テロリストに寄生する……

せとかぜ染鞠

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4 死にかけの宿主

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 賀之歌にはサイズがあわないのか,おおいの付け根の裂けてしまったスリッパを真夜中のキッチンで見ていた。
 弟の泣き喚く声は1時間以上も続いている。一時くぐもった調子で音量を絞りはするが,しばらくすると,もとの状態にかえる。
 修理が済んで強烈な輝きを帯びる照明の下で湯を沸かしコーヒーを淹れた。
 ぱたりと泣き声がやんだ。
 ――かと思いきや今度は歌がきこえはじめた。橋が落ちたという童謡だ。恨みがましく,ぞっと背筋の凍るような声を張りあげる。声は長くは持続せず,細く掠れて消えては,また息を吹きかえし憎悪の結晶に唾するような,がらついた調子で一頻り激しく響いた。次第に声の波動が速度を増しながら波長の周期を短くしていく。無性に危うさを覚えた。
 甲高い声がのびた。悲鳴だったように思う。
「全部奪え! 俺から全部! 何もかもくれてやる!――」刺青に血を浴びせ,怒号する賀之歌の左目を,組み敷かれた弟がフォークで突き刺していた。
 座敷に飛びこみ,今にも折れそうな腕を両手で摑んだ。「その人がおらんなったら困るよ!」
「ネエネ――」
 腕の力が緩まるなり,手からフォークがはねあがり,眼球を貫いたまま高く舞って畳に転がり落ちた。賀之歌は片目を失ってなお情人を離すまいと踏ん張った。重そうな睫毛を伏せつつ顔を背け,むこうへ行ってくれと弟が懇願する……。
 襖の陰で賀之歌と訪問診療に来た医者の話をきいていた。賀之歌の目の応急処置を済ませた医者は札束を懐におさめてから,弟に痛み止めの薬の副作用が生じていることを説明した。賀之歌と医者が誰なのかを判別できない状態にあり,幻覚も起きているという。
 賀之歌が医者を見送りに出たあと,そっと弟へ近寄れば,うっすら両眼をあけて満面の笑みを浮かべる。「ネエネ……」
 私たちは手を握りあった。
「手もとの金が底ついちまったわ。ちょっと出てくる」眼帯を巻いた賀之歌が布団の傍らに腰をおろす。「欲しいもん,あっか?」
「バーカ,おまえなんか死んじまえ!」弟が舌を垂れた。
「またイケズばっか……」穏やかな口調で病人の額に張りついた前髪を搔き分ける。
「触るな!――」枕もとの盥を投げつければ,汚物が賀之歌や畳に飛び散った。
 畳を拭いて濯いだ盥を戻すと,賀之歌は着がえもせずに出かけていった。
 夜が更けても帰ってこない。さすがに懲りて逃げ出したのではないかと不安になった。
 翌朝,痣だらけの顔で帰ってきた賀之歌が,片目が見えないと喧嘩の感覚が狂うとぼやけば,弟が風呂にいれろとせついた。
 次に外出したときには本人かどうかも分からないぐらいに顔の輪郭も鼻筋も歪み,前歯も抜け落ちたありさまで3日後に帰宅した。ただ左目の空洞なのは彼であることを物語っている。
 カレーライスの皿を置いたときに気づいたが,手指の数も欠けていた。
「テロリストなんかに寄生してねぇで,金持ちジジイでも探しなよ。肥満体で不細工な女がいいっていう物好きもいるぜ――」賀之歌が犬食いする私の背中に言った。 
 調子はずれの童謡がようやく途切れた春靄の朝まだき,弟は珍しくまともな会話をしていた。
「稼ぎが減るってことか?」
「辞めたって生活レベルを落としたりしねぇよ」
「ガノータの会社,ヤクザの世界より厳しいってきいた。簡単に抜けられるのかな」
「大丈夫だよ……ちゃんと片をつけるから」
