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1. 残念美女は野獣の元に送り出される
残念美女は野獣の元に送り出される ⑨
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***
昨日はとても長く感じた一日だった。
京平の『その気にさせる』宣言からこっち、朝目が覚めるまでの記憶が今一定かではない。薄っすらと『明後日の朝、仕事前に』云々と聞いたような気がするが、取り敢えず、無意識でもちゃんとパジャマに着替える事はしていたようで、妙な安堵を覚える。
瀬里はぼんやりする頭のままベッドから抜け出し、そのままの格好で階下のリビングに向かった。
誰もいない空間に目を一巡させ、ソファにドサッと腰掛けた。テレビの上の壁掛け時計を見るともなしに見、テレビのリモコンのボタンを押す。映し出された朝のワイドショーでは、先日の事件の映像を流すとともに、コメンテーターたちが憤りも露わに語っていた。
瀬里の人生が一変してしまった切っ掛けを目にし、苦い思いに舌を打つ。
「…朝から気分悪っ」
腹立ち紛れにチャンネルを変えてみても、どこの局も一様に同じ内容で、苛々しながらテレビを消すとリモコンをソファに投げ捨てた。
背凭れに躰を預け、天井を仰いで長い溜息を吐く。ゆっくりとした瞬きを一つ。瀬里は跳ね起きて立ち上がった。
続き間のダイニングキッチンのテーブルには、ラップの掛けられた朝食が用意されている。束の間、目を遣った瀬里は興味が失せたように視線を外すと、コーヒーメーカーにマグカップを据えてボタンを押した。
すぐにコーヒーの芳醇な香りが漂い始める。どこかホッとした。
カップを片手にテーブルに着く。小さなサラダボールを傾けて中を覗き、ラップを半分だけ開けたそこからブロッコリーを抓んで口に放り込んだ。
咀嚼しながら左手で頬杖を着き、右手のコーヒーをゆっくりと口に運ぶ。
家の中はしんと静まり返っている。
もう皆、仕事に出掛けたようだ。
小さく吐息を漏らし、瀬里は今日のスケジュールを頭の中でざっと確認した。
今日の仕事は午後からで、昼前に華子が迎えに来る事になっている。
胸の前にさらりと流れ落ちた髪を一房手に取り、何気なく目の前に持って行くと、じっと見つめたままコーヒーを啜る。
「…………」
リビングの壁掛け時計にもう一度目を遣って、視線を手元に戻す。摘まんだ髪を角度を変えながら眺めた後、指がパッと離れた。
「よしっ」
瀬里は一気にコーヒーを飲み干し、手早くテーブルを片付けると、何かに追い立てられるように自分の部屋に駆け戻って行った。
***
二十二時を回る前に帰宅すると、華子から連絡を受けて玄関で待っていた利加香の悲鳴に出迎えられた。
まあ想定の範囲内だったので、平然と扉を閉めて鍵を掛ける。
リビングの方が俄かに騒がしくなり、晃や上の兄たち三人がまろび出るように、廊下に姿を現した。男たちは瀬里を見るなりあんぐりと口を開けていて、瀬里は「あ、やっぱり?」と悪戯が成功した子供のようにクスクス笑った。
「せっ……瀬里ちゃん!? 一体どう言うこと!?」
わなわなと震える利加香の手が伸びて、瀬里の首筋を掠めていく。髪がツンと引っ張られる様な感じがして、目だけを動かすと髪に触れている母の手を見た。
今朝まで背中の中程まであった髪が、今ではショートボブになっている。
瀬里は白く長い項を撫で上げて、ショックを隠せない利加香ににっこり笑いかけた。
「いやーぁ。バッサリいったら軽いこと軽いこと。襟足がスースーして妙な感じだけど」
自分でも思い切った事したなぁとは思うけど、存外気に入っている……のだが、母は違ったらしい。不興を隠しもせず、じとりとした目で瀬里を見ている。
「唯一、瀬里ちゃんが女の子らしい所だったのにぃ」
「別に男っぽくしてないでしょ」
ムッとして母の言葉に反論を唱えた。
シンプルな物が好きではあるけど、洋服や持ち物は女性用だ。どちらかと言えば大人っぽいデザインが多いものの、似合うかどうかは別として、可愛い物だって相応に好きだし、男っぽく振舞っている心算もない。
