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四〇八年 アラリック一世と古強者 後のディオクレティアヌス宮殿 或いは四一〇年ローマ劫略
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イリュリクムの中心都市サロナエから西に四ミアリウム余(約六・五キロメートル)、アドリア海を臨むイストリア半島の南湾に、城壁に囲まれた宮殿が建っている。
ローマの専制君主ディオクレティアヌスがこの宮殿に隠棲してからほぼ百年。千四百年後に『発見』され、ディオクレティアヌス宮殿と名付けられるこの城に、当時、住んでいたのは西ゴート王アラリック一世だった。
ポルレンティアの敗戦から、また六年が経過している。再びイタリア本土を窺えるほどに勢力をつけていたが、再起をかけて内政と外交に徹した日々は、往年の荒くれ者にも、はっきりそれとわかる変化をもたらしていた。
今、深々と玉座に腰掛けローマからの投降者を謁見する風貌にも、それが見てとれる。面長い顔には顔には深い皺が刻まれ、頬から下は豊かな髭に覆われていた。見事な肉付きは体躯をひとまわり大きく見せ、長身に羽織るマントにもかつてのような綻びはない。物腰にもゆったりとした余裕があり、所作のひとつひとつに重厚な印象を感じさせるのだった。
しばらく投降者を見下ろしていたアラリック一世は、やがて重々しく口を開いた。
「汝等の投降は予期していた。が、余が見越したよりも早かった。余はその理由を汝等に問う。何故ゆえ、かくも早く余の前に現れた」
「──スティリコ将軍に、王様のもとに行けと言われました」
投降者はスティリコの部下達であった。テオドシウス帝の時代から轡を並べ、幾多の戦場を共に駆けてきた生え抜きの古強者である。
アラリック一世は応えず、無言のままかつての敵を見返していた。どの顔も疲れ果て、沈痛な面持ちながらも、気丈に視線を受けとめている。その表情は虐げられ、傷つけられた誇りを、なおも頑固に手放すまいとしているかのようだった。
アラリック一世は表情を変えずに言った。
「余のもとにゆけと、スティリコ本人に言われたのか」
「はい」
「よかろう。その者について、余のもとにも幾通りか情報がもたらされたている。が、いずれも風聞の域を出ず、真偽をはかりかねておる。再び汝等に問う。その者について巷に噂されていることは、真実や否や」
「真実です」
絞り出すように言った古強者は、ぐっと唇を引き結んだが、嗚咽を堪えきれなかった。
「スティリコ将軍は処刑されました」
西暦四〇八年八月。西ローマの将軍スティリコは、皇帝ホノリウスに自死を命じられたのだった。スティリコは一切の抵抗をせず、逍遥として刑に服したという。
アラリック一世は目を閉じ、胸の内に去来すものを反芻するかのように、長らく身動きをせずにいた。いつも通りの沈鬱な表情からは、何の感情も読み取ることができない。やがてぶつぶつと口元が動いたが、言葉として聞きとれる者はいなかった。
「お──王様」
アラリック一世は目を開けた。
「ひとつ質問をしてもいいでございますか」
「申してみよ」
「王様は俺た──私達が王様に降参するのをわかっていたと言いました」
「然り」
「なぜ、わかったのですか」
アラリック一世は表情を変えずに、
「スティリコはホノリウスに猜疑心をもたれておった。余と三たび戦い、いずれにおいても優位に戦をすすめながら、三たびとも余を捕らえることができなかったからだ。それをホノリウスは敵と内通しておるためではないか、と解釈した」
「内通だって?」
悲痛な叫びだった。
「将軍の人柄を知っていれば、そんなことは絶対にありえないと誰でもわかるのに。あの人くらい懸命にローマに尽くした人はいないってのに!」
「しかし、ホノリウスはそれと悟る器量を持たなかった。戦も知らぬ。ただ宮廷の奥深くにこもって政ごとの真似事をしていたに過ぎぬ」
アラリック一世は感情を交えず、低い声で話し続けた。
