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-8 『藁をも掴む』
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「おや、どうしたんだい。諦めて力でも抜けてしまったのかい?」とミトが悪味の帯びた顔で笑う。さも気持ちよさそうに。
そんな彼女に向かった私に、しかしミトは途端に驚いた顔を浮かべた。
「ミトさん。どうか、クランク様の接客にいってもらえないでしょうか」
私は深く、床につけるほど深く頭を下げていた。
ミトどころか、従業員達までが一斉にどよめく。まさか私がそこまでするとは思っていなかったようだ。
それでも私は、恥も外聞も無く土下座をしていたのだった。
「お願いします。クランク様の接客にはミトさんが必要なんです。彼は領主。生半可な接客では失礼に当ります。仲居頭であるミトさんのご協力が必要なんです」
「はっ。そこまでして実家に帰りたくないかい。滑稽だねえ」
「……シェリーさん」
何を言われても仕方がない。
けれども、私は決して諦めるつもりはなかった。
「……私は、どんなことをしてでも物事をやり遂げてみせる。そのためだったら泥水だってすすってみせる」
「お金持ちのお嬢様の言う台詞じゃあないねえ。どうせこの旅館がどうなったって、あんたには関係ないんだろう? 失うものも何もないくせに、よくあたし達の旅館を弄べるものだよ」
「そんなことないわ」
私は頭だけを持ち上げ、ミトを見つめて首を振る。その眼差しはとても強く、目が合ったミトの余裕ある笑みが微かに陰った。
「私の持っている全財産。小物も、宝石も。その全てをお金に変えて、この旅館に投資したわ。私みたいな小娘が来ただけで改築なんかできるわけない。私の持っている、私の資産全てをここに注いだの。お気に入りの香水も、服も、何もかも」
そう、私は全てをここに賭けていた。
元より帰るつもりなんてない。
実家に戻れば、空っぽになった空き部屋があるだけ。私がこれまで溜め込んだ全ての物を換金し、この旅館の改築などの費用に充てていた。
「私は確かに自分のためにここに来た。けれど、この旅館が賑わって欲しいっていうのは本当よ。そこに邪念があろうとも、ここがすばらしい場所になって欲しいっていうのは心から真剣に、真面目にやってきたことよ」
手を抜いたことなんて一度もない。
適当に思ったことなんてあるはずがない。
私はこの旅館に、人生の行く末を捧げたのだから。
本気であるという具合は、決して彼ら従業員達にも負けないつもりだ。
それでもお父様から認めてもらうためという邪な想いである事は変わりないけれど。
私の心からの言葉に、ミトは言葉を失っているようだった。
ミトだけではない。フェス達も同じように、頭を低くしている私の様子を気まずそうに窺っている。
「私のことは見損なってくれて結構だわ。けれど今、すぐそこでお客様が待ってる。それを放っておくことが、ただただ、私にはできない……」
お父様に連れ戻されたってもういい。ここまでぐだぐだで、ひどい状況だ。もう私の未来などわかりきったようなものだろう。
けれども、お父様はお客様なのだ。
お客様を待ちぼうけさせているというこの状況を、私は息苦しく思った。
誰も行かないのなら行こう。
接客のいろはなんてわからないけど、ただ待たせるよりずっとマシだ。
事務所に静かな沈黙が走る。
「……わかった。もういいわ。お父様の相手は全部私がする」
もう、それしかない。
「私は大人しくこの旅館を去るわ。きっと数日後には帰ることになる。これまで短かったけれど世話になったわね」
「シェリーさん」
「ごめんなさい。私の『遊び』につき合わせちゃって。みんな、明日からは今までどおりの旅館に戻ってもらって結構よ」
もう駄目だとわかった途端、体が少し軽くなった気がした。吹っ切れたのだろうか。自棄になっているだけかもしれない。
でも、もういいや。