「だってだって。瀬里ちゃんてば、身長がにょきにょき伸びちゃって、そこいら辺の男の子並みだし、お胸は些か控えめだし、何方かと言えば筋肉質でフニャフニャした所が少ないし、子供たちの中で一番ケンカ強いし、全然女の子っぽくないんだもの!」
「そこまで娘をディスる?」
何だか泣きたくなってきた。
高身長なのも筋肉質なのも……胸が、思ったほど育たないのも、瀬里のせいではない。間違いなく晃の遺伝子のせいだ。
実際、利加香を除いた高本一家が横並びに並ぶと、林立する木の如く、それはそれは圧迫感がある。父方の親戚が集まった時など、嫁である伯母たちが小動物のように可愛らしく見える程だ。
(モデルとしては恵まれた体型だけどね)
今となってはそれに感謝しているけど、だからと言って小さくて可愛らしい女の子に、憧れないわけではない。
母に似ていたら、と同級の男子たちよりも大きかった小学生の頃は、よく思ったものである。
(まあ所詮、無い物ねだりなんだけどね)
項垂れて溜息を吐きつつ家に上がり、利加香の嘆きをスルーして脇を通り抜けた。リビングの入り口で未だ呆けたまま、瀬里を見ている男たちの前で立ち止まる。眉間にクッと力を込め「邪魔なんだけど」と四人の顔を順繰り見、掻き分けて間をすり抜けた。
ソファにバッグを置いてその足でキッチンに向かう。後からゾロゾロと続いて来た両親たちはソファに腰を下ろし、瀬里を注視したままだ。
(そんなに変かな?)
コーヒーメーカーにマグカップを据えて、耳元で揺れる毛先に目を遣りながらスタートボタンを押す。
物言いたげな家族の視線を敢えて無視し、抽出される褐色をぼんやりと眺めていた。
利加香の望みだったから、髪をずっと伸ばしてきただけだ。それ以外は髪になんの感慨もない。
(本当はベリーショートにしたかったんだけどな。これでも思い止まっただけ、頑張ったよあたし)
何を頑張ったのだか疑問だが。
ぽたりと、褐色の滴が落ちるのを見るともなしに見て、意識の焦点をカップに合わせた。瀬里はマグカップを手にリビングまで戻り、ソファのバッグを肩に掛けると、足早にこの場から撤退しようとした。
「瀬里ちゃん」
利加香に呼び止められて、有耶無耶にはさせてくれなかったかと肩を落とす。顔だけを母に向けて「なに?」と返した。躰はいつでも逃げられる体勢で。
「どうして、髪の毛切っちゃったの? ママ、瀬里ちゃんの綺麗な髪好きだったのに」
「どうしてって……。そんなに似合わない?」
ふと、今日の仕事関係者の反応を思い返す。華子は一瞬絶句したものの『いいわねぇ』と言ってくれたし、他の人たちの反応も概ね良好だった。
「似合わない、わけではないの。ただ、昨日のことがあったから」
「別に、当て擦ってる訳でも、反抗している訳でもないわよ?」
「だったらどうして急にこんな事するの?」
「うーん……切りたかったから? ……確かに、昨日の事が全く関係ないって言ったら嘘になるけど」
「ママに対する意趣返し?」
利加香は隣に座る晃の腕に縋りながら、上目遣いの涙目で瀬里を窺ってくる。彼女は溜息を吐くと「だから違うって」と少々うんざりした声を漏らした。
病院ではシャキシャキとして、頼りになる看護師長のはずなのに、瀬里が絡むとどうしてこんなに残念な人になってしまうのだろうか。
瀬里はもう一度溜息を漏らし、ソファに座って彼女を窺う両親や兄たちに視線を一巡すると、再び口を開いた。
「明日から、手伝いに行くわけじゃない? 通いなら兎も角、住み込み……はぁぁぁぁあ………ケジメつけるって言ったんだから、行くけどっ! 手伝いに行って、自分の事に時間かけ過ぎるのは、ちょっと違うかなと思っただけよ。髪が短くなった分、乾かす手間が省けるでしょ」
どうだとばかりに胸を張り、毒気を抜かれたような顔で瀬里を見上げる面々。晃が「そうですね」と同意するのを耳にして、瀬里は心の中で「よしっ」と拳を握った。
尤もらしいことを言った瀬里だが、髪を切ったのには他にも理由があった。
遡ること二年半前。
京平との出会いに起因する。
(奴の手から逃げるのに、長い髪は邪魔なだけ。あの時みたいなことは、二度と御免だわ。……ホントにホントに、ムチウチにならなかったのは奇跡よ!)
