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3. 野獣、企む
野獣、企む ⑤
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高本家での話し合いを終えて病室に戻った京平は、痛みで寝入る事ができずにずっとうつらうつらしていた。
瀬里を狭間家に引き込む算段が着いてほっとしたのか、出会った頃の情景が脳裏に浮かぶ。自然と口元が綻んだ。
当時瀬里はまだ全寮制中高一貫校の中等部二年生で、夏休みの帰省中だった。
その頃の京平は、堪りに堪った親に対する鬱憤や情と名の付くものに懐疑的になっており、あることが発端となってかなり荒れていた。
当時、京平には一応 “母親” と称する人が居た。尤も血は繋がっていない義理の、だったが。とにかくこの義母との折り合いが悪かった。
京平の実母は彼を妊娠中に癌が見つかり、出産してから二年ほどして他界している。その時に住み込みの家政婦として働いていたのが義母だった。
正直、子供の目には実母の痩せ衰えた姿が恐ろしかったのだろう。実母には懐かなくて寂しい思いをさせていたようだ。
一方で家政婦には良く懐いていたらしい。
その裏で義母が画策していた事に、子供の京平が気付ける筈もなく。
良き家政婦、良き理解者を演じながら、彼女は深く入り込んできた。
実母に “自分が亡くなった後の京平と勝明を頼む” と、勝明の前でまんまと言わせることに成功し、消沈した父を籠絡した。
そして間もなく弟が生まれる。実母が亡くなって半年も経たないうちに。
今ならば、父もやっぱり男だったんだなあ、と理解もできるが、息子としては余命幾ばくもなっかた実母が哀れだと思う。
弟が生まれたことを凄く喜んだ記憶はある。
しかしそれからの義母は、実子にかまけてばかりいた。勿論、勝明の前ではそんな様子を微塵も見せることはなかったが。
勝明に訴えようとしたとて、義母に邪魔されて終わりだ。
父の前では良妻賢母を貫く義母との確執。
初めは可愛いと思っていた弟さえ憎らしくなっていく。
家の中に居場所が失くなっていく心許なさ。
そして決定的な日がやってくる。
学校をサボってこっそり帰宅すれば、来客中だった。
応接室で話し声がする。
勝明は取材旅行で留守にし、子供たちは学校と、気を抜いていたのだろう。
女同士の軽口が耳に入って、京平は足を止めた。
「しっかし、あんたも上手く取り入ったわよねぇ。ベストセラー作家の夫人とかって。どんだけ贅沢させて貰ってんのよ」
「所詮は男よ。寄り添って、親身になって、ちょっと誘ったら直ぐだったわよ。コブ付きなのはマイナス点だけど、それがなかったら上がり込むことも出来なかったしね」
「贅沢できるんだったらコブ付きだって良いじゃない。あ~あ。肖りたいわ」
聞けば聞くほど、頭が沸騰した。
この生活を守るためなら股も開くわよ、そうケラケラ笑っている義母の声が不快だった。
京平は襖を勢いよく開け放つ。
振り返った義母と友人の驚愕する顔。
義母にまっすぐ向かい、京平は拳を振り下ろした。
響き渡る悲鳴。
後にも先にも女性を殴ったのは初めてだったが、悪いことをしたとは思わなかった。寧ろ半殺しにしなかっただけ感謝して欲しいと思ったくらいだ。
吹っ飛んで畳に蹲る義母を冷ややかに見下ろして、京平は踵を返すとその足で家を出て行った。
小さい頃からの避難場所、幼馴染みの上條保の家に転がり込んだ。
毎度の事だが、保の両親はにこやかに歓迎してくれる。正直自宅よりも居心地がいい。
翌日には、急遽日程を取りやめた勝明が訪ねてきたが、会わなかった。顔を見たら勝明のこともボコボコに殴りそうだったから。
せっかく入学した高校にもまともに登校せず、街を徘徊しては喧嘩し、適当な女を見繕っては享楽に耽る投げやりな日々。
瀬里はそんな時に巡り合った奇跡だった。
中学生女子とは思えない長身とスレンダーな姿態。
それだけだったなら、“きれいな子だな” とチラリ考えただけですぐに忘れた。京平の興味をそそって、ドツボに嵌るような事にもならなかっただろう。
まあ、このドツボが存外心地よいのだが。
意識が落ちていく。
出会った頃の記憶の中に。
その日の京平は居候先である上條家に帰る途中、ふと思い立って横道に逸れると、最寄りの駅に足を向けていた。
こういう時の虫の知らせ的な直観に、京平は素直に従うことにしている。そんな所が周囲からすれば野生動物らしいのだが、本人は全く気にしていない。
間もなく駅に辿り着こうかと言う所まで来て、京平は不意に足を止める。
