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後編

33.危険ではないこと-1

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 アルヴィドが立ち去った研究室で、イリスはまだ床にへたり込んで震えていた。
 先ほどの断片的な場面が、時系列もばらばらに、入れ代わり立ち代わり頭の中で再生される。嵐のように起きて過ぎ去った出来事が、イリスを恐怖と混乱へ陥れていた。

 イリスは無意識に、左手の中指へ、逆の手で触れる。
 最近、落ち着こうとする時に、なぜかこの仕草をしてしまう。

「あ……」

 今さらながら、イリスはその理由に気が付いた。

 アルヴィドとの治療中。手袋の中へ隠して、彼を操れる魔法道具の指輪を常にこの指へ嵌めていた。
 初めのうちは、指輪がある限り彼に危害を加えられることなどないという、命綱を確かめる行動だった。
 だがいつしか、イリスと同じ傷と、計り知れない罪悪感を抱えながら、償いのためこの治療へ命を懸けてくれている、アルヴィドとの絆を感じるための仕草に変わっていた。
 そのため、彼がおらず指輪を嵌めていない状況でも、これで安心できた。指輪の有無ではなく、アルヴィドを信頼しているという自分の心を再認識するためだったからだ。

 あんなことがあっても、イリスの無意識はまだアルヴィドを信頼しているのだ。
 アルヴィドを信じたい。だが、彼の振舞いはどう説明を付ければいいのか。彼は、また何かの拍子でイリスへ牙を向ける存在だったのか。その疑念と恐怖を抑え込んで、彼の前で平然とできるのだろうか。

 左手を胸に抱えるように握りしめると、恐怖ではなく悲しさが、涙と共に溢れてきた。

「アルヴィド……。アルヴィド……!」

 名前を口にすれば、先ほどイリスに襲い掛かった姿ではなく、治療中のアルヴィドの記憶がよみがえってくる。

『――君が私の命を握る。君は安全だ』
『……そうだな。他人事だ。だが、治すと決めただろう。わずかな時間だけでも、取り組まなくては進めない』
『ここは公園だ! 実際に起きていることじゃない! 記憶は君を傷つけたりしない! 目を開けて、僕を見ろ!』

 課題の進捗を記録した手帳を見るときや、過去との対峙訓練の後の、イリスの努力と成長を称える優しい眼差しも、ありありと思い出せた。

『今は、自主的には過去のことを考えないようにしているから、君の頭は起きた出来事を消化できていない。君の脳は、君にその記憶の整理をさせたくて、何度も見せている。――理解しがたいその出来事が、怖いからだ。また自分を脅かすのではないかと。もう起きないとか、こうすれば対処できるとか、理解し、安心したがっている』
『繰り返し記憶を語ると、慣れてきて不安は減り、思い返しても怖くなくなる。そして詳細な理解が進むから、あの時に起きたことと、似ているが危険ではないことを判別できるようになる』

 イリスの体の震えは、止まっていた。

「思い返して、理解する……」
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