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第二章 旅は魔本とともに
第5話 実は、楽しみだから
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有休申請は通り、来週の火曜日と水曜日を一泊二日の旅にあてることになった。
ミナトも約束どおりにファーストフード店に現れ、無事に日程の確定を伝達できた。
ちょうどその時期、世間はお盆。アカリの会社にはお盆休みがなく、各自適当に有休を取得して休むシステムである。
アカリは実家住まいなので、帰省する社員とほぼ同じタイミングの有休申請には上司も首をかしげていた。だが今はまったく繁忙期ではない。取得は二日間だけということもあり、いちゃもんをつけられることはなかった。
ただ、両親に旅行のことが知られるのは面倒であるため、家ではその二日間を出張という説明にした。
旅行先は、鍾乳洞などが有名な天岩高原に決めた。
同伴者が同伴者であるため、人でごった返すテーマパーク等では何をしでかすか不安という理由や、単純に涼しそうだからという理由もあった。が、何よりも、その観光地はアカリの祖父が好きだったということが大きな理由だった。
アカリは子供のころ、祖父にその地へ連れていかれたことがある。
まだ小さかったので、すべてをはっきりと思い出せるわけではない。しかし、アカリにしては貴重な、とても安らぎのある記憶だった。
そこにふたたび行くことで、記憶の中にあるその感情に少しでも浸れるのであれば――そう思ったのである。
* * *
窓が、二回強く叩かれた。
その乱暴な音に、そろそろ風呂に入ろうと着替えを準備していたアカリの心臓が、ビクンと跳ねた。
ここは自宅の二階。普通の人間の仕業ではない。
さては……と思いながら、アカリはカーテンを除け、夜で鏡と化していた窓を開けた。
「よお、アカリ」
犯人はやはり、本魔ミナトだった。
見た瞬間は背中に羽が生えていたが、すぐに縮小して消えた。人懐っこい笑顔とともに、フリーの右手をウェーブさせている。
左手のほうには相変わらず魔本を持っていた。
今日のものは表紙が灰色だ。初めて会った一昨日や、有休取得の報告のために会った昨日のものとは違う。
「ちょっと! びっくりするでしょ! 窓割れたらどうすんの! ……の前に、なんで私の部屋に来てるの? スケジュールは伝えたでしょ?」
今日は木曜日。旅行に出かけるのは来週の火曜日である。
ミナトには当日の朝、駅で合流という話になっていた。それ以外で会う約束はしていない。
「大丈夫。ちゃんと姿を消して飛んできたから、誰にも見られてないぞ。安心しろ」
「そういう問題じゃなくて――」
「んじゃ、お邪魔するぜ」
ミナトは抗議を無視すると、まず窓枠に座った。
そのまま両ひざを胸につけるようなかたちで魔本を挟むと、両手を器用に使い、足裏をつけないように、すぐ下のカーペットへ着地した。
「何か拭くものはあるか?」
壁に背中を預け、足を浮かせてブラブラさせたミナト。
アカリは虫が入らないように窓を閉め、ウエットティッシュを取ってくると、仏頂面で彼の横にしゃがみ込んだ。足を拭き始める。
「お? 悪いな。拭いてもらっちまって」
「適当に拭かれたら嫌だしね。まったく、汚い足で女性の部屋に来ないでよ」
「いつもは汚くないぞ? 今日は素足で飛んできたから、屋根の上に足を付いちまったんだよ」
足裏からくるぶしまでを拭いたが、自己申告のとおりだと思った。
タコや水虫はなく、爪もきれいに切られている。
そしてアカリの目を引いたのは、ムラのない褐色肌が足の甲まで続いていたことだった。
靴や靴下に覆われる部分が白くなっていることもなく、まるで日焼けサロンで焼いたような一様な色なのだ。肌のきめも細かい。
