【R18】花頭症候群 ~花盛りの女たちと、翻弄される男たちのあれやこれや

優奎 日伽 (うけい にちか)

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1. 瑠珠 ~枯れ女に花を咲かせましょ

瑠珠 ⑥

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 ようやく来た空車に乗れたのは、歩き出して十五分ほど経ってからだった。
 何故だか急に不機嫌になった杏里をチラチラと盗み見、何度も首を捻っている。

(う~ん。何やらかしたんだかサッパリ分からない)

 杏里は、瑠珠が黙り込んだくらいで不機嫌になるような、狭量男子ではない。確かに瑠珠が言葉に窮してから、彼の様子がおかしくなったのは否めないのだけど。
 原因はきっと他にある。
 不機嫌になってちょっと乱暴な行動に出てみたり、かと思いきや拗ねたり赤くなったり、妙に艶っぽくなったり、この数十分で杏里の百面相を見てしまった。それもこれも全部、瑠珠に起因している。それは分かっているのだけど。
 斯く言う瑠珠も先刻から百面相を披露していると、気付いていないのは本人ばかりだ。

 腕を組んで小さく唸っていると、ふわりと何処からともなく甘い香りが漂ってきた。
 仄かな、蜂蜜を思わせるような、甘い香り。
 瑠珠はきょろきょろと辺りを見回し、窓が完全に閉まっていることを確認する。エアコンから香ってくるのかと身を僅かに乗り出してみたが、違ったようだ。
 ずっと一緒にいたのに、まさか今更杏里から香ってきてるのかと彼を振り返れば、大きく目を瞠いた杏里が、愕然とした面持ちで瑠珠を見据えていた。

「杏里?」

 呼びかけると、彼は大袈裟なくらい驚いて身を引き、ドアに打つかってそのまま背中を預けている。奇異なものでも見るような目付きで瑠珠を見、次にはその双眸にはっきりとした怒りの色が浮かんだ。
 背筋がゾクッとした。
 多少怒ることはあっても、すぐにケロッと笑っているのが、瑠珠の知る杏里だ。こんな居竦むような目で睨まれた事なんてなかった。それを目の当たりにして、瑠珠は年下だからと、心の何処かで侮っていた彼を初めて怖いと感じ、怯えた目でゆらゆらと杏里を捉えた。
 しかしそれもほんの数秒のことで、杏里は束の間瞑目すると、口端を持ち上げて微笑んだ。それだけで少しホッとする。

「瑠珠の頭」
「あ……あた、ま?」

 そう言われて頭頂に手を伸ばせば、すぐに髪に触れるべき場所で、しっとりとした冷ややかで柔らかな物に触れた。瑠珠は “は?” とした顔をして、ペタペタと頭頂部を触りまくり、根本から引っ張り上げて見た。
 びくともしない。
 無理に引っこ抜こうとすれば、その前に首が抜けてしまいそうな強情さは、心当たりがある。半年前、真珠の頭に生えた異物を取り除こうとして、妹が『もげる~ぅ!』と悲鳴を上げた怪奇現象と同じだ。
 それは半永久的に、自分には有り得ないことだと思っていたのに。

 顔から血の気が引いて行くのが分かった。
 困惑と戸惑いを綯い交ぜにした潤んだ目が、杏里を見る。瑠珠は彼の腕をしっかと掴んで迫り寄った。

「嘘ッ!? なんでッ!?」
「なんでって、それ俺に訊く? 理由は瑠珠が分かってるはずだろ?」

 突き放す物言いをする杏里に縋る目を向ける。
 花頭が咲く理由など、ひとつしかない。
 けれど、これっぽっちだって心当たりがないのに、花が咲くなんて。

「絶対におかしいッ!」

 更に詰め寄ると、杏里は「そうは言っても」と彼女を引き離す。常の彼なら抱き締めようとすることはあっても、引き離すなんてなかった。予想だにしてなかった杏里の拒否に、言葉にし難いもやもやとしたものが胸に広がる。