悪気はなかったと言っていたが、何処まで本心か分かったものではない。何しろ相手はあの京平だ。一分の油断もしてはならないのだ。
これで用はなくなっただろうと、満足気に口角を持ち上げる。と、基樹が訝しそうに口を開いた。
「何か、釈然としないもの感じるんだけど」
「……気のせいじゃない?」
「そうか?」
やはり納得してない基樹だったが、瀬里はお座成りに「そうそう」と相槌を打つと、これ以上引き止められないうちにリビングから逃げ出した。
階段を上りながら「ふうっ」と存外大きな溜息が漏れた。慌てて口を閉じ、思わず階下を振り返ってしまう。溜息くらいなら聞こえようもないのだけど。
瀬里は急ぎ足で部屋に戻ると、ローテーブルにマグカップを置き、ん? と首を傾げる。部屋に入って正面。ベッドの足元側に、用意した覚えもないキャリーバッグが二つ。四つん這いで近付いて、片手で揺すってみればしっかりとした重量感。中身がぎっちり詰まっていることに嫌でも気付かされた。
「用意周到だな、おい」
心情的にはキャリーバッグの中身をぶち撒けてやりたいところだが、精神的疲弊が酷すぎて、瀬里はパタリとその場に倒れ伏した。
すっかり短くなってしまった髪がサラサラと目元を覆う。
「絶対に……」
髪を掴まれて出来た悪縁。
「絶対に、これっきりで縁切ってやる」
唸るように呟いた。
切った髪と共に悪縁がなくなります様にと、一縷の望みを託した願掛け。
明日の朝、とうとう狭間家に行かなければならない。
「京平なんかの好いようにはさせないんだから」
憎たらしい男の不遜な笑い顔が脳裡に浮かんで、瀬里は思い切り顔を顰めた。
そして呟く。切実に。
「家出したい……」
昨日はとても長く感じた一日だった。
京平の『その気にさせる』宣言からこっち、朝目が覚めるまでの記憶が今一定かではない。薄っすらと『明後日の朝、仕事前に』云々と聞いたような気がするが、取り敢えず、無意識でもちゃんとパジャマに着替える事はしていたようで、妙な安堵を覚える。
瀬里はぼんやりする頭のままベッドから抜け出し、そのままの格好で階下のリビングに向かった。
誰もいない空間に目を一巡させ、ソファにドサッと腰掛けた。テレビの上の壁掛け時計を見るともなしに見、テレビのリモコンのボタンを押す。映し出された朝のワイドショーでは、先日の事件の映像を流すとともに、コメンテーターたちが憤りも露わに語っていた。
瀬里の人生が一変してしまった切っ掛けを目にし、苦い思いに舌を打つ。
「…朝から気分悪っ」
腹立ち紛れにチャンネルを変えてみても、どこの局も一様に同じ内容で、苛々しながらテレビを消すとリモコンをソファに投げ捨てた。
背凭れに躰を預け、天井を仰いで長い溜息を吐く。ゆっくりとした瞬きを一つ。瀬里は跳ね起きて立ち上がった。
続き間のダイニングキッチンのテーブルには、ラップの掛けられた朝食が用意されている。束の間、目を遣った瀬里は興味が失せたように視線を外すと、コーヒーメーカーにマグカップを据えてボタンを押した。
すぐにコーヒーの芳醇な香りが漂い始める。どこかホッとした。
カップを片手にテーブルに着く。小さなサラダボールを傾けて中を覗き、ラップを半分だけ開けたそこからブロッコリーを抓んで口に放り込んだ。
咀嚼しながら左手で頬杖を着き、右手のコーヒーをゆっくりと口に運ぶ。
家の中はしんと静まり返っている。
もう皆、仕事に出掛けたようだ。
小さく吐息を漏らし、瀬里は今日のスケジュールを頭の中でざっと確認した。