「まあたしかに、いつもはきれいにしてそうな感じに見えるけど」
「だろー?」
ミナトは嬉しそうに笑うと、部屋をキョロキョロ見渡した。
アカリによる足拭きが終わると、「サンキュー」と言いながら机の横に置いてある本棚へと向かった。
「仮に清潔でも、いきなり部屋に来るということ自体が人間だと非常識だからね? 私はいつも親に言われて片づけてるからよかったけどさ。散らかってたら恥ずかしすぎるでしょ」
「お? この小説面白そうだな。読んでいいか?」
ウエットティッシュをくずかごに入れながら文句を言ったアカリだったが、見事に無視された。
「ちょっと、話聞いてる? ていうかそれ、全然面白いと思わなかったんだけど」
「そんなことないだろ? ここに名作っぽいことが書いてあるぞ」
本棚の前、あぐらで座り込んだ彼が手に取っているのは、本棚に入っていた本のうちの一冊。
そのカバーの上から巻かれている帯には、『日本文学の金字塔』と書かれていた。
しかしアカリからすれば、そんなこと言われても面白くありませんけど? である。
「私にはつまらなかったの。ま、子供のころに文学を無理やり読まされて、もう生理的に無理ってのもあるけど」
「へー。アカリが本嫌いなのは、ちっちゃいころに無理強いされたからなのか」
「そういうこと」
「もったいねえな。本には書いた人の人生が詰まってるのに」
「人生が詰まってるのは、あんたたちの魔本でしょ? 普通の本は関係ないじゃない」
アカリは、ミナトの腿の上に置かれている魔本を指さした。
彼と二回目に会ったときに、魔本一冊だけで一人分の人生記録を詰め込めるからくりについて、説明を受けている。
本魔の文字は人間のそれよりも高密度であり、文字一つに膨大な量の情報が入っているとのこと。
「いや、アカリ。人間の本だって魔本と一緒だぞ」
「あっそ」
「こら、流さないでちゃんと聞けって」
彼は魔本に持ち替えると、高速でめくりだす。
「ええとだな……。三流は人の話を聞かない。二流は人の話を聞く。一流は人の話を聞いて実行する。超一流は人の話を聞いて工夫する――。どうやら聞かないと三流になるらしいぞ?」
「三流でけっこうですよーだ。とりあえず、その本が読みたければ貸してあげるから、今日はもう帰って。これから私、お風呂入るから」
「入ってきたらいいんじゃねえの? 俺はこの本読んでるから」
「え? そっちの塔では女性の風呂上がりすぐに立ち会ってもいいんだ? それともあんたが変態なだけ?」
「変態じゃねーよ」
否定しながら笑うと、ミナトはまた魔本を高速でめくる。
「あ、なるほど。たしかにそういうのはよくないみたいだな。悪い」
頭を掻きながら、素直に謝罪してきた。
「まあ、そういうことなら今日は帰る。お言葉に甘えてこの本は借りるぜ」
最後はまた爽やかな笑顔で締めくくると、ミナトは窓を開け、闇夜へと飛び去っていった。
翌日夜。
前日よりもだいぶ加減した勢いで窓が叩かれた。
「よお」
「出た……」
またミナトである。
時間は昨日よりも遅い。アカリはもう食事も風呂も済ませ、部屋でゆっくりしていたところだった。
彼の右手には昨日借りていった本。左手の魔本はまたチェンジしてきたのか、緑色をしていた。
前日の反省点を生かして履いてきたのであろうサンダルを脱ぐと、彼は中に入り込んできた。
「あんた暇なの? また本借りにきたの?」
「それもあるんだけどよ。今日はまず、この家の中を探検してきてもいいか? お前以外の人間には見えないように姿を消すからさ」
「は? 気持ち悪いんだけど。なんで?」
彼の表情はそれまでと変わらず、悪魔の一種だとは信じがたいくらい無邪気だった。それだけに、頼み事の気持ち悪さとのギャップが凄い。
「せっかくだし、全部見たいんだよ。ま、駄目だって言われても見るけどな!」
「きもっ」
探検に出かけた彼は、思っていたよりも長い時間戻ってこなかった。