「そしてその周囲には、官位の序列のみが政ごとであると心得違いをした佞臣が取り巻いておった。官位が何より大事な佞臣にとって、蛮族の血を引きながら戦場で武功をたて続けるスティリコは、邪魔な存在でしかなかった。それが衰退してゆくローマを、かろうじて支える唯一の存在であったとしてもだ。そして佞臣らは、そこに余と利害の一致をみた」
「王様──まさか」
「暗愚なホノリウスの猜疑を確信に変えたのは余に他ならぬ。わざわざ戦場まで様子を探りにきた宮廷詩人に、スティリコは敵将アラリックと共謀の疑い濃厚なりと報告させたのだ」
ある者は悔しさに泣き、ある者は憎しみに咽びながら仇敵を睨んでいた。血の噴き出るような視線を浴びながら、アラリック一世はなお泰然として、
「いまひとつ汝等に問う。スティリコは汝等に、出奔して余の元に降るよう命じた。なれば、余に言伝があるはずだ」
古強者たちは悔し泣きに顔を歪めながらも、戸惑った様子をみせた。心当たりはあるらしい。
「意味が分からずともよい。なんと申しておったか、ありのままに述べてみよ」
それでも彼らは迷っていたが、やがておずおずと口を開いて、
「私はローマ人だ、と」
「なんと?」
「私はローマ人だ。そう王様に伝えて欲しいと、スティリコ将軍に言われました」
アラリック一世は絶句した。
確かにホノリウス帝とスティリコの離間策を弄したのは彼だった。と同時に、彼はスティリコに内応を打診していたのだった。
『外的に抗する術を持たず、もはや民心すらも失ったローマに見切りをつけて、ともども蛮族《バルバリ》の国をつくろう』
様子を心配した近習が袖を引くまで、アラリック一世は動けずにいた。
ようやく我に返った彼は古強者に、
「余が憎いか」
「はい」
彼らは正直だった。
投降した以上、その一命はアラリック一世の一存にある。心証をよくして温情ある処遇を得よう、あわよくば取り入って禄にありつこう──そんな打算など微塵も考えない男達だった。
「それもよかろう。帰順を許す。処遇は追って沙汰する。下がるがよい」
投降者達を退出させると、アラリック一世は近習達に、
「そちらも下がれ」
「しかし」
「よいから下がれ。しばらく何人も近寄ることを許さぬ」
絞りきるようにそう言うと、ぼそりとこう続けた。
「ちっとばかし、ひとりにしてくんな」
二年後、満を持してイタリア半島に侵攻したアラリック一世は、ついにローマを陥落させた。
西ゴート王とその軍は、慣例に従い三日間に渡って千年の都を掠奪したという。
ローマの専制君主ディオクレティアヌスがこの宮殿に隠棲してからほぼ百年。千四百年後に『発見』され、ディオクレティアヌス宮殿と名付けられるこの城に、当時、住んでいたのは西ゴート王アラリック一世だった。
ポルレンティアの敗戦から、また六年が経過している。再びイタリア本土を窺えるほどに勢力をつけていたが、再起をかけて内政と外交に徹した日々は、往年の荒くれ者にも、はっきりそれとわかる変化をもたらしていた。
今、深々と玉座に腰掛けローマからの投降者を謁見する風貌にも、それが見てとれる。面長い顔には顔には深い皺が刻まれ、頬から下は豊かな髭に覆われていた。見事な肉付きは体躯をひとまわり大きく見せ、長身に羽織るマントにもかつてのような綻びはない。物腰にもゆったりとした余裕があり、所作のひとつひとつに重厚な印象を感じさせるのだった。
しばらく投降者を見下ろしていたアラリック一世は、やがて重々しく口を開いた。
「汝等の投降は予期していた。が、余が見越したよりも早かった。余はその理由を汝等に問う。何故ゆえ、かくも早く余の前に現れた」
「──スティリコ将軍に、王様のもとに行けと言われました」
投降者はスティリコの部下達であった。テオドシウス帝の時代から轡を並べ、幾多の戦場を共に駆けてきた生え抜きの古強者である。
アラリック一世は応えず、無言のままかつての敵を見返していた。どの顔も疲れ果て、沈痛な面持ちながらも、気丈に視線を受けとめている。その表情は虐げられ、傷つけられた誇りを、なおも頑固に手放すまいとしているかのようだった。
アラリック一世は表情を変えずに言った。
「余のもとにゆけと、スティリコ本人に言われたのか」
「はい」
「よかろう。その者について、余のもとにも幾通りか情報がもたらされたている。が、いずれも風聞の域を出ず、真偽をはかりかねておる。再び汝等に問う。その者について巷に噂されていることは、真実や否や」