今日の仕事は午後からで、昼前に華子が迎えに来る事になっている。
胸の前にさらりと流れ落ちた髪を一房手に取り、何気なく目の前に持って行くと、じっと見つめたままコーヒーを啜る。
「…………」
リビングの壁掛け時計にもう一度目を遣って、視線を手元に戻す。摘まんだ髪を角度を変えながら眺めた後、指がパッと離れた。
「よしっ」
瀬里は一気にコーヒーを飲み干し、手早くテーブルを片付けると、何かに追い立てられるように自分の部屋に駆け戻って行った。
***
二十二時を回る前に帰宅すると、華子から連絡を受けて玄関で待っていた利加香の悲鳴に出迎えられた。
まあ想定の範囲内だったので、平然と扉を閉めて鍵を掛ける。
リビングの方が俄かに騒がしくなり、晃や上の兄たち三人がまろび出るように、廊下に姿を現した。男たちは瀬里を見るなりあんぐりと口を開けていて、瀬里は「あ、やっぱり?」と悪戯が成功した子供のようにクスクス笑った。
「せっ……瀬里ちゃん!? 一体どう言うこと!?」
わなわなと震える利加香の手が伸びて、瀬里の首筋を掠めていく。髪がツンと引っ張られる様な感じがして、目だけを動かすと髪に触れている母の手を見た。
今朝まで背中の中程まであった髪が、今ではショートボブになっている。
瀬里は白く長い項を撫で上げて、ショックを隠せない利加香ににっこり笑いかけた。
「いやーぁ。バッサリいったら軽いこと軽いこと。襟足がスースーして妙な感じだけど」
自分でも思い切った事したなぁとは思うけど、存外気に入っている……のだが、母は違ったらしい。不興を隠しもせず、じとりとした目で瀬里を見ている。
「唯一、瀬里ちゃんが女の子らしい所だったのにぃ」
「別に男っぽくしてないでしょ」
ムッとして母の言葉に反論を唱えた。
シンプルな物が好きではあるけど、洋服や持ち物は女性用だ。どちらかと言えば大人っぽいデザインが多いものの、似合うかどうかは別として、可愛い物だって相応に好きだし、男っぽく振舞っている心算もない。
「だってだって。瀬里ちゃんてば、身長がにょきにょき伸びちゃって、そこいら辺の男の子並みだし、お胸は些か控えめだし、何方かと言えば筋肉質でフニャフニャした所が少ないし、子供たちの中で一番ケンカ強いし、全然女の子っぽくないんだもの!」
「そこまで娘をディスる?」
何だか泣きたくなってきた。
高身長なのも筋肉質なのも……胸が、思ったほど育たないのも、瀬里のせいではない。間違いなく晃の遺伝子のせいだ。
実際、利加香を除いた高本一家が横並びに並ぶと、林立する木の如く、それはそれは圧迫感がある。父方の親戚が集まった時など、嫁である伯母たちが小動物のように可愛らしく見える程だ。
(モデルとしては恵まれた体型だけどね)
今となってはそれに感謝しているけど、だからと言って小さくて可愛らしい女の子に、憧れないわけではない。
母に似ていたら、と同級の男子たちよりも大きかった小学生の頃は、よく思ったものである。
(まあ所詮、無い物ねだりなんだけどね)
項垂れて溜息を吐きつつ家に上がり、利加香の嘆きをスルーして脇を通り抜けた。リビングの入り口で未だ呆けたまま、瀬里を見ている男たちの前で立ち止まる。眉間にクッと力を込め「邪魔なんだけど」と四人の顔を順繰り見、掻き分けて間をすり抜けた。
ソファにバッグを置いてその足でキッチンに向かう。後からゾロゾロと続いて来た両親たちはソファに腰を下ろし、瀬里を注視したままだ。
(そんなに変かな?)