アカリはその間、ノートパソコンで適当にインターネットニュースを閲覧していたが、いったい彼はうちの中で何を見ているのだろう? と徐々に不審に思い始めた。
一度様子を見に行こうかと立ち上がったそのとき、ドアがノックされた。
「はいどうぞ」
入ってきたのは、もちろんミナトだ。
「おい、アカリ」
「おかえりなさい、気持ち悪い悪魔さん」
適当に迎えの言葉を投げてから、アカリは気づいた。
先ほどとはうって変わって、彼の表情はややシリアスで、怪訝さを浮かべているようだったのである。
「下にいた、ちょっと痩せぎみの男と、髪の毛を後ろで縛ってた女の二人は、アカリの親ってことでいいのか?」
「そうだけど?」
「なんかお前が最近たるんでるとか言ってたぞ?」
「あー、最近ちょっと体調がよくなくてね。だからだと思う」
それについては面と向かって言われたこともあり、アカリにとっては特に驚くべきことではない。
「人間のことはよくわかんねえけど。体調が悪いなら普通心配するもんじゃないのか?」
「普通はそうかもしれないけどね。あの二人はそうじゃないみたいだよ」
ミナトがベッドの前で、カーペットの上にあぐらをかいて座る。
「へー。お前の親、厳しいんだな」
彼がベッドを勝手に背もたれ代わりにしているのを咎めるのも忘れ、アカリは頭の中で、学生生活をまとめた白黒フィルムを高速回転させた。
「まあね。子供のころからいろんなものを押しつけてくれてたよ。塾とか習い事とかね。学校の成績だって、ちょっと落ちただけで説教だったし」
「そんなに必死になる理由ってあんのか?」
「なんだろうね。私が一人っ子というのもあるだろうし、それに、おじいちゃんが学者でインテリだったのに、両親は二人ともそこまでの経歴じゃないから、コンプレックスでもあったんじゃないの? 今も『同期で一番早く昇進しろ』とか、『結婚するなら婿に来られる人で』とか、つまらないことを言われ続けてるけど……って、ミナトは昇進とか婿とか言われてもわからないか」
「何度か魔本で見かけた言葉だし、いちおうわかるぞ」
「へえ。まあそういうことで、そういう家なんです。ここは」
「……」
三日目以降も、ミナトは毎晩部屋に来た。
窓を叩き、部屋に入り、前日に借りていった本を返却すると、また部屋の本を漁り、その日に借りる本を決め、帰っていく。
アカリにとってはまったくつまらない本でも、彼にとっては大変面白かったようだ。
そして、旅行前日の夜――。
旅の準備が整ったタイミングで、また窓が叩かれた。
「結局毎日来たことになるけど。ミナト、あんたよっぽど暇なんだね」
「まあな! でも今日は挨拶だけだ」
中に入ってくることはなく、これまでで一番と思われる無邪気な笑顔だけ、網戸越しによこしてきた。
「明日からよろしくな! アカリ!」
「なんか、すごく楽しみにしてるように見えるんだけど? あまり行きたくないんじゃなかったの?」
「甘いなアカリ。えーっとだな……人生というのは、やりたいことができなくなったときが出発点なんだ。だから――」
「ハイハイ。もう魔本読み上げはいいから」
また魔本カンニングの説教が始まったので、アカリは途中でさえぎった。
なお魔本の表紙は、部屋の照明を反射して輝いているのが網戸越しでもわかる。金色のようだ。
「しかもさ。その名言、それ自体はいいこと言ってそうだけど、この場合だとちょっとピントがずれてない?」
「そう言われれば、そうかもな」
アハハ、と彼は頭を掻きながら笑った。
「魔本に載ってる言葉をそのまま使ってるから不自然になるんじゃないの……。ちなみにその魔本、他にも何か名言あるの?」
「んーっと、そりゃ無数にあるけど。適当に拾うと……二度としません、三度します。コマオクリモデキマスヨ。いやぁ~まいった、まいった。あれ? なんだこれ、わけわかんねー」