「真実です」
絞り出すように言った古強者は、ぐっと唇を引き結んだが、嗚咽を堪えきれなかった。
「スティリコ将軍は処刑されました」
西暦四〇八年八月。西ローマの将軍スティリコは、皇帝ホノリウスに自死を命じられたのだった。スティリコは一切の抵抗をせず、逍遥として刑に服したという。
アラリック一世は目を閉じ、胸の内に去来すものを反芻するかのように、長らく身動きをせずにいた。いつも通りの沈鬱な表情からは、何の感情も読み取ることができない。やがてぶつぶつと口元が動いたが、言葉として聞きとれる者はいなかった。
「お──王様」
アラリック一世は目を開けた。
「ひとつ質問をしてもいいでございますか」
「申してみよ」
「王様は俺た──私達が王様に降参するのをわかっていたと言いました」
「然り」
「なぜ、わかったのですか」
アラリック一世は表情を変えずに、
「スティリコはホノリウスに猜疑心をもたれておった。余と三たび戦い、いずれにおいても優位に戦をすすめながら、三たびとも余を捕らえることができなかったからだ。それをホノリウスは敵と内通しておるためではないか、と解釈した」
「内通だって?」
悲痛な叫びだった。
「将軍の人柄を知っていれば、そんなことは絶対にありえないと誰でもわかるのに。あの人くらい懸命にローマに尽くした人はいないってのに!」
「しかし、ホノリウスはそれと悟る器量を持たなかった。戦も知らぬ。ただ宮廷の奥深くにこもって政ごとの真似事をしていたに過ぎぬ」
アラリック一世は感情を交えず、低い声で話し続けた。
「そしてその周囲には、官位の序列のみが政ごとであると心得違いをした佞臣が取り巻いておった。官位が何より大事な佞臣にとって、蛮族の血を引きながら戦場で武功をたて続けるスティリコは、邪魔な存在でしかなかった。それが衰退してゆくローマを、かろうじて支える唯一の存在であったとしてもだ。そして佞臣らは、そこに余と利害の一致をみた」
「王様──まさか」
「暗愚なホノリウスの猜疑を確信に変えたのは余に他ならぬ。わざわざ戦場まで様子を探りにきた宮廷詩人に、スティリコは敵将アラリックと共謀の疑い濃厚なりと報告させたのだ」
ある者は悔しさに泣き、ある者は憎しみに咽びながら仇敵を睨んでいた。血の噴き出るような視線を浴びながら、アラリック一世はなお泰然として、
「いまひとつ汝等に問う。スティリコは汝等に、出奔して余の元に降るよう命じた。なれば、余に言伝があるはずだ」
古強者たちは悔し泣きに顔を歪めながらも、戸惑った様子をみせた。心当たりはあるらしい。
「意味が分からずともよい。なんと申しておったか、ありのままに述べてみよ」
それでも彼らは迷っていたが、やがておずおずと口を開いて、
「私はローマ人だ、と」
「なんと?」
「私はローマ人だ。そう王様に伝えて欲しいと、スティリコ将軍に言われました」
アラリック一世は絶句した。
確かにホノリウス帝とスティリコの離間策を弄したのは彼だった。と同時に、彼はスティリコに内応を打診していたのだった。
『外的に抗する術を持たず、もはや民心すらも失ったローマに見切りをつけて、ともども蛮族《バルバリ》の国をつくろう』
様子を心配した近習が袖を引くまで、アラリック一世は動けずにいた。
ようやく我に返った彼は古強者に、
「余が憎いか」
「はい」
彼らは正直だった。
投降した以上、その一命はアラリック一世の一存にある。心証をよくして温情ある処遇を得よう、あわよくば取り入って禄にありつこう──そんな打算など微塵も考えない男達だった。
「それもよかろう。帰順を許す。処遇は追って沙汰する。下がるがよい」
投降者達を退出させると、アラリック一世は近習達に、
「そちらも下がれ」
「しかし」
「よいから下がれ。しばらく何人も近寄ることを許さぬ」
絞りきるようにそう言うと、ぼそりとこう続けた。
「ちっとばかし、ひとりにしてくんな」
二年後、満を持してイタリア半島に侵攻したアラリック一世は、ついにローマを陥落させた。
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