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後編
31.最後の治療-3
しおりを挟む「……おめでとう、イリス。今後、また辛いことがあったとき、もしかすると症状が戻ってくるかもしれない。だが君はもう、危険なことと、不安になるけれど実際には危険ではないことが、区別できるようになっている。だから、その時は自分の心へ意識を向けて、症状を自覚して、学んだことを生かしてその状況と向き合っていくといい。そうすれば、恐怖は減っていくはずだ」
まだ現実との対峙訓練は残っているが、アルヴィドとの面談は終わりだ。実質的に彼から施す治療が完了したのだ。
アルヴィドの結びの言葉を受けて、イリスはそれを再度認識した。
そして、頭の中で反芻し準備していた話を、彼の青い目を見つめて伝える。
「私、長い間将来のことをしっかり考えられてなかった。明日何をしなくてはならないとか、研究をどうするかとか、間近の予定だけで、やりたいことは全然思い描けなかったわ。きっと、嬉しさや楽しさを忘れていたからだと思う。でも今は少し、抽象的だけど、したいことがある。ありがとう、アルヴィド。私に未来へ目を向けさせてくれて。だから――」
だから、被害者と加害者ではなく、同じ傷を乗り越えた者として、対等な友に。
しかしイリスは、言いようのない違和感に、言葉を止めた。
じっと話を聞き入るアルヴィドは、真剣な様子ではある。だが、何かが違う。
その目から、感情が抜け落ちている。
先日までは、強い輝きはなくとも、穏やかで温かい眼差しをイリスへ向け、治療の進展を静かに喜んでくれていた。
このような、冷たさすら感じる凪いだ面持ちではなかった。思えば、今日は始めからこの様子だった。
急な変化に、長年それに頼ってきたイリスだからこそ、とある可能性へ思い至った。
「アルヴィド、あなた……、セムラクを使っているの?」
違うと言ってほしかった。だがアルヴィドは、隠しはしても、嘘はつかなかった。
「その答えは、君の治療に関係しない」
明確な拒絶は、同意だった。
彼は、セムラクで心を閉ざしている。イリスと、この場で感情を分かち合うことを拒んでいる。
アルヴィドは精神魔術の適性が低く、学生時代は授業も選択していなかった。だが低いだけであって、適性はなくはない。魔力と正確な詠唱さえあれば、精度は著しく落ちるが術の行使が可能だ。
愕然とするイリスは、一瞬息ができなくなった。
それを見たアルヴィドは、まるで煩わしいものを目にしたかのように、顔を背ける。
「どうして……」
「もう、帰らせてもらう。私の役目は終わった」
イリスは、立ち上がるアルヴィドに掴みかかった。
彼のシャツの胸元を握りしめ、まるで縋りつくようで、さぞ見苦しいことだろう。それでもイリスに自分を省みる余裕はない。
「どうして!」
「やめてくれ、イリス」
湧きあがる激情が、涙と、心をむき出しにした言葉を引きずり出す。
「やっと自分を守らずに外へ出られるようになったのに。あなたが私を治したのに……!」
イリスが恐ろしいというのなら、なぜ彼の説いた治療のように恐怖へ身を晒さず、セムラクへ逃げるのか。なぜ自分の心の傷だけは、共に治させてくれないのか。
「イリス、これ以上は――」
「どうしてあなたが、今さら私を拒絶するの!?」
「あ……」