【R18】花頭症候群 ~花盛りの女たちと、翻弄される男たちのあれやこれや

優奎 日伽 (うけい にちか)

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1. 瑠珠 ~枯れ女に花を咲かせましょ

瑠珠 ⑤

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 どうやって袋小路から解放されたのか、思い出せない。
 はっと我に返って見たら、チェックシートを胸に抱えて倉庫に立ち尽くしていた。
 好きだと言われてから、その後の内容を全く覚えていない。

(…高槻くんと、何か、話した気はするんだけど)

 まさかこのドサクサにとんでもない約束をしていないだろうかと、沸々と不安が込み上げて、変な汗が額に浮かぶ。
 まるで飲み過ぎた次の日みたいだ。
 何とかして思い出そうと瞑目し、眉間に力が入る。断片的な映像らしきものは浮かぶけど、音声が完全に消音設定ミュートになっている。

(ダメだ……思い出せない。せめて。せめて一言だけでも思い出せたら、芋蔓式に思い出すかもしれないのにっ)

 チェックシートをギュッと強く抱きしめ、何度も自分を納得させるように頷く。そしてまたハッとして時計を確認し、可なりの時間が過ぎていたことに気が付いた。

 普段なら三十分も掛からないで終える仕事なのに、既に二十分もオーバーしている。瑠珠は大急ぎで作業に取り組むも、何を話したのかが気になって集中できない。何度も数え間違いしたり、意識が飛んでたりで遅々として進まず、焦りばかりが募って行く。そんな折、先輩事務員が様子を見に来て、パニックになっていた瑠珠と代わり、速やかに作業を終えてくれた。

 結局この日の瑠珠は使い物にならず、散々お説教を食らった挙句、却って仕事を増やすばかりだと文句を言われながらも残業する羽目になり、今まさにその元凶が隣の席に座ってニコニコしている。
 瑠珠の額の青筋が見えないんだろうか?
 とてもじゃないが友好的な気分じゃない。

「どうして残ってらっしゃるんですかっ? もうみんな帰ってますよっ?」
「なんで敬語?」
「気が散るんですけど」
「…そっか。んじゃ見ないでいるから。極力」

 高槻はくるっと椅子を回転させ、スマホを弄り始める。
 そこに帰ると言う選択肢はないのか、訊こうとして止めた。
 キーボードを叩く音がやたら耳に響く。
 偶に感じる視線。

(……ダメだ。気になってしょうがない!)

 瑠珠は手を止めて溜息を吐いた。
 何があったのか、ウダウダと悩んで仕事にならないんだったら、いっそ聞いてしまった方が良い。それでとんでもない約束していたら、正常な状態ではなかったという事で、有耶無耶にしてしまえばいいのだ。記憶がない状態での約束事は、当然無効だ。
 瑠珠は椅子を回して高槻を見た。気付いた彼も向き直って微笑んでいる。

「あたし、あそこからどうやって出た?」

 彼の目をじっと見て訊くと、一瞬ポカンとしてすぐに茫然としていた瑠珠を思い出し、納得したようだ。

「手をちょっと引っ張たら、自分でちょこちょこ歩いて出たけど」

 それを聞いてちょっと安心した。
 あんな狭い所から引っ張り出すのに、おんぶや抱っこもないだろうし、材木を動かしての大事を遣って退けた感じでもなかった。自力で歩ける程度には、脳が機能していてくれて良かったと思う。問題は、その後だ。

「じゃあ、それからどんな話した?」
「なんで好きなのか訊かれたから、偶に大ボケして真っ赤になるのが可愛かったからと答えたんだけど、全く覚えてない訳? 俺と普通に会話してたよ?」

 胡乱な目で見られて、恐縮しながらも「ない」と大きく頷くと、高槻はふにゃふにゃと脱力し、脚に肘を着いて項垂れた。
 まったく記憶にないと瑠珠がダメ押しすると、しょ気返った嘆きの声が漏れ聞こえてくる。申し訳ないと思うけど、事実だからしょうがない。

 聞けばそう大したことを話していた訳でもなく、危ないから材木の隙間に入り込まないように注意された、らしい。
 子供みたいな注意をされて、穴を掘って入りたい気持ちを宥め、瑠珠が深々と頭を下げれば、高槻は「分かればよろしい」とクスクス笑っていた。
 瑠珠が心底から安心してパソコンに向き直り、スパートを掛けようと構えたところで、