「それは私のセリフだって。なんなのその魔本は」
アカリは呆れたが、本人はどこ吹く風だ。
「じゃあ、俺も準備するから! また明日!」
そう言うと、彼は背中から悪魔の羽を出し、夜空へと消えた。
ミナトも約束どおりにファーストフード店に現れ、無事に日程の確定を伝達できた。
ちょうどその時期、世間はお盆。アカリの会社にはお盆休みがなく、各自適当に有休を取得して休むシステムである。
アカリは実家住まいなので、帰省する社員とほぼ同じタイミングの有休申請には上司も首をかしげていた。だが今はまったく繁忙期ではない。取得は二日間だけということもあり、いちゃもんをつけられることはなかった。
ただ、両親に旅行のことが知られるのは面倒であるため、家ではその二日間を出張という説明にした。
旅行先は、鍾乳洞などが有名な天岩高原に決めた。
同伴者が同伴者であるため、人でごった返すテーマパーク等では何をしでかすか不安という理由や、単純に涼しそうだからという理由もあった。が、何よりも、その観光地はアカリの祖父が好きだったということが大きな理由だった。
アカリは子供のころ、祖父にその地へ連れていかれたことがある。
まだ小さかったので、すべてをはっきりと思い出せるわけではない。しかし、アカリにしては貴重な、とても安らぎのある記憶だった。
そこにふたたび行くことで、記憶の中にあるその感情に少しでも浸れるのであれば――そう思ったのである。
* * *
窓が、二回強く叩かれた。
その乱暴な音に、そろそろ風呂に入ろうと着替えを準備していたアカリの心臓が、ビクンと跳ねた。
ここは自宅の二階。普通の人間の仕業ではない。
さては……と思いながら、アカリはカーテンを除け、夜で鏡と化していた窓を開けた。
「よお、アカリ」
犯人はやはり、本魔ミナトだった。
見た瞬間は背中に羽が生えていたが、すぐに縮小して消えた。人懐っこい笑顔とともに、フリーの右手をウェーブさせている。
左手のほうには相変わらず魔本を持っていた。
今日のものは表紙が灰色だ。初めて会った一昨日や、有休取得の報告のために会った昨日のものとは違う。
「ちょっと! びっくりするでしょ! 窓割れたらどうすんの! ……の前に、なんで私の部屋に来てるの? スケジュールは伝えたでしょ?」
今日は木曜日。旅行に出かけるのは来週の火曜日である。
ミナトには当日の朝、駅で合流という話になっていた。それ以外で会う約束はしていない。
「大丈夫。ちゃんと姿を消して飛んできたから、誰にも見られてないぞ。安心しろ」
「そういう問題じゃなくて――」
「んじゃ、お邪魔するぜ」
ミナトは抗議を無視すると、まず窓枠に座った。
そのまま両ひざを胸につけるようなかたちで魔本を挟むと、両手を器用に使い、足裏をつけないように、すぐ下のカーペットへ着地した。
「何か拭くものはあるか?」
壁に背中を預け、足を浮かせてブラブラさせたミナト。
アカリは虫が入らないように窓を閉め、ウエットティッシュを取ってくると、仏頂面で彼の横にしゃがみ込んだ。足を拭き始める。
「お? 悪いな。拭いてもらっちまって」
「適当に拭かれたら嫌だしね。まったく、汚い足で女性の部屋に来ないでよ」
「いつもは汚くないぞ? 今日は素足で飛んできたから、屋根の上に足を付いちまったんだよ」
足裏からくるぶしまでを拭いたが、自己申告のとおりだと思った。
タコや水虫はなく、爪もきれいに切られている。
そしてアカリの目を引いたのは、ムラのない褐色肌が足の甲まで続いていたことだった。
靴や靴下に覆われる部分が白くなっていることもなく、まるで日焼けサロンで焼いたような一様な色なのだ。肌のきめも細かい。
「まあたしかに、いつもはきれいにしてそうな感じに見えるけど」
「だろー?」
ミナトは嬉しそうに笑うと、部屋をキョロキョロ見渡した。
アカリによる足拭きが終わると、「サンキュー」と言いながら机の横に置いてある本棚へと向かった。
