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○1章 手汗魔王と旅立ちの朝

1-1 『それは危ない少女でした』

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「つまり、貴方の傍に近寄ると、貴方の意思に関係なく死んじゃうってこと?」

 ボク――アンセル――が頷き返すと、赤髪の少女は繋いだ手をぶらぶら揺らしながら首をかしげていた。

「なんにもないじゃない」
「なんにもないね」
「私は元気よ」
「そうだね、うん。痛い。振り回さないで」

 ぶんぶん、と大縄跳びのように大きく腕を振られる。

 これまでいろんな挑戦者がボクの元に訪れてきた。

 腕試しをしたいという猛者。悪を討つと掲げる名のある勇者。名声目当ての蛮族たち。その悉くを、ボクはまったく傷つくことなく返り討ちにしてきた。

 この女の子も先ほど襲ってきた男達のように死んでしまうはずなのに、どうして無事なのだろう。

 初めてのことにボクは戸惑いを隠せなかった。

「それだけ貴方の力は強いのに、どうして私は大丈夫なのかしらね」
「うーん、どうしてだろう」

 考えてはみるが、とても思い付きなどしなかった。
 そもそもボク自身、自分の力をコントロールできていない。

 驚くことはもう一つあった。

 彼女がボクに触れている間だけ、制御できない身体から溢れ出る力が抑えられていた。

 四六時中、ボクの目の前を漂って消えてくれなかった靄が晴れ、ボクの視界は久しぶりに明瞭だ。

 この少女に連れられるまま森を出たボクは、長らく見なかった澄んだ青空を見て心を弾ませたものだ。

 彼女が手をつないでくれていると、不思議と安心する。

「で、手を離したら」と少女が指を開く。

「あああ……あああ……」

 瞬間、周りに黒い靄が纏い、ボクはまるで肩が重くなった風に身体をしな垂れさせた。

「んで握ると」と少女がまた手を掴む。

「……ふう」

 瞬く間に靄が晴れ、ボクの気分も心なしか軽くなる。

「また離すと」
「あああ……」

 靄が出て。

「また握ると」
「……ふう」

 靄が晴れる。

「……面白いわね、貴方」
「遊ばないでよ!」

 つい躍起になって抗議すると、少女はほくそ笑むように表情を崩していた。

   ◇

 少女の名前はエイミというらしい。

 落ち着いた物腰や綺麗な出で立ちから、一見すると育ちのいいお嬢様みたいだ。端正な顔をしていることもあって、深窓の令嬢という言葉が似合いそうである。

 しかしその実態は、淑女という言葉とはひどく縁のない少女だった。

 クールだけど、お転婆娘。まさにその一言だ。

「とにかく、私と一緒に来てもらうわよ」
「だから、なんでボクが」
「いいじゃない」
「理由がわからないんじゃ困るよ」

 ボクがどれだけそう言っても、エイミはまったく引き下がろうとしなかった。

 教えてくれるのは「貴方の力が必要なの」ということだけ。

 それだけで判断するなんて無理な話だ。

 怪しい人に声をかけられたら簡単についていってはいけない。
 と、ボクを産んで早くに死んだ母親が言っていた気がする。たぶん。

「まあいきなりっていうのも確かに失礼な話よね。そうだ、それじゃあ気持ちを表すために、私の最高の手料理でも振舞うわ」
「えっ」

 女の子の手料理。
 それは始めての一大事だ。

「……また手汗」
「ごめんなさい!」

 つい緊張してしまい、またやらかしてしまった。

 でも仕方がない。
 女の子に触れるどころか、料理を作ってもらうことすら初めてなのだから。

「それじゃあ準備するわ」

 そう言ったエイミは早速清流のほとりで休憩を取り、大きな鞄から材料と調理器具を取り出していった。
 鼻歌まじりに干し肉や根菜、調味料などを並べ、慣れた手つきで火をおこす。

 食卓に立つ母親というのはこんな感じなのだろうか。
 女性らしい長い髪が揺れ、握った包丁や鍋が美人な顔立ちによく映える。

 さすがに調理中は手を塞ぐわけにもいかず、ボクは暗澹たる雰囲気のオーラを漏れ出しながら待っていた。

 どんな料理が出てくるのだろう。

 どんな味がするのだろう。

 長らく森の中で木の実や獣肉ばかり食べていたから、まともな料理なんて何十年ぶりだ。

 くつくつと煮立っている鍋を見つめ、ボクはわずかに心を躍らせた。

 エイミは美人な容姿から立ち居振る舞いまで、貴族令嬢として完璧だ。

 そんな彼女が作ってくれる手料理。
 さぞかし美味しいのだろうと腹の虫も勝手に騒ぐ。

 やがて、
「できたわよ」とエイミが器によそって渡してくれた。

 どうやらスープのようだ。
 石のように大きい肉が浮かび、これまた大雑把に切られた根菜も入っている。少しとろみがあるようで、スプーンですくうと、どろりとした液体がゆっくりと滴り落ちた。

 気のせいか、器の底から気泡のようなものが浮かんできている気もする。

 ――なんだろう。イヤな予感がする。

 冷や汗が背筋を伝った。
 もし今手を握っていたら、手汗で勘付かれていたことだろう。
 ボクの周囲を纏った黒い靄が、その不安を的確に表現しているみたいだ。

「さあ食べましょ」

 エイミが自分の分も用意して腰掛ける。
 そして手を合わせると、何の躊躇いもなくスープを口に入れた。

「うん。今日は悪くない味ね」
「あ、そうなんだ」

 先ほどの悪寒はボクの気のせいだろうか。
 どうやら普通に食べれているくらいだし、全然問題ないのかもしれない。

「じゃあ、ボクも。いただきます」

 せっかく作ってくれた女の子の手料理。

 心を弾ませいざ一口目。

「…………まっず!」

 途端、清々しいほどの大声でボクは思わずそう吐き出していた。

 スープを口に入れた途端の謎の舌への刺激。辛味か。それに続いて入ってくる肉は何故か塩辛い。根菜はまったく煮込みが足りていないのか物凄く固く、皮やひげが残っていて、ひどい苦味を含んでいた。

 様々な食感や味覚がぶつかりあい、口の中で大喧嘩している。
 あまりのひどさにボクは意図せず、瞬間的に黒いオーラを倍以上に放出させてしまっていた。

 慌てて川へと駆け出し、なりふり構わず顔を突っ込んで口の中をゆすぐ。

 なんだこれは。ボクはいったい何をされたのだ。

 エイミが作ってくれた料理を食べた。
 いや、これは果たして料理だったのか。ボクを暗殺しようとする毒だったのではないか。

「なにやってるのよ急に」
「いや、これ。これなんですか」
「なにって、スープよ。見てわからないの」

「何で食べれてるの」
「何でって。食べ物は食べるものでしょ。何を言ってるのよ」

 問答の間も、エイミは当たり前のようにスープを口に運んでいる。

 何故食べられるのか。
 むしろボクの味覚がおかしいのか?

 ずっと森に引きこもっていたから、普通の味を忘れてしまったのだろうか。

 とにかく、ボクにはもう無理そうだ。

「ご、ごちそうさま」
「あら、もういいの? もっと食べてもいいのよ」
「いやあ、ボク、ちょっと小食で」

「そうなの。男子はよく食べるものだと聞いてたからたくさん作っちゃったのに」
「そ、そうなんだ」

 これはおかわりさせられた流れか。
 真っ先に断っておいてよかった、本当に。

 ボクは気遣って無理して食べなかった数十秒前の自分に精一杯の感謝を捧げておいた。
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