「――まさかネエネや僕にまで危害が及ぶってことはないだろうな! うちに迷惑かけるなよ!」
「手出しなんてさせやしねぇよ」
「分かるもんか!――問題が解決するまでは,うちに出入りするな! 僕らに関わるな!」
「ハル……そんなこと――」
「風呂に入りたい! 早く!」
 家事を済ませて出かけたきり,1週間が過ぎても賀之歌は帰ってこない。
 弟が入浴するとき,介添えする運び屋のモヒカン頭の話しているのを耳にした。ガノータは失恋の痛手から自棄を起こして殺し屋になったものの,思いが叶って命が惜しくなったのだろうと。
「命が惜しいならば絶対に緩和ケア病棟には入らないことだ――」弟がユーチューブに動画を投稿している。「あそこに入るときはね,転院前の病院で延命措置しないっていう誓約書にサインさせられるのさ。つまりね,あなたがもうじき死ぬ際,なんにも処置しないけどOKしなさいねって強制されるわけ――僕,やっぱりもう駄目なんだ――生きる気力を削がれたね。それから緩和病棟に入るなり,医師の一存で輸液の量が一気に減らされる。殆ど飲食できない患者は輸液に頼って生きてるわけだから死刑執行に等しい。鎮痛の麻薬だけが注入されて頭も体もぼろぼろさ。そうなると周囲は人間扱いしない。投げたり転がしたりの物同然だったね。でもさ,患者の真の部分は最後まで生きてる――そこの医師や看護師のみなさん,あなたのしてることは僕から言わせれば犯罪行為だ。さて,次回は化学療法に耐えられない状態でありながら多種多様な薬を投与されてモルモットがわりにされた体験について喋ろうかな――また生きてたら配信するね。最後の挨拶にならなきゃいいけど――さようなら,ありがとう!」
 満足げな表情で両眼を閉じたまま身体を休めていたが,ふと思いついたように目をあけてキッチンのスリッパをすぐ交換してくれとモヒカン頭に命ずる。「あんなの履くの,やだよ」
 モヒカン頭がキッチンへと急いだ。
 私がおずおずと賀之歌の話を持ち出せば,弟は上半身を起こし,点滴針を抜いた。「死にかけのテロリストに寄生してどうなるん?――ヨットコサ」と立ちあがり,微笑して敷居を跨いで廊下の行き詰まる洗面所に消えた。
 廊下から見渡せる庭が雑草の新芽におおわれていた。1箇月ほど前に賀之歌が手入れしたはずだった。
 下駄箱から昔の運動靴を引っ張り出し,庭を歩いてみた。無機色の羽毛につつまれる小鳥が忙しなく長い尾を振って付かず離れずの距離を保ちながら小走りに前進するなり決意したみたいに飛びあがり,落下しそうになりつつもまた浮上するという覚束ない低空飛行を繰りかえしている。 
 ネジリ鍬とかいう賀之歌の調達した道具で草削りをしていると,塀を隔てた往来を子供たちが駆けていく――寄生虫と叫んで高笑いする。
 鍬を摑んだまま立ちあがる。
 きき間違いだったのかもしれない。そう,人気アニメのキャラクター名を大音声に呼ばわった気もする。
 座敷から諍いの声と物音が漏れた。弟とモヒカン頭の間に何か起きている。
 寄生する?……違う,私たち姉弟きょうだいは必死になって生きているだけなのに!――
 門扉をあけ放ち,往来へ出た。意気揚々と走る子供たちの後ろ姿が認められた。
 追いかけた――そして転んだ。起きあがろとしたとき,路傍の土筆が目に飛びこんだ。のびていく道の片側にぎっしりと生えている。賀之歌の出してくれた御浸しを思い出し唾を飲んだ。
 面識のない中年女のうずくまる姿を眺めて過ぎる通行人たちの好奇に満ちた目にさらされながら私は土筆を毟り集めた。〔終〕
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