「花頭が咲いてるのは事実だろ」

 杏里の言葉には、嘆くような響きが伴っていた。
 遣る瀬無そうに顔を歪める杏里に、“どうして?” の言葉が浮かぶ。彼は何に対してそんなに切なげな顔をするのだろう。

「何かの間違いじゃない!? だって有り得ない!」
「有り得ない事ないんじゃない?」

 瑠珠の言葉一つ一つに、杏里の心が抉られているなどと、彼女は全く気付いていない。
 そしてまた、悪気のない顔で抉る。

「だって、誰のことも好きじゃない。誰にも恋してない」

 だから花が咲くはずがないと、どんなに言い切っても、花頭の特性が知られている現在、どんな言葉を弄しても説得力に欠いていた。それでも瑠珠は否定する。
 そして彼女は車中の薄暗がりで、杏里の表情が険しくなっていくのを見落とした。

    

 気不味くなって会話が途切れたままタクシーを降り、並んでエレベーターに乗った。
 杏里から無言の圧力を受け、身を竦めるように彼の隣に立っている。
 早く家に帰りたい。
 切実にそう願っている瑠珠の手を、杏里が握って来た。咄嗟に “マズい” の言葉が浮かぶ。
 ところが杏里は意表を突いて来た。前屈みになってすんすんと鼻を鳴らした後、穏やかに目元を細めた。

「先刻は暗くてよく解らなかったけど、瑠珠の花頭、杏の花だ」
「…………へっ?」

 あんずのはな、と頭の中で反芻して、右隣から頭頂を見下ろしている杏里を見上げた。先刻よりは可なり機嫌が良くなっているようだ。

「…あんず」

 呟きながら空いている手を頭上に伸ばす。鏡がないから確認しようもないけど、杏里が杏だと言うのなら間違いないのだろう。
 杏里の母、杏花は “杏の里” の名称で有名な地方出身で、息子にその名前を付けたほど、故郷を愛している。当然その息子は、自分の名前の由来である花を見間違えたりしない。

(何故あんず……?)

 お陰で杏里のご機嫌斜めは回復の兆しだけど、瑠珠の本性、もしくは性格が杏の花とは、出来過ぎじゃないだろうか?
 杏里に手を引かれて歩き出し、立ち止まる。そして目の前を何かが横切り、それが扉だと気付くと同時に一歩後退った。

「こらこらこらこらこら。何を当たり前のように連れ込もうとしてる。あたしンち通り越してるじゃない」

 瑠珠の家は一件手前だ。いたずらっ子を叱るような目付きで杏里を見れば、

「チッ」
「舌打ち!? 何考えてんのよッ!」
「話まだ終わってないし」
「話? なんの?」
「いろいろ」

 言いながら彼女の背中をグイグイ押して、杏里は背中越しに扉を閉める。カチリとオートロックの施錠音がして、冷や汗がぶわっと噴き出してきた。

(……え…とぉ)

 相沢宅に上がり込むのは何も今日が初めてと言う訳じゃないけど、今日の杏里は情緒不安定というか、変だ。こう言う時は素直に従うべきか、上手いこと言って逃げを打つのが正解か。後から機嫌を損ねるようなことになったら、それはそれでまた面倒臭いことになりそうだし、悩み所だ。
 しかし。悠長に悩んでいる暇はない。

 只今、リビングに通されて、無理矢理ソファに座らされた所である。立ち上がろうとする瑠珠の両肩を押さえつけて、なんか威圧される微笑みで見下ろされた。暫らく目を見合って、引き攣り気味な笑みを浮かべる。

(……リビングに通されただけ、マシと考えよう)

 誰もいない状況で、杏里の部屋に直行しなかっただけ、まだ良かったかも知れない。決して油断できるものではないけど。
 隙を見て逃げ出す事も可能だ。でもそれでは杏里を信用していないようで、席を立つことが出来なかった。

 キッチンでカタカタやっていた杏里が、麦茶を持って来てテーブルに置くと、また何処かへ姿を消す。瑠珠は出された麦茶を口に運びながら、考え過ぎだったかと先刻までの妙な焦りを打ち消して、くすくす笑っている所に杏里が戻ってきた。
 左の小脇に箱を抱え、右手に何か持っている。

(……手鏡?)

