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十六話
しおりを挟むあの後、私は馬車で無事邸宅に辿り着いた。
しかし邸宅に着いた時、涙でパンパンに腫れた目元と、疲れて憔悴し切った私の顔を見て使用人達は困惑していた。
「奥様……?一体何が……?!」
トーマスやユールを始めとした使用人達が帰って来た私を見るなり、そう心配そうに声をかけた。
しかし私は泣いた疲れから返事をする気力がなく、気を遣ってくれる彼らにどう受け答えすればいいかわからなかった私は、つい彼らを突き放すような言葉をかけてしまった。
「私を本当に気に掛けているのなら……私に話しかけないで頂戴。…………それだけが今の私の願いよ。」
それだけ言い残して私はまるで彼らを、この世界を、拒絶するかのように自室の扉を静かに閉めた。
その時閉めた扉は、この暗い雰囲気のせいか、何だかいつもより重たく、そして冷たく感じた。
気を遣ってくれる彼らを本当は心配なんてさせたくないし、不安にもさせたくない。
だけど今日だけは、どうしても駄目だった。
あんなことがあって、正気でいられるわけがなかった。
そして今日、舞踏会場であったことを彼らに知られたくないというのもあった。
もし社交界で大衆に馬鹿にされ、見下されて帰って来たと知られたら、幻滅されるかもしれない。
それだけが、ただただ私には怖かった。
それからどれくらいの時間が経過したんだろう。
自室のベッドの上でうずくまって泣いていると、不意に外から馬のかける音が聞こえて来た。
(旦那様が……帰ってくる…………。)
正直、顔を合わせたくない。
彼と顔を合わせるのが、辛くて、憎くて、億劫で、仕方なかった。
あの時彼は、まるでなんて事のないことのように、私の尾籠の話をした。
いくら人の心がわからないからと言って、言って良い事と悪い事の区別くらい、頭で理解できないんだろうか。
今回ばかりは流石の私も耐えきれなかった。
傷ついたし、死にたくなったし、今までの名誉も、ギリギリ保っていた私の体裁も、あの瞬間、全てを失った。
そして何より、あんなことを言った旦那様を、私はどうしてと許せなかった。
今になって思う。
一体私は、あの時彼に何を期待していたんだろうか。
あんな無情で、無神経で、人の風上にも置けないような最低な人間に。
そんな時、私の部屋の扉を控えめにノックする音が聞こえた。
「ーーアルヴィラ、俺だ。」
扉の外側から声を掛けて来たのは、やはり旦那様だった。
(今更なに……?あんな事言っておいて……。)
そういえば、会場を抜け出した私を、彼は追いかけることすらしなかった。
まあ、人として終わっているから、紳士としての振る舞いができないのも当然なのかもしれないと考えて、諦めた。
そもそも私はもう、旦那様に何かを期待するつもりもないのだけれど。
そして私は旦那様が次に何を言うのか、だいたい予想できていた。
「少し話をーー」
「あなたと話すことなんて何もありません。」
私はわざと旦那様の言葉に被せるようにそう言った。
本当は言いたいことなんて山ほどある。
だけど、今、この男と面を向かって話をしたら自分が何を口走ってしまうのかわからない。
それがとても嫌だった。
しかし旦那様も引き下がる気はないようで、尚も扉越しに私に話かけてくる。
「アルヴィラ、お前が帰ってしまった原因は理解している。俺が人前でお前が処女だと言ってしまったことだろう……?」
そう旦那様が言うや否や、彼の立っている廊下の少し離れた場所からパリンッ!という陶器の割れたような音が響いた。
多分、今の旦那様の一言で驚き、使用人の1人が手を滑らせてしまったのだろう。
(ああ……とうとう使用人達にまで知られてしまうのかしら………最悪ね……。)
社交界で馬鹿にされたこと、見下されたこと、処女だと公言されてしまったこと。
きっと今聞いた誰かが、邸宅内に噂を広めるだろう。
もう羞恥などはない。
だってもう私は全てを失って、何もかも諦めていたから。
「アルヴィラ、俺はあの時、お前が"石女"ではないと、知ってもらう良い機会だと思ったんだ。」
だからって普通は処女という言葉を使わないだろう。もっと他に良い言い方があったはずなのに何で考えないんだろうか。
(この人は言葉を選ぶと言うことをしないのかしら………?)
私は旦那様のあの一言のせいで、取り戻せそうだった社交界での立場も権威も、完全に失った。
(じゃあ、あとは……?私が失うものってこれ以上、何があるの……?)
