関係があってそれがMAXになった時、君は自動的にこの世界からイジェクトされ……」

「ス、ストップ、ストップ!」

 私の号令にダルメシアンは体の動きをピタリと止め、その場に『おすわり』をした。悲しいかな犬のさがらしい。ぷぷっ。

 私は顔の前で小さく手を振った。
「なんか、また頭がこんがらがりそうだからもういいです」
「せっかくの日曜なんだし、この後井戸部くんをデートにでも誘ったらどうだ? そこでチュウでもなんでもして、その後は一気に――」
「な、何言ってんですか! ……そんなのはタイミングの問題です……」

 私は徐々に速度を落とすとトラック中央の芝生に寝転んだ。息も切れ切れに顔が紅潮するのを感じる。空が青い。

「だからそのタイミングってやつを俺が与えてやってるだろ?」

 ダルメシアン、いや、カミジョウはそのまま仰向けになった私の周りをくるくると走り回る。私は上半身を起こすと開脚運動を始めた。

仮想現実ヴァーチャルだぞ? 現実じゃないんだからモタモタすんなよ」
仮想現実ヴァーチャルだろうが何だろうが女の子はドキドキしたいものなんです。てゆーか、むしろ仮想現実ヴァーチャルだからこそドキドキしたいんじゃないですか」

 そうは言ったが、それってこの世界を見ている私の本体からの言い分オンリーじゃないか? 私にしてみれば現実と何なんら変わりはないんだけどな。

 カミジョウがまたウォンウォンと二回ばかり吠え立てる。

「なによ、犬みたいに吠えちゃって……」

 息を整え、直線コーナーに立った私はクラウチング・ポーズをとる。カミジョウはぶるると体を震わせると音を立てて口の周りを舐めた。こちらも負けずにべえと舌を出す。そして、こないだの仕返しに言ってやった。

「カミジョウさんはただの道先案内人ナビゲイターなんでしょ? 運転するのは私、走るのも私なの」

 そう言い終わったタイミングで私はスタートダッシュをかけた。後ろからカミジョウが勢いよく追いかけてくる。が……ふーんだ、負けるもんですか。

 それにしても――

 本当に気持ちがよかった。目を閉じて一直線の道を駆け抜けていると何処までも走っていけそうな気持ちになる。このまま、何処までも、何処までも。

 ▼ ▲ ▼ ▲ ▼ ▲

 その後私は一人トラックを囲む応援席の方に腰掛け、陸上部の練習風景を見学した。首に掛けたタオルでしっかりと汗を拭き、スポーツドリンクを口に含む。

 石橋先生ビシバシにしごかれながら真剣な表情で、また、時には同級生とふざけ合いながら、井戸部くんは練習を続ける。そんな、何気ない日常の風景を観察していると私はとても充実した時間を費やしている気持ちになってきた。

 全てが普通だ。

 エキサイティングな事件が起こるでもなく、突拍子なことが起こるわけでもない。なのに私はこの世界を愛しいと思い始めている。それはなぜなのだろう。つい、この間までは、あんなに息苦しさを感じていたというのに。

 私は隣で寝そべっているダルメシアンの姿をしたカミジョウに向かって話しかけた。

「ねえ」
「ん?」

「カミジョウさんは他にもいろんな仮想現実ヴァーチャルの世界に行ったことがあるんでしょ?」

「そりゃあ…… まあ、仕事だからな」 

「宇宙空間とか? 海の底とか……光も通さないような真っ暗な森の中とか……?」

「まだあるさ。ゾンビの群れにもさんざん囲まれたし、金銀財宝だってうんざりするほど探した。いや、探すような話を“作った”」

「へぇ~」

「ランプの魔神とカーペットに乗ったと思えば次の日にはムカデみたいなUMAと戦ってたり――」

「楽しそう! ね、ね、どんなストーリーが一番大変だった?」

「そうだな……臆病なくせに気が強い女子高生の尻をたたくストーリーが一番しんどかったかな?」

「もう……たまには真面目に答えてくださいよ」

「真面目さ。単純な物語だったら主人公の最終目標さえ決めてやればいい。あとはそこに向かってひたすら走ればいいだけだからな。主人公が何をやったらいいのか……なんて物語《ストーリー》は意外にやっかいなもんなんだぜ」