陰鬱と、嘆息を交えて私が立ち上がった瞬間だった。
「なにをやってるんだいお前達!」
けたたましいほど良く通る大声が、事務所の中に響いたのだった。
そんな彼女に向かった私に、しかしミトは途端に驚いた顔を浮かべた。
「ミトさん。どうか、クランク様の接客にいってもらえないでしょうか」
私は深く、床につけるほど深く頭を下げていた。
ミトどころか、従業員達までが一斉にどよめく。まさか私がそこまでするとは思っていなかったようだ。
それでも私は、恥も外聞も無く土下座をしていたのだった。
「お願いします。クランク様の接客にはミトさんが必要なんです。彼は領主。生半可な接客では失礼に当ります。仲居頭であるミトさんのご協力が必要なんです」
「はっ。そこまでして実家に帰りたくないかい。滑稽だねえ」
「……シェリーさん」
何を言われても仕方がない。
けれども、私は決して諦めるつもりはなかった。
「……私は、どんなことをしてでも物事をやり遂げてみせる。そのためだったら泥水だってすすってみせる」
「お金持ちのお嬢様の言う台詞じゃあないねえ。どうせこの旅館がどうなったって、あんたには関係ないんだろう? 失うものも何もないくせに、よくあたし達の旅館を弄べるものだよ」
「そんなことないわ」
私は頭だけを持ち上げ、ミトを見つめて首を振る。その眼差しはとても強く、目が合ったミトの余裕ある笑みが微かに陰った。
「私の持っている全財産。小物も、宝石も。その全てをお金に変えて、この旅館に投資したわ。私みたいな小娘が来ただけで改築なんかできるわけない。私の持っている、私の資産全てをここに注いだの。お気に入りの香水も、服も、何もかも」
そう、私は全てをここに賭けていた。
元より帰るつもりなんてない。
実家に戻れば、空っぽになった空き部屋があるだけ。私がこれまで溜め込んだ全ての物を換金し、この旅館の改築などの費用に充てていた。
「私は確かに自分のためにここに来た。けれど、この旅館が賑わって欲しいっていうのは本当よ。そこに邪念があろうとも、ここがすばらしい場所になって欲しいっていうのは心から真剣に、真面目にやってきたことよ」
手を抜いたことなんて一度もない。
適当に思ったことなんてあるはずがない。
私はこの旅館に、人生の行く末を捧げたのだから。
本気であるという具合は、決して彼ら従業員達にも負けないつもりだ。
それでもお父様から認めてもらうためという邪な想いである事は変わりないけれど。
私の心からの言葉に、ミトは言葉を失っているようだった。
ミトだけではない。フェス達も同じように、頭を低くしている私の様子を気まずそうに窺っている。
「私のことは見損なってくれて結構だわ。けれど今、すぐそこでお客様が待ってる。それを放っておくことが、ただただ、私にはできない……」
お父様に連れ戻されたってもういい。ここまでぐだぐだで、ひどい状況だ。もう私の未来などわかりきったようなものだろう。
けれども、お父様はお客様なのだ。
お客様を待ちぼうけさせているというこの状況を、私は息苦しく思った。
誰も行かないのなら行こう。
接客のいろはなんてわからないけど、ただ待たせるよりずっとマシだ。
事務所に静かな沈黙が走る。
「……わかった。もういいわ。お父様の相手は全部私がする」
もう、それしかない。
「私は大人しくこの旅館を去るわ。きっと数日後には帰ることになる。これまで短かったけれど世話になったわね」
「シェリーさん」
「ごめんなさい。私の『遊び』につき合わせちゃって。みんな、明日からは今までどおりの旅館に戻ってもらって結構よ」
もう駄目だとわかった途端、体が少し軽くなった気がした。吹っ切れたのだろうか。自棄になっているだけかもしれない。
でも、もういいや。
陰鬱と、嘆息を交えて私が立ち上がった瞬間だった。
「なにをやってるんだいお前達!」
けたたましいほど良く通る大声が、事務所の中に響いたのだった。
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