「仮に清潔でも、いきなり部屋に来るということ自体が人間だと非常識だからね? 私はいつも親に言われて片づけてるからよかったけどさ。散らかってたら恥ずかしすぎるでしょ」
「お? この小説面白そうだな。読んでいいか?」
ウエットティッシュをくずかごに入れながら文句を言ったアカリだったが、見事に無視された。
「ちょっと、話聞いてる? ていうかそれ、全然面白いと思わなかったんだけど」
「そんなことないだろ? ここに名作っぽいことが書いてあるぞ」
本棚の前、あぐらで座り込んだ彼が手に取っているのは、本棚に入っていた本のうちの一冊。
そのカバーの上から巻かれている帯には、『日本文学の金字塔』と書かれていた。
しかしアカリからすれば、そんなこと言われても面白くありませんけど? である。
「私にはつまらなかったの。ま、子供のころに文学を無理やり読まされて、もう生理的に無理ってのもあるけど」
「へー。アカリが本嫌いなのは、ちっちゃいころに無理強いされたからなのか」
「そういうこと」
「もったいねえな。本には書いた人の人生が詰まってるのに」
「人生が詰まってるのは、あんたたちの魔本でしょ? 普通の本は関係ないじゃない」
アカリは、ミナトの腿の上に置かれている魔本を指さした。
彼と二回目に会ったときに、魔本一冊だけで一人分の人生記録を詰め込めるからくりについて、説明を受けている。
本魔の文字は人間のそれよりも高密度であり、文字一つに膨大な量の情報が入っているとのこと。
「いや、アカリ。人間の本だって魔本と一緒だぞ」
「あっそ」
「こら、流さないでちゃんと聞けって」
彼は魔本に持ち替えると、高速でめくりだす。
「ええとだな……。三流は人の話を聞かない。二流は人の話を聞く。一流は人の話を聞いて実行する。超一流は人の話を聞いて工夫する――。どうやら聞かないと三流になるらしいぞ?」
「三流でけっこうですよーだ。とりあえず、その本が読みたければ貸してあげるから、今日はもう帰って。これから私、お風呂入るから」
「入ってきたらいいんじゃねえの? 俺はこの本読んでるから」
「え? そっちの塔では女性の風呂上がりすぐに立ち会ってもいいんだ? それともあんたが変態なだけ?」
「変態じゃねーよ」
否定しながら笑うと、ミナトはまた魔本を高速でめくる。
「あ、なるほど。たしかにそういうのはよくないみたいだな。悪い」
頭を掻きながら、素直に謝罪してきた。
「まあ、そういうことなら今日は帰る。お言葉に甘えてこの本は借りるぜ」
最後はまた爽やかな笑顔で締めくくると、ミナトは窓を開け、闇夜へと飛び去っていった。
翌日夜。
前日よりもだいぶ加減した勢いで窓が叩かれた。
「よお」
「出た……」
またミナトである。
時間は昨日よりも遅い。アカリはもう食事も風呂も済ませ、部屋でゆっくりしていたところだった。
彼の右手には昨日借りていった本。左手の魔本はまたチェンジしてきたのか、緑色をしていた。
前日の反省点を生かして履いてきたのであろうサンダルを脱ぐと、彼は中に入り込んできた。
「あんた暇なの? また本借りにきたの?」
「それもあるんだけどよ。今日はまず、この家の中を探検してきてもいいか? お前以外の人間には見えないように姿を消すからさ」
「は? 気持ち悪いんだけど。なんで?」
彼の表情はそれまでと変わらず、悪魔の一種だとは信じがたいくらい無邪気だった。それだけに、頼み事の気持ち悪さとのギャップが凄い。
「せっかくだし、全部見たいんだよ。ま、駄目だって言われても見るけどな!」
「きもっ」
探検に出かけた彼は、思っていたよりも長い時間戻ってこなかった。
アカリはその間、ノートパソコンで適当にインターネットニュースを閲覧していたが、いったい彼はうちの中で何を見ているのだろう? と徐々に不審に思い始めた。
