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○1章 手汗魔王と旅立ちの朝

 -6 『初心な心を弄ばれました』

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「夕食は町で食べるかどうか、どうしましょうか。野営するならそこで私がご飯を作っても良いけれど」
「町で食べよう! 絶対に!」
「そ、そう。別に手間を気遣って遠慮しなくてもいいのよ」

「大丈夫です! 町のご飯が食べたいんです!」
「わかったわよ」

 意地でも晩御飯を町の中で取ろうと説得して、ボクたちはちょうどよさそうな酒場を見つけて中に入った。

 エイミはやや不満そうだったが、ボクからすれば命を救われた思いだ。
 あの謎汁をまともに食べられなかったせいで、すっかり腹の虫が空腹に騒いでいる。

「へい、いらっしゃい」

 酒場のカウンターに腰掛けると、気前の良い声で店主の獣人が声をかけてきた。

 茶色い毛が濃い、いかつい顔をした男性だ。ずっしとした筋肉質な体格だが、黄緑色の可愛らしいエプロンをつけている。

「まず飲み物を頼んでくれ」
「私はお茶で良いわ」
「あ、じゃあボクも」

 注文をするとあっという間に、大きなジョッキに入ったお茶が出てきた。
 酒場らしい豪快な注ぎっぷりだ。これだけで腹が膨れそうなくらいには量がある。

 エイミが適当に料理を数品頼んでくれた。

 店の中は喧騒に溢れかえっている。
 椅子はほとんど埋まり、酒を片手に持った男達で目の前が埋め尽くされるほどだ。

 こんなに他の誰かがたくさんいる光景を見たのは初めてだった。

 森の中だと、これほどうるさいことなんてそうそうない。
 この店も、給仕する女性や店主は獣人で、客は人間たちばかりだった。

「よく飲んで騒いで過ごせるね」
「そういう経済体型になっているのよ」

 果たしてそれで上手く回っているのか、ボクにはわからない。

 しばらくして「へいおまち」と店主の獣人が料理を運んできた。

 頭の付いた魚の煮つけ、卵黄と絡ませて黒胡椒をかけた湯掻いた麺。隣には野菜が盛り付けられた器も添えられている。

 煮魚は甘たれの良い香りが漂ってきてイヤでも食欲をそそられる。平皿に盛られた麺料理は、纏った卵黄がランプの温かい光に当てられて、黄金色のように輝いていた。

 これは美味い。
 絶対に美味い。

「それじゃあ食べましょうか。いただきます」
「いただきます」

 エイミに続いて食器を手にしようとしたボクだが、ひとつ、重要なことに気付いた。

「あの、エイミさん」
「何よ」
「手、繋いだままで食べるんですか」
「当たり前じゃない。そうじゃないと大変なことになるでしょ」

 確かにそうだ。
 手を離せば一度ここは大惨事になるだろう。

 それはもちろん避けねばならない。
 町で食べたいと我侭言ったのはボクでもあるのだから、それくらいは許容するつもりだ。

 だが少し待って欲しい。

 右側に座り、右手で食器を持って夕食を頬張るエイミを、ボクは恨めしそうに横目で見る。

「ボク、左手で食べないと駄目なのかな」
「手を繋いでいるとそうなるわね」
「ボク、右利きなんですが」
「へえ、そう」

「左手で食べるの初めてなんですけど」
「じゃあ練習しないといけないわね」
「ボクに拒否権はないのっ?!」

 思わず声を張ってしまったが、エイミはそれでも平然と食事を続けていた。

 どうやら拒否権は無いらしい。

 仕方なく左手で食べてみた。

 木製のフォークを掴む。
 よし、ここまでは問題ない。

 次は麺に刺す。そして捻る。
 最初は上手く先っぽに負けたが、ぷるぷると手が震え、ふるい落とすように麺も滑り落ちてしまった。

「無理だ。これ、無理だよ」

 数回挑戦してみて、ようやっと口許に運びこめた。
 慣れない利き手でやるだけのことがこうも難しいとは。

「エイミ、やっぱりきついよ。左手は」

 ボクの泣き言に、ふとエイミの手が止まる。彼女の口許が柔く歪んだ気がした。

 少しイヤな予感がする。

「そう。じゃあ食べさせてあげましょうか」
「え」
「食べづらいんでしょう」
「う、うん。でもいいの?」

 言われ、ボクは瞬間的に脈拍を急上昇させていた。

 エイミが麺を器用に巻きつけ、ボクの目の前に差し出してくれる。

 これはとても気恥ずかしい。
 ボクはされているだけなのに、なんなのかこの羞恥心は。

 心がドキドキして爆発しそうだ。
 周囲の視線すら気になってしまう。

「はい、あーん」
「あ……あーん」

 思わず目を瞑り、口を開いて待ち構える。
 暴れる鼓動の音を感じながら、そのときを待った。

 待った。
 待った。
 待っ……た……?

「あれ?」

 そっと目を開ける。
 そこには、にやりとほくそ笑むエイミの姿があった。
 巻いた麺を自分の口に運び「美味しいわね」と幸せそうに頬張っている。

 弄ばれた! と気づくのが遅かった。

「ねえ、アンセル」
「な、なに」

 まんまと引っかかったボクを嗤ってくるのか、と唾を飲み込む。

 しかしエイミは繋いだ手を目の前に掲げ、

「手汗、やっぱりすごいわよ」
「うわあっ?!」

 ドキドキで大量放出されたべとべとの手を、ボクは思わず手放しそうになって危なかった。
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