そしてやっと、そこで私は気づいた。
そうだ。
ーーもう失うものなんて、何もないじゃない。
そう気づいた時、私は徐にベッドから立ち上がるとそのままの勢いで自室の扉を開けた。
旦那様は、突然私がドアを開けたことで驚いて呆気に取られていた。
そして私はそんな旦那様をひと睨みすると次の瞬間、その勢いのまま、彼の左頬を思い切り平手打ちした。
その瞬間、パンッという乾いた音が邸宅内に響き渡った。
本当は人に手をあげるなんて、間違っているし、いけない事だとわかっている。
しかしこうでもしないとこの怒りをどう昇華すればいいか分からなかった。
あの瞬間、失うものがなくなったと気づいた私は、言いたいことや、やりたいことをとことんやってしまおうと吹っ切れた。
そして未だに状況を飲み込めていないのか、旦那様はそのまま固まって動かなくなってしまった。
私はそんな彼の胸ぐらを両手で掴みあげると、その衝動のままにこう叫んだ。
「あなたは……私が人々から笑い物にされようが、そのせいで社交界に顔が出せなくなろうが、本当はどうだっていいんでしょう?!」
私が瞳に涙を溜めながらそう必死に訴えかけると、いつもの何の感情もない顔から一変、旦那様は表情を曇らせた。
しかし彼は、私が頬を叩いたことに関しては何も言わなかった。
彼が今、どんな気持ちなのか、正直私にはわからない。
「あなたのしていることはとてもじゃないけど……人のすることだとは思えない……!!」
私がそう言うと、旦那様はどこか傷ついたような顔をしていた。
そんな顔をしたいのは、私の方なのに。
確かに頬を叩いたのは私だけれど、まるで自分が今までずっと被害者だったとでも言いたげなその顔に、私は神経を逆撫でされた気分だった。
そして旦那様は私に何かを必死に弁明し始めたが、私はもう、彼の話など1つも聞きたくなどなかった。
「………違うんだ、アルヴィラ。俺はそれでお前が傷つくなんてーー」
「その言い訳はもう充分聞きました……!!!」
今まで何度もそう言われて来た。
人の気持ちがわからない、お前の気持ちを汲み取るのは難しい。そう言いたいんだろう。
けれど、いつも思っていたことがある。
私が味わってきた痛みは、そんな簡単な言葉で片付けてしまえるほど、浅いものではない、と。
そして一度気持ちが爆発してしまうと、もう止められなかった。
この5年間で蓄積されて来た旦那様への怒りや不満が、私の心の奥底から次から次へと溢れ出して来た。
「貴方は人の気持ちがわからないから、私があの時どう思うかも考えていなかったって言いたいんでしょ?!貴方はどれだけ人の神経を逆撫ですれば気が済むのですか……?!!」
「…………それは、仕方ないだろう……。」
「仕方ないで全部すませないで……!!あなたのその"仕方ない"で、私がどれだけ傷ついて来たと思っているのですか……?!!」
そんな軽い言葉ひとつを理由に、私は今まで傷つけられても耐えて来ていたのか。
それも、人の痛みがわからないような、こんな男に。
自分がまるで馬鹿みたいだった。
今までの5年間、耐えて来た時間は一体、何の意味があったんだろうか。
私にとって一体、何の価値があったんだろうか。
「……そもそも、どうせあなたが私を引き留めるのも、私がここに嫁ぐ時に交わした鉱山の所有ができなくなるからでしょう?!」
「それは違う!!お前との結婚は俺がーーー」
旦那様はまた何か言い訳を始めたが、私はもう、どんなことを聞かされても止まる気はなかった。
ーーーいや、もう、止まれなかった。
「違わないわ!!私はお父様から直接聞きしましたもの!!!契約書に書いてあったわ!!離婚をした場合の鉱山の所有権はストレイ伯爵家に帰属すると!!この国有数の鉱山のうちのひとつだものね!それは手放したくないはずよ!!」
そんな鉱山を手放したのは当時、領民の食糧不足に耐えかねた、私たちの苦肉の策だった。
でもいくら領地民のためだからと言って、もうこんな現実には耐えられなかった。
思えばこの結婚は最初から全て間違いだったのだ。
私の人生がここまで崩れたのは、この人の妻になったあの日から。
あの時、アレンベル家からの婚約を断っていれば、結婚を承諾しなければ、この人に嫁がなければーーーーー。
そして私はふと思った。
(あれ…?私なんでこの人の離婚を先延ばしにしてあげてるんだっけ…………?)
そう考えたら、もう止まれなかった。
私はその時、自分自身を守るのに必死で、離縁を引き留めてくれていた使用人達のことなどもう頭の中にはなかった。
遅かれ早かれするのだったら、今言ってしまってもいいのではないか。
だってもう、あと十数日、耐えられる気がしない。
それにこれ以上、旦那様の苦しい言い訳も聞いていられなかった。
何より彼には利益があるのに、私になんの利益もないこんな生活、もう早く終わりにしたかった。
(ただ傷つくだけの世界なんて、あんまりよ……。)
もう全てを失って、死にたい気持ちだった。
「あはは…………、私………、もう、駄目かも……………、」
そう言って私は膝から床に崩れ落ちた。
そしてその床には、私から溢れた涙の雫がポタポタと落ちていった。
もう何を言っても不毛なこの現実に、ただ笑うしかなかった。
私にはもう、ここに居場所がない。
ここまで私を追い込んだのだから、最後には私の願いを聞き入れてくれるだろうか。
「ア、………アルヴィラ……………?」
そう力無く膝から崩れ落ちた私の名前を呼んだ旦那様に、私はただそれだけを願っていた。
そして力の抜け切った覇気のない声で、私は旦那様にこう呟いた。
「旦那様………………
………………離婚しましょう。」
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