 もしかしたら、花頭を見せるために持って来てくれたのかも、そう思った彼女に案の定それを差し出してきた。
 瑠珠は受け取って、鏡面を頭上の花に合わせて上目遣いに覗き込む。薄桃色の花びらは、実物の何倍だ!? という大きさだ。

「あたし、いつも思うんだけど、桃と梅と杏の花の区別が付かないんだけど…?」

 杏里は持って来た箱をテーブルの上に置き、瑠珠の隣に腰掛けて「だよね」と花頭を見ながら頷いた。

「桃はね、花弁がちょっと尖ってるんだけど、梅と杏はパッと見じゃ分からないよな」

 瑠珠の花頭に手を伸ばし、大きく丸い花弁を一枚ぺろんと捲る。鏡越しに視線を合わせて口角を上げると、

「杏は開花すると、萼が下に反り返るんだ。だからこれは杏」

 瑠珠が鏡を覗き込んで「なるほど」と頷いていると、杏里が花弁を扇ぎ始め、ふわふわと甘い香りが漂う。

「なんで杏なのかなぁ?」

 にやにや笑って鏡の中の瑠珠に訊いてくる。

「知らないわよ。偶々なんじゃないの?」

 とは言ったものの気になる。
 杏里の名前とリンクする花が咲いたのは、彼じゃなくても『もしかして』と思うだろう。恋愛の情を持っていないと断言する瑠珠ですら、疑心暗鬼になってしまうのだから。

 ハタとして、矢庭にジーンズのバックポケットからスマホを取り出し、花言葉を検索してみた。隣から覗き込んでくる杏里をチラリと横目に見、画面に目を戻す。一番最初にヒットしたサイトを開いた。
 目に飛び込んできたままを口にする。

「えーと。 “乙女のはにかみ” “臆病な愛” “疑い” “疑惑” …だって」

 恐る恐る杏里を振り返ると、彼は頬を引き攣らせている。
 瑠珠だとて、 “疑惑” や “疑い” は想定外だった。 “乙女のはにかみ” はこの際置いといて、 “臆病な愛” は言い得ていて頷ける。まさしく今の瑠珠にピッタリの言葉だ。

 左肩がずしりと重くなり、首を引き気味に振り返る。杏里が彼女の肩に額を預けて吐き出した、長い溜息が彼の落胆を物語っていた。杏の花に浮かれていた分だけ、花言葉の意味にショックを隠せないみたいだ。
 瑠珠は肩に預けられた頭を撫でた。無意識の行動だったその手を掴まれて、しまったと後悔する。杏里は彼女に子供扱いされるのが、何より嫌いだと言うのに。

「ご……ごめん。つい」

 焦って引き戻そうとした手は、簡単に自由を奪われた。
 掴まれた手の指先に、彼の唇が触れる。心臓が跳ね、間髪入れずに恐慌状態に陥って、ジタバタ逃げようとした手は、杏里の手の中に握り込まれた。
 指先からジワッと広がっていく熱。
 細められた目元を微かに赤く染め、潤んだ瞳が悩ましげな艶を伴い瑠珠に注がれていた。
 指先の熱が面に一瞬で飛び火し、瞬く間に耳や首まで熱くなる。

(き……緊急事態、発生ッ!! 杏里に変なスイッチが入った模様! 直ちに避難せよ)

 何だか自分でも良く分かってないエマージェンシーコールを脳内で発動させ、お尻をソロソロと引き摺って移動を始めると、腰を引き寄せられ済し崩しに押し倒された。
 一瞬何が起こったのか理解できず、茫然としている視界に杏里の姿が映り込む。身を捩って倒れ込んだ彼女の肩を大きな手が押さえつけ、見下ろしてくる双眸に震えが走った。

 杏里をこれ以上近付けさせないように、両腕を突っ張って彼の胸を押し返す。その手が邪魔だと言わんばかりに手首を掴まれ、無神論者が神に助けを乞うのは滑稽だと思いつつ、やはり『神さま~!』と心の中で叫んでしまうのは、瑠珠に限った話ではない。
 しかし救いを求めたって無駄な事も知っている。何とかして退路を開こうとする瑠珠が、咄嗟に口にしたのは「先刻の箱は何ッ!?」だった。

(バカ……何言ってんの。そんな事で、逸らせるわけない)

 自分にダメ出ししてると、意外にも杏里は答えてくれた。

「母さんから、瑠珠にだって。瑠珠の好きな焼き菓子みたいだけど」
「ほ、ホントに!? う、うわー食べたいなあ」

 棒読みの台詞を吐く瑠珠は必死である。
 危機的状況回避の為なら、たとえ今満腹でこれ以上食べたらリバース確実でも、根性で腹に収める所存だ。
 杏里はじっと彼女の目を見、「後でね」とあっさり却下し艶然と笑い、慄いた瑠珠の引っくり返った悲鳴が、杏里の唇によって行き場を失った。

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