コーヒーメーカーにマグカップを据えて、耳元で揺れる毛先に目を遣りながらスタートボタンを押す。
物言いたげな家族の視線を敢えて無視し、抽出される褐色をぼんやりと眺めていた。
利加香の望みだったから、髪をずっと伸ばしてきただけだ。それ以外は髪になんの感慨もない。
(本当はベリーショートにしたかったんだけどな。これでも思い止まっただけ、頑張ったよあたし)
何を頑張ったのだか疑問だが。
ぽたりと、褐色の滴が落ちるのを見るともなしに見て、意識の焦点をカップに合わせた。瀬里はマグカップを手にリビングまで戻り、ソファのバッグを肩に掛けると、足早にこの場から撤退しようとした。
「瀬里ちゃん」
利加香に呼び止められて、有耶無耶にはさせてくれなかったかと肩を落とす。顔だけを母に向けて「なに?」と返した。躰はいつでも逃げられる体勢で。
「どうして、髪の毛切っちゃったの? ママ、瀬里ちゃんの綺麗な髪好きだったのに」
「どうしてって……。そんなに似合わない?」
ふと、今日の仕事関係者の反応を思い返す。華子は一瞬絶句したものの『いいわねぇ』と言ってくれたし、他の人たちの反応も概ね良好だった。
「似合わない、わけではないの。ただ、昨日のことがあったから」
「別に、当て擦ってる訳でも、反抗している訳でもないわよ?」
「だったらどうして急にこんな事するの?」
「うーん……切りたかったから? ……確かに、昨日の事が全く関係ないって言ったら嘘になるけど」
「ママに対する意趣返し?」
利加香は隣に座る晃の腕に縋りながら、上目遣いの涙目で瀬里を窺ってくる。彼女は溜息を吐くと「だから違うって」と少々うんざりした声を漏らした。
病院ではシャキシャキとして、頼りになる看護師長のはずなのに、瀬里が絡むとどうしてこんなに残念な人になってしまうのだろうか。
瀬里はもう一度溜息を漏らし、ソファに座って彼女を窺う両親や兄たちに視線を一巡すると、再び口を開いた。
「明日から、手伝いに行くわけじゃない? 通いなら兎も角、住み込み……はぁぁぁぁあ………ケジメつけるって言ったんだから、行くけどっ! 手伝いに行って、自分の事に時間かけ過ぎるのは、ちょっと違うかなと思っただけよ。髪が短くなった分、乾かす手間が省けるでしょ」
どうだとばかりに胸を張り、毒気を抜かれたような顔で瀬里を見上げる面々。晃が「そうですね」と同意するのを耳にして、瀬里は心の中で「よしっ」と拳を握った。
尤もらしいことを言った瀬里だが、髪を切ったのには他にも理由があった。
遡ること二年半前。
京平との出会いに起因する。
(奴の手から逃げるのに、長い髪は邪魔なだけ。あの時みたいなことは、二度と御免だわ。……ホントにホントに、ムチウチにならなかったのは奇跡よ!)
悪気はなかったと言っていたが、何処まで本心か分かったものではない。何しろ相手はあの京平だ。一分の油断もしてはならないのだ。
これで用はなくなっただろうと、満足気に口角を持ち上げる。と、基樹が訝しそうに口を開いた。
「何か、釈然としないもの感じるんだけど」
「……気のせいじゃない?」
「そうか?」
やはり納得してない基樹だったが、瀬里はお座成りに「そうそう」と相槌を打つと、これ以上引き止められないうちにリビングから逃げ出した。
階段を上りながら「ふうっ」と存外大きな溜息が漏れた。慌てて口を閉じ、思わず階下を振り返ってしまう。溜息くらいなら聞こえようもないのだけど。
瀬里は急ぎ足で部屋に戻ると、ローテーブルにマグカップを置き、ん? と首を傾げる。部屋に入って正面。ベッドの足元側に、用意した覚えもないキャリーバッグが二つ。四つん這いで近付いて、片手で揺すってみればしっかりとした重量感。中身がぎっちり詰まっていることに嫌でも気付かされた。
「用意周到だな、おい」
心情的にはキャリーバッグの中身をぶち撒けてやりたいところだが、精神的疲弊が酷すぎて、瀬里はパタリとその場に倒れ伏した。
すっかり短くなってしまった髪がサラサラと目元を覆う。
「絶対に……」
髪を掴まれて出来た悪縁。
「絶対に、これっきりで縁切ってやる」
唸るように呟いた。
切った髪と共に悪縁がなくなります様にと、一縷の望みを託した願掛け。
明日の朝、とうとう狭間家に行かなければならない。
「京平なんかの好いようにはさせないんだから」
憎たらしい男の不遜な笑い顔が脳裡に浮かんで、瀬里は思い切り顔を顰めた。
そして呟く。切実に。
「家出したい……」
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