「じゃあさ。俺と付き合うって言ってくれたのも、覚えてないんだね?」

 手がキーボードの上でピタリと止まった。
 首がきしきしと音を立てているんじゃないかと錯覚しそうなくらい、ぎこちなく高槻の方に回す。酷く残念そうに、そして責めるような目で瑠珠を見ていた。

「誰が、何ですって?」
「俺とお試しで付き合ってくれるって言うから、今もこうして金子を待ってるってのに、ホント釣れないよな」

 そう言うトコも嫌いじゃないよ、とニッコリ笑う。
 つい高槻をガン見してしまったが、彼の悪意のなさそうな笑顔を見ていたら、頭がスーッと冷えてきた。

「それは嘘だ」
「なんで? 覚えてないのに、嘘だって言い切れるのか?」
「言い切れる」
「どうして?」
「男を信用してないから」

 そう言うと、高槻は言葉を失くして瑠珠を見詰める。無表情の彼女はスッと視線を逸らすと、デスクトップに目を凝らした。
 暫くすると、隣から「そっか」と呟いた声が聞こえ、横目で高槻を盗み見る。

 どうしてとか何でとかの疑問の言葉ではなく、どこかで得心したような呟きだった。瑠珠が変わってしまった理由に、気付いてしまったのかも知れない。それでも一向に構わないけど。
 悪かったな、そう一言残して高槻は帰って行った。
 瑠珠は、出て行く高槻の背中をチラリとだけ見、嘆息をひとつ漏らして残りの仕事に取り掛かった。



 高槻が帰って十数分後に仕事を終え社屋を出ると、門に人影を見つけた。
 まさかまだ高槻が待っていたのかと、重苦しい気分で目を凝らせば、よく見知った顔に安堵する。相手も瑠珠の存在に気付いて、小走りで駆け寄って来た。

「何でいるの?」

 素っ気ない物言いにも怖気ることなく、さり気なく瑠珠から鞄を受け取って「お疲れ様」と破顔する。
 忙しなく尻尾を振っている幻覚が見える杏里は、ご主人様からお褒めの言葉を待っているように、目をキラキラさせている。瑠珠は微かな頭痛を感じて眉間を揉んだ。
 普段はクールぶっている杏里の本性を拡散してやりたい。それが吉と出るか凶と出るか、知った事か。

「黒珠が電話寄越して、瑠珠が残業で遅くなるって言うからさ」

 さり気ない仕種で瑠珠の背中に触れ、歩を促す杏里。逆らうことなく歩き出し、斜めに彼を見上げた。

「そこ。なんで情報筒抜けなのかなぁ」
「黒珠は俺の味方だし」

 眉を聳やかして、ちょっとお道化たような表情をする。
 夜道を心配して迎えに来てくれるのは、正直に有難いと思うけど、そこは杏里じゃなくて実弟が来るべきなのではと思うのだが。

「で。その黒珠は?」
「ん? 俺だけじゃ不満? 相手が黒珠でもちょっとジェラシー」
「バカなことを」

 プッと小さく吹き出すと、不満そうに唇を尖らせた。でも目が笑っている。

「なんか、サークルの先輩に無理矢理飲みに連れて行かれたみたいでさ、おばさんから電話があって、瑠珠を迎えに行けないかって言われたけど、そんなワケだからって俺んとこに連絡来た」

 杏里が断らないと分かっているから、黒珠も心置きなく飲めるだろう。

「じゃあ、今日は何でここまで来たの?」
「タクシー」
「タクシー!? こ、高校生の分際で生意気な」

 社会人の瑠珠でさえ、滅多な事じゃタクシーなんて利用しない。眉間に皺を寄せて睨み上げると、瑠珠の怒りを意に介してない杏里が、ポケットから小さな冊子を取り出した。

「母さんからタクシーチケット貰ってるし。これだって、瑠珠の為に使えって渡されてるようなもんなんだから」

 気にしなくて良いよとケラケラ笑う。

(そおゆー問題じゃないと思うんだけど……)

 でも確かに杏里がタクシーを使う所は見たことがない。バレなければどんどん使いそうなものだけど、彼は公共の交通機関を使うか、マネージャーの車で移動している。ぶっちゃけ不要だろう。

(あたしのために使えって、そんな状況、そうそうないでしょうに)