前方でスーツ姿の女性が数人の男に絡まれているのが目に入り、僅かに眉を顰めた。ぶっちゃけ正義感溢れた性格でもなし、関わるのも面倒臭い。素知らぬ振りして通り過ぎる心算でいたのだが。
そんな京平の脇を走り抜ける存在がいた。
走って行く後ろ姿を何の感慨もなく目で追う。
絡まれたくないから一気に脇を駆け抜けたとして、誰も責めたりしない。実際遠巻きにして通り過ぎる人の何と多い事か。
誰だって我が身が可愛いに決まっている。女性ならば尚のこと。下手な正義感は命を縮めるだけだ。
なのに。
走り去るものだと思って、見るともなしに見ていたのに。
彼女―――瀬里は助走をつけた脚で地面を蹴ると、絡まれている女性を上手く躱して一人の男を見事に蹴り伏せた。
突然の出来事に男たちが束の間呆けていたのだが、瀬里が蹴り飛ばした男の腹を踏み躙りつつ「あんたら女性一人に束にならないと何も出来ないの? サイッテーね」と侮蔑の表情で煽る。男たちはゴロツキの定番とも言える台詞を口々に吐きながら、一気に瀬里へと向かって行った。
あ~あ馬鹿だねぇ、と口中で呟いて、無鉄砲な彼女に薄笑いを浮かべる。
多少腕に覚えがあるにしても、瀬里の行動は無謀としか思えなかった。相手は男だ。力の差は歴然である。
だからと言って加勢してやる気もない。
酷い目に遭おうが、それは彼女の自業自得だ。
面倒事は勘弁だ。
だから、さっさとこの場を立ち去ればいい。
頭では冷めたことを考えているのに、何故だか足が動こうとしてくれない。
目が、彼女を追ってしまう。
スカーフだろうか。それで顔の下半分を隠して、妙にこなれている感があるのは気のせいか。
尤も。ネコ科の動物のような印象的な双眸が露出していては、必ずしも成功してるとは言い難い。次に街中ですれ違ったとして、京平は彼女を判別できる自信があった。
埒もないことを考えて苦笑する。
ノースリーブのパーカーとショートパンツから伸びる肢体は細くしなやかで、とても男たちに敵うとは思えないものであるのに、手玉に取られているのはその男たちで。
彼女から繰り出される拳と蹴りが、面白いくらいに決まる。
心の中で、何かが動き出した気がした。
ずっと澱のように沈殿し続けたものが、たった一滴の水が落ちただけでふわりと舞い上がりゆらゆらと揺蕩い沈んでいく。そんな細やかな変化でしかなかったが。
彼女をもっと見ていたい、素直にそう思っていた。
この感情がどういったものなのか判らない。
単なる興味であれば、すぐに飽きることも考えられるが、それでも久々に京平の感情を揺らした彼女と、このまま何事もなかった様に別れてしまうのが惜しい。
双眸に彼女を映したまま思考に耽っていると、突然彼女は動きを止めて顔色を悪くする。彼女の視線の先を追ってみれば、成程。誰かが警察に通報したのだろう。複数の警官が走って来るのが目に入った。
男たちが慌てて散り散りに逃げて行く。
そして瀬里もそれに倣うかのように踵を返し、ふと足を止めてスーツの女性に会釈すると、今度こそ走り出した。
京平の方に向かって彼女が駆けてくる。だが彼に一瞥もくれる事なく脇を走り抜けて行こうとする。咄嗟に伸ばした手は、彼女の背中で弾んだ長い髪を無造作に掴んだ。
突然躰が後ろに傾ぎ、面食らった表情の瀬里が振り返る。
「何すんのよっ!」
思わぬ怒声に一瞬呆けて彼女を見下ろした。
いきなり後ろから髪を引っ張られて怒らない人はいない。頭ではそう理解しているものの、自分が何故このような行動に出たのか解らずに、彼の手から無造作に髪を奪い返そうとする姿を眺め下ろしていた。
「ちょっとぉ! 放しなさいよっ」
開かない手をムキになって開かせようとする彼女を、ただじっと見ている京平に業を煮やしたのか、彼の背後にチラリ視線をやってから不意に殺気を放つ。
咄嗟に手を放し、京平は大きく一歩飛び退った。
「……仕損じたか」
なんとも物騒なことを本気で残念そうに呟く。
先刻まで京平が立っていた場所を目掛けて繰り出されていた膝が、ストンと落ちる。これにはさすがの京平も肝が冷えた。
「あっぶねぇ」
思わず溢れた安堵。
彼女の蹴りから鑑みるに、まともに食らったら男が終わったかも知れない。
京平がこっそり胸を撫で下ろしているその隙きに瀬里は素早く踵を返し、脱兎の如き速さで走り去って行った。
あっという間に遠く離れていく背中を視線で追いかける京平に、二人の警官が話しかけてくる。
瀬里のことを尋ねられたが、すっとぼけた。事実、彼女の事なんてこれっぽっちも知らない。
寧ろこっちが聞きたいくらいだ、とつい怒鳴ってしまったのは、まあご愛嬌であろう。
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