一度様子を見に行こうかと立ち上がったそのとき、ドアがノックされた。
「はいどうぞ」
入ってきたのは、もちろんミナトだ。
「おい、アカリ」
「おかえりなさい、気持ち悪い悪魔さん」
適当に迎えの言葉を投げてから、アカリは気づいた。
先ほどとはうって変わって、彼の表情はややシリアスで、怪訝さを浮かべているようだったのである。
「下にいた、ちょっと痩せぎみの男と、髪の毛を後ろで縛ってた女の二人は、アカリの親ってことでいいのか?」
「そうだけど?」
「なんかお前が最近たるんでるとか言ってたぞ?」
「あー、最近ちょっと体調がよくなくてね。だからだと思う」
それについては面と向かって言われたこともあり、アカリにとっては特に驚くべきことではない。
「人間のことはよくわかんねえけど。体調が悪いなら普通心配するもんじゃないのか?」
「普通はそうかもしれないけどね。あの二人はそうじゃないみたいだよ」
ミナトがベッドの前で、カーペットの上にあぐらをかいて座る。
「へー。お前の親、厳しいんだな」
彼がベッドを勝手に背もたれ代わりにしているのを咎めるのも忘れ、アカリは頭の中で、学生生活をまとめた白黒フィルムを高速回転させた。
「まあね。子供のころからいろんなものを押しつけてくれてたよ。塾とか習い事とかね。学校の成績だって、ちょっと落ちただけで説教だったし」
「そんなに必死になる理由ってあんのか?」
「なんだろうね。私が一人っ子というのもあるだろうし、それに、おじいちゃんが学者でインテリだったのに、両親は二人ともそこまでの経歴じゃないから、コンプレックスでもあったんじゃないの? 今も『同期で一番早く昇進しろ』とか、『結婚するなら婿に来られる人で』とか、つまらないことを言われ続けてるけど……って、ミナトは昇進とか婿とか言われてもわからないか」
「何度か魔本で見かけた言葉だし、いちおうわかるぞ」
「へえ。まあそういうことで、そういう家なんです。ここは」
「……」
三日目以降も、ミナトは毎晩部屋に来た。
窓を叩き、部屋に入り、前日に借りていった本を返却すると、また部屋の本を漁り、その日に借りる本を決め、帰っていく。
アカリにとってはまったくつまらない本でも、彼にとっては大変面白かったようだ。
そして、旅行前日の夜――。
旅の準備が整ったタイミングで、また窓が叩かれた。
「結局毎日来たことになるけど。ミナト、あんたよっぽど暇なんだね」
「まあな! でも今日は挨拶だけだ」
中に入ってくることはなく、これまでで一番と思われる無邪気な笑顔だけ、網戸越しによこしてきた。
「明日からよろしくな! アカリ!」
「なんか、すごく楽しみにしてるように見えるんだけど? あまり行きたくないんじゃなかったの?」
「甘いなアカリ。えーっとだな……人生というのは、やりたいことができなくなったときが出発点なんだ。だから――」
「ハイハイ。もう魔本読み上げはいいから」
また魔本カンニングの説教が始まったので、アカリは途中でさえぎった。
なお魔本の表紙は、部屋の照明を反射して輝いているのが網戸越しでもわかる。金色のようだ。
「しかもさ。その名言、それ自体はいいこと言ってそうだけど、この場合だとちょっとピントがずれてない?」
「そう言われれば、そうかもな」
アハハ、と彼は頭を掻きながら笑った。
「魔本に載ってる言葉をそのまま使ってるから不自然になるんじゃないの……。ちなみにその魔本、他にも何か名言あるの?」
「んーっと、そりゃ無数にあるけど。適当に拾うと……二度としません、三度します。コマオクリモデキマスヨ。いやぁ~まいった、まいった。あれ? なんだこれ、わけわかんねー」
「それは私のセリフだって。なんなのその魔本は」
アカリは呆れたが、本人はどこ吹く風だ。
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