 今の杏里が在るのは瑠珠のお陰だと言って、杏里の母、杏花きょうかも何かと彼女に甘い。だからと言って、図々しく甘えるのは違うと思うのだが。
 いつだったか、珍しくオフで家に居た杏花に捕まり、『うちの杏里、年下で頼りないかも知れないけど、貰ってくれる気ある?』と大真面目に訊かれたことがあったので、彼女にもロックオンされているのは明白だ。
 勿論その時は、丁重にお断り申し上げた。
 杏里は “弟” としか思えない。

 つらつらとそんな事を思い出していると、不意に手を握られた。慌ててその手を解こうとしたけど解けるものでもなく、口元をニヤニヤ弛ませている杏里に脱力し、溜息を漏らした。
 彼のストレートな感情表現は嫌いではない。が、少々困る。  
 杏里の気持ちに応えられないと何度言っても、どこ吹く風とばかりに取り合ってくれないとなると、もうお手上げだ。

 通りを歩きながら偶に後ろを振り返り、空車が通るのを待ちながら、杏里の嬉しそうな顔を見るにつけ、手ぐらい良いかと言う気になってしまうのは、完璧に流されてる証拠だろう。
 内心、良いのか? いや。ダメだろう、と葛藤しつつ、いつの間にか大きくなった彼の手の中に、すっぽり収まった自分の手を眺めていると、ほっこりとした気持ちになった。と同時に、反する居心地の悪さも感じる。

 手の中の存在を確かめるように、時折杏里の指先に微かな力が篭もったり、親指で瑠珠の手の甲を撫でてくる。その仕種に、得体の知れない何かが彼女の中でザワザワと蠢き、居た堪れなくて唇を噛んで俯き、どうにかしてやり過ごそうとしていた。
 くっと手を引かれ、何かと問いたげな眼差しで杏里を見上げると、彼は瑠珠の噛んで赤くなった唇に目を落とし、眉を顰める。

「唇、食い破る気?」
「え……?」
「真っ赤だよ? これ以上噛んだら、間違いなく後から腫れる」

 繋いだ反対の手の親指が優しく唇を撫で、瑠珠はビクッと震えた。大きく見開いた目で杏里を見上げると、「何考えてたの?」と入り込めない彼女の思考が苛立たしげで、それで居て切なげで、憂いを帯びた双眸が彼女を捕らえた。
 手を繋がれて落ち着かないと、正直に答えるのも何だかなと思う。かと言って大きな手を感慨深く見ていたというには、唇を噛んだ理由には説得力がない。
 言葉に窮していると、杏里は何を思ったのだか、彼女の手を引っ張ってズンズン歩き出した。歩幅の違いに着いて行くのに、前のめりで小走りになる。

「ちょ、ちょっと杏里ッ! 早いって!」

 瑠珠の悲鳴に近い声に、杏里は肩をビクリとさせて振り返り、途端に消沈した面持ちになった。「ごめん」と呟いて項垂れる。

「急にどうしたの?」

 彼を怒らせるようなことを言った覚えがない。
 寧ろ黙っていて杏里を苛つかせたと認識しているのに、何に苛ついたのか見当が付かなくて、困惑をありありと浮かべていた。
 捕まえた手を離さないとばかりに、瑠珠の手を握り込む。

「杏里。手、ちょっと痛いんだけど」

 まるで聞こえていないかのように、力が弛むことはなく、空いた手で杏里の指を解こうとした。すると「やだ」とぽつり呟き、目元を赤く染め、泣きそうな目で瑠珠を見詰めて来る。そんな目で見られては、無理にでも解いてやろうとしてた気持ちが、しおしおになってしまう。

(……ズルい)

 根っからのお姉ちゃん気質の自分が呪わしい。
 黒珠、真珠は当然のことながら、杏里も含めてこの三人にからきし弱いのだ。真珠には良いように利用されていると分かっていても、ついつい許してしまうくらいだ。
 瑠珠の習性を知っている杏里に、駄々を捏ね、拗ねた顔なんてされたら、確信犯だと分かっていながら『うん。いいよいいよ』と許してしまいそうな自分がいる。早くその習性を何とかしないと、そのうちきっと取り返しが付かないことになるのは、自明の理なのに。

「ねえ。どうしたの?」

 彼の手を解くのは一旦諦めて、杏里の手に自分のそれを重ねる。瑠珠よりもずっと背の高い杏里の顔を下から覗き込むようにして見ると、彼は息を呑んで伏し目がちな視線を一点に絞り、すぐに顔を背けた。心なしか頬が赤いような。
 杏里はそっぽを向いたまま、また手を引いて歩き出した。

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