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第二部

@45 帰国

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 僕は邏陽との旅行を終え、郊外のシェルターへと帰った。一人でユヅハを尋ねるのは気が重かった。少なくとも僕は彼女とまったく元に戻れるとは期待していなかった。
 いま僕は無機質なシェルターのなかで固いソファに座り、ユヅハと向き合っていた。彼女は机に座っていた。
「たくさんの人間を巻き込んでしまった」
 事実だ。しかし彼女に全ての責任があるわけではない。
「君は満足しているのかい? その…復讐は果たせなかっただろうが、親への恐怖を克服することはできたか?」
 それは当初の目的だった。彼女にとって恐怖の象徴であった親の存在に決別をするという目的だ。
「うん…まぁ…」
 曖昧にも思える返事だった。ここまで聞いて僕はあることを思い出す。彼女がついていた嘘だ。なぜ彼女は自傷をし、それを親によるものだと僕に話したのか。僕はこの話を有耶無耶にはしたくなかった。彼女が嘘をつく相当な理由があったと考えるのが妥当だからだ。そして有耶無耶になればこの嘘は僕と彼女の関係に暗い陰を落とすことになりかねない。
 僕は並々ならぬ抵抗を感じながらも尋ねた。”どうしてだい?”と。
 彼女はまず自傷の原因を話し、僕にとってそれは驚くべきものではなかった。彼女が左腕を義手にした理由と全くもって一緒だったからだ。つまりそれは親が重要視している自分という存在に傷をつけることによって、親への抵抗を態度にする…といったものだ。
 僕はゴビ砂漠で会った彼女の両親を見て、ユヅハの親が本当の意味で彼女を愛してはおらず、彼女を単なる自分の作品として考えていたということを確かめた。それは子が親に対して恐怖と敵意を抱くには充分すぎる扱いだ。ユヅハが傷が残るほどに強力な鞭を使って自分の身体を痛めつける姿を僕は想像した。狂気すら感じられる行為だ。
 そして残った疑問はたった一つだ。なぜユヅハはその自傷の傷を親によるものだと言い張り、邏陽にまで口裏合わせをさせたのか。
「コズを引き止めるためだった」
 僕は今まで靄に隠れて見えていなかった萩原ユヅハの本質を見た気がした。嘘も隠し事も彼女にとっては僕を彼女のもとに繋ぎ止めるための手段の一つでしかなかったのだ。おそらくはセックスすらも。
「邏陽が言っていたよ。君は他者との距離感を摑むのが苦手なんだって」
 彼女の育った環境の特殊性から見れば納得できるだろう。幼少期は親から愛情を受け取らずに育ち、北京では競争社会の学校で優等生であることを求められた。ユヅハはこの言葉を純粋な誹りだと受け取ったようだった。彼女は言葉を詰まらせ、視線を下げた。
「コズは上手…いつも人の表情を見ている」
 僕は思わず彼女の顔から目を逸らす。それが悪いことではないと知っているのに。
「コズはずっと親や他人の表情を見ていた。それは嫌われたくないから。違う? 私にもその気持ちがある」
「…他人に嫌われたい人間などいないさ」
「そう、だから嘘をついてしまった。同情してもらえれば引き止められると思った」
 ユヅハは手を首の後ろに回す。赤茶色の髪の毛が揺らいだ。
「私はそれを正当化する気はない」
 彼女は僕の前に右手を差し出す。その上には…赤い紐に繋がれた翡翠の首飾りが載っていた。僕が誕生日に彼女に贈ったものだ。
「…責任をとる覚悟はある。終わりにしたいなら…これは返す」
 彼女の眼には今にも零れそうな涙が溜まっていた。彼女の言う通り、僕は彼女の表情から目を離すことはできなかった。
 脳裏にユヅハとの様々な思い出がよぎる。しかし最後に浮かんだのは邏陽の顔だった。僕は彼と約束したのだ。僕は彼女の右手を両手で覆い、彼女の指を一つ一つ内側へと曲げていった。彼女は再び首飾りを握り締める形となった。
「また一から始めよう」
 欺瞞に満ちた始まりも、こんな終わりも僕は望めなかった。だから何もかもを初期化したかった。
「うん…ありがとう…」
 ユヅハの首に首飾りを掛けると、手に温かい涙が垂れた。僕は嬉しかった。今度こそ、魏雷進の代わりではなく彼女の本物になれそうな気がしたのだ。
 自分で自分を単純だと思う。あんなに意地を張ったのに、彼女の前に立つと強がることすらできなかった。
 数日後、ついに僕とユヅハは日本へと帰ることとなった。帰国の見送りには李閲慕も現れた。彼女はすこし疲れているようだったが安定していた。彼女も北京に住むことに決めたらしい。彼女は基地のメンバーの逮捕や、彼女だけ釈放されたことについては何も言わなかった。
 別れの挨拶はあいにくの雨の中だった。
「じゃあね、日本でも元気でね」
 李閲慕は刺青の入った白い手を振る。
「ああ、君も身体に気をつけて」
「ユヅハ、コズさん。お元気で」
 邏陽も同じように手を振った。
「いつでも連絡してくれ」
 僕は名残惜しさを感じながらも彼らに背を向け、そしてやはり振り向いた。
「邏陽、ありがとう」
 僕は彼と握手を交わした。彼は雨音のなか、僕にだけ聞こえるような声でこう呟いた。
「もう会えませんね。さようなら」
 僕が意味を尋ねる前に彼は手を放した。聞き間違えだったかのように、彼は何もなさげに僕を見送った。
 飛行機はVIPルームでも何でもなく経済(エコノミー)クラスだった。僕としてはこちらの方が落ち着いた。
 甲高い音が鳴り響き、僕は椅子に押し付けられる。窓から見える北京はどんどん小さくなり、雨雲の中に消え去った。本当は何も解決してはいないのに、僕は全てが燃え尽きたように感じた。この地であまりにも多くのことが起こった。
 日本の地に降りるまで僕はユヅハに、邏陽とした旅行の話をした。天安門に佇む毛沢東や、あるいは万里の長城の雄大さを。
 僕は心の底から彼との旅行を楽しんだ。それが彼との約束だったからだ。万里の長城はその上に立つと無限に続く道のように見えた。どこまで進んでも終わりのない道。僕と邏陽は色とりどりの服を着た観光客たちの間をすり抜けて歩いていった。緑色の山に沿った城壁を登り、あるいは下った。平和で、そして二度と味わえない時間だった。何にでも終わりはある。無限に見える長城ですら渤海を渡ることはできず、海辺で終わりを迎えるのだ。
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