「もとの世界に戻れなくなったりとかしないの?」

「そうだな……きわどかったことは何度かあるな。あれは確か――」

 カミジョウは少し考えているようだったが表情が読み取れない。仕方ないよね、だって犬の顔なんだもん。

「ダーク・ファンタジー系の〈 REM 〉だった。今と同じさ、バグって物語が進まない。だから俺はまず主人公が倒すための強大な 『悪』 を作らなければならなかった。そいつが……」

「そいつが?」

「いや…………よそう。カットだ。こんなのは『この物語』とは何の関係もない話だ。すまん。こんな場面も必要無ないな、ぞ」

「そんなぁ、ちょっとくらいいいじゃないですか。意味のない場面シーンあってこそですよ? 日常は」

 私がこんな質問を投げ掛けたのは、2168年という遥か未来で眠っているはずの『私の母体』であるその人についてふと思いを巡らせたからだった。

「ねえ」
「ん?」
「どうして私は……ううん、私の本体はこんな平凡な仮想現実ヴァーチャルのソフトを選んだのかしら」
「……………………」

 ――その人が私というアバターを通して見たかったものとはいったい何だったのだろう? そもそも私ってどういう存在なの? その人の人格の一部のようなものなの? その人と私はどこか似ている共通点のようなものがあるの?

 聞きたいことは山ほどあった。

「上条さんはここに来る前、本当の私の姿を見てるんでしょ?」
「そりゃあ……まあな」
「だったら」
「駄目だ」
「まだ何も言ってないし」
「そういうことは規則で教えられないと言っただろ?」
「でも……」

 井戸部くんがこちらに向かって手を振っているのが見える。私が手を振り返すと部員たちが一斉にこちらを向き、井戸部くんの頭を小突こづいたり背中を叩き始めた。どうやら冷やかされているらしい。

 ――そ、そんなんじゃ……ないのに。

 などと思いつつも何だか照れ臭くて笑みがこぼれた。だが――

 こうやって何かを築き上げれば築き上げるほど、私はこの世界から離れがたくなってしまうのではないかと、そんな風にも感じた。『物語を終わらせる』ということはつまり……そういうことなのだ。私は一度飲み込んだ言葉をもう一度カミジョウに投げ掛けた。

「でも……物語が終わったら私の存在は消えてしまうんですよね? それって死んじゃうのと同じですよね? だったら……その前に知っておきたい」
「…………」 

 ダルメシアンはふわあとあくびをした。

「だったら、この時代にはこういう都市伝説があるらしいぞ。深夜の十二時ちょうどに合わせ鏡をすると鏡に自分の死に顔が映るってな」
「いや、あのですね、私は別に死に顔が見たいわけじゃなくって――」

 私たちは同時に溜め息をついた。

「……もういいです」
「知ってどうする。例えは悪いが君たちはジキルとハイドのようなもんだ。一方が眠って初めてもう一方が目覚める。どこまでいっても胡蝶の夢、出会うことは絶対にない」
「それは、そうだけど……」

 その時、うぉんうぉん! と、声がした。

 井戸部くんがいつの間にかこちらに近寄ってきていた。グラウンドからこちらに向かって犬の鳴き真似をしている。

「へえ。麗美ちゃん、犬なんて飼ってたんだ。それ、ポインターって言うんだっけ?」
「う、ううん。ダルメシアン」
「ああ、あれか。『101匹わんちゃん』の?」
「そ、そうかな」
「名前は?」
 私はカミジョウをちらりと見た。
「バカライター……」
「ん?」
「あ、いや、何でもないの。えーと……えーとね、バ、バ……バスチアン」

 私は咄嗟に『はてしない物語』の主役である少年の名前を口にしていた。

「へえ、バスチアンか」と、井戸部くんは笑う。「気が合いそうだな。おい、バスチアン! 俺は井戸部優イトベーユだ。よろしくな!」

 カミジョウは井戸部くんに向かってウォンと一吠えした。

 豪華なキャスティングは実にありがたいのだが、今、私が歩んでいるこの物語は『はてしない物語』などではない。この物語には必ず、『果て』がある。そしてそれは……もうそんなに遠い未来のことではないのかもしれない。
 そう思うと私はこの物語が結末に近付くことに対し、そこはかとない戸惑いを感じた。

 そう、それはまるで大好きな小説が残り数ページになってしまった時のような、そんな感覚だった。

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