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第二部

@41 天安門

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 数日後にウェイは釈放され、その翌日に僕は約束通り彼と旅行に出かけた。中華人民共和国を散策するのは久しぶりだと彼は語った。彼はFRCへと強制送還される運びであったが、その日までは猶予があったのだ。
 ユヅハもこの旅に同行したがっていたようだったが、ウェイは彼女を上手く説得した。
 もう一つ状況に進展があった。ユヅハはあのあと彼女の両親と正式に絶縁をした。彼女の目指していた復讐や”恐怖の克服”は果たせないままだったが、彼女は満足していると言った。
 ウェイは僕にどこに行きたいかと尋ねた。僕は人民共和国の観光地に詳しくなかったため、何も考えずに天安門が見たいと答えた。中華人民共和国を代表するような場所だったし、実際ああいった巨大な建造物を自分の目で見てみたいという気持ちがあった。ウェイは喜んでと僕を連れてくれた。
 北京の街並みをしっかりと観察できたのはほとんど一ヶ月ぶりだった。僕は街の古さと新しさが融合した雰囲気を斬新に感じた。瓦葺き風の屋根を持つ真っ赤な料理店から、全面LED画面張りのブランド品店、あるいは時代遅れのコンクリートのビルまで。東京のように調和を重視しているわけではなく、より自分を主張することに重きを置いているように感じた。
 僕は街にある様々な文字を観察したり、あるいはウェイに助言を貰うことによってすこしだけ何を意味するのかわかるようになってきた。例えば”公司”は”会社”を意味するし、”打折”は”割引”を意味する。
「じゃあ…あれはどういう意味だと思いますか?」
 ウェイが指差したのはある看板で、”飯店”と書かれていた。僕はすかさず料理店だと答えたが、彼はあれはホテルを意味するのだと教えてくれた。
 昼過ぎ、僕たちは天安門を目指して歩いた。天安門の前には毛沢東の遺体が安置されている毛主席紀念堂があり、僕はついでなら見てみようと長い列に並んだ。
 厳しい荷物検査を済ませ、僕とウェイはようやく毛沢東の遺体と対面した。入館まで長い列に並んだものの、記念堂の中では立ち止まることは許されず、僕たちはちらりと見ただけで遺体から離れることとなった。人民服を着た老人は安らかな顔で横たわっており、遺体の入ったガラスケースの先には金色の文字でこう書かれている。
“偉大な領袖、導師である毛沢東主席は永垂不朽である”
「何か思うところはありますか?」
「百年も前に生きた人間の死体をこうやって見れるのは、歴史を感じるね」
 僕自身は彼という人間に何も意見を持っていなかった。大躍進政策や文化大革命といった黒い側面にも知識はあったが、この老人をそういった歴史の悲劇に結びつけられるような実感は湧かなかったのだ。
 僕とウェイはどこまでも広がるような石畳を歩いた。あちらこちらに僕たちのような観光客が歩き回り、それらに目を光らせる武装警察もいた。彼らの濃緑の制服は環華人民銀行の制服を思い出させた。僕たちは天にそびえる人民英雄紀念碑をすこしばかり見て、北に進んでかの有名な天安門広場へと至った。
 壁のように立ちはだかる天安門の中心に毛沢東のホログラムが投影されていた。さきほど見た遺体よりもずっと若い頃のようだ。青白く輝く巨大な毛沢東のホログラムはたまにまばたきをしたり、眼を動かしたりした。昔はホログラムの代わりに巨大な肖像が飾られていたらしい。しかし旧中華人民共和国がFRCになり、北京がFRCの首都となった際にそれは取り外された。取り外された肖像は博物館に展示されていたものの、火事で焼失したとされている。
「前にも来たことがあるのかい?」
 僕はウェイに尋ねた。
「ええ、小さい頃に家族に連れてもらって」
「へぇ、何歳くらいの頃だい」
「小学校に入る前です」
「ある意味思い出の場所というわけだ」
「ええ、でも…その時のことはほとんど覚えていません」
 僕はウェイがあまり家族について話したがらないことにずっと気づいていた。
「天安門事件は知っていますか?」
 ウェイが話題を変えた。
「ああ。えっと…1989年だったっけ」
 僕は歴史科の授業で見た、戦車の前に立つ男の写真を思い出した。
「1989年の六月四日ですね」
 天安門事件は民主化を求めたデモ隊に政府が武力を行使した事件として知られている。死者は多く、数百人とも数千人とも言われている。今でこそ歴史が生んだ悲劇の一つであると共産党は認めているが、旧中華人民共和国の頃は絶対的なタブーであった。僕はそんなウェイの解説に耳を傾けた。
「なぜこの事件が今やあまり象徴的な存在ではなくなったんだと思いますか?」
 僕はウェイの質問を聞いて毛沢東のホログラムを眺めた。この話は2064年以降のクーデターの悲惨さを表現するものとしてよく使われている。
「更に悲惨な状況が起こったからだ」
 旧中華人民共和国は2056年に民主化し、FRC(中華連邦共和国)となった。いくつもの地域が独立し、共産主義は中華の歴史舞台から去ったように見えた。しかし思想教育を受けた層の間では共産主義は根強く残り、ついに武力行使に至るようになった。2062年のFRC大統領殺害を皮切りに、組織的な武力衝突が目立つようになっていった。
 民主化の際に武装解除すら後回しとなっていた旧人民解放軍系の勢力が新共産党側につくまでそう時間はかからなかったのだ。経済制裁で停滞した旧中華人民共和国経済のなか、失業した若者の受け皿として肥大化した人民解放軍はいつの間にか党に次ぐ巨大な組織となっていた。
 2064年から始まった共産党系の武装勢力とFRCの武力衝突はついに大型紛争の体裁となり、ついに翌年、北京を占領した共産主義勢力は中華人民共和国の復活を宣言した。南下したFRC政府とその武力は広港市を仮の首都として何とか新中華人民共和国と停戦した───
 僕がこれを語ると、ウェイは僕の知識に感心した。興味のない授業のために勉強したつもりだったが、こう褒めてもらえると努力が報われたような気がした。
 このクーデターの一連の流れは非常に大きな混乱をもたらし、官民双方に少なくない犠牲者を出した。
「さすがですコズさん。ではなぜ旧人民解放軍が民主化してもなかなか解体されなかったかわかりますか?」
「弱体化した欧米諸国には…旧人民解放軍の若者たちに新しい雇用先を提供できるだけの余力がなかった」
 少子高齢化や経済成長の停滞に明確な解決策を出せなかった各先進国は弱体化していた。
「そうです。思想教育を受けた彼らは日に日にFRCに対する不満を募らせていったのです。じっさい、当時のFRC政府は失業者の期待に応えられませんでした。欧米諸国はFRC世論が反政府に傾き初め、状況が悪くなっていくのを確認するといち早くFRCから撤退しました」
 僕はウェイの言葉に頷く。
「治安維持の多くを欧米諸国の駐在軍に頼っていたFRCは自前の武力に欠けており、反政府勢力を鎮圧しきれなかった…ここまでは授業でやった」
「しかしここでひとつ疑問が湧きます。なぜFRCは国内の情勢を監視しきれなかったのでしょうか? たかだか十年前です。監視の技術は現在とほとんど変わらない───ではなぜFRCは大統領の殺害を防げなかったのでしょう」
 僕とウェイは石畳の上をゆっくりと歩く。
「環華人民銀行がその計画を黙殺したからかい?」
 当時のFRC大統領は、旧共産党と関係が深かった環華人民銀行を解体しようとしていた。そして環華人民銀行はそれを阻止するために大統領暗殺計画を黙殺したという噂がある。この噂は民間企業が行政を行うことの問題について語る際に必ずといって話題に登る。
「ええ、陰謀論の域を出ませんがね。最大の原因は監視システムを監視する存在がいなかったからです。公平審査という思想はここに端を発しています」
 公平審査の歴史はたった六年しかない。2066年に国連がこれを提唱し、すぐに適用された。それとほぼ同時にFRC国内での個人証明、つまりフィネコン社や環華人民銀行といった企業による市民の監視は違法化された。
「あの事件は悲惨だね。あまりに多くの犠牲者が出た」
 大統領の暗殺、そのためにあれほど多くの民間人が死傷する必要はあったのだろうか。
「…ええ」
「現場はここから近いんだっけ?」
 曖昧な記憶だが、当時の報道では天安門近くの…なんて言われていた気がする。調べればすぐにわかることだが、僕はあえてウェイに尋ねた。
「行きたいんですか?」
「ああ、せっかくなら悪くないと思ってね…気が進まないかい?」
 ウェイはすこしそこに行くことを躊躇っているように見えた。
「いえ、そんなことは。ただ…」
「すこし退屈かもしれないね。じゃあ他に行きたいところはないかい?」
 僕は彼が歴史や政治に関する事柄から距離を置きたいのではないかと勝手に考えた。彼が審査所の急襲計画の失敗に責任を感じているのならば尚更だ。
「いえ、どのみち、そこに行くつもりでした」
 彼は気を遣っているのではないかと僕は思わずにいられなかった。しかしそうだとして僕はどうすればいい?
「タクシーを呼びますよ」
 僕とウェイは最後に毛沢東を一瞥して広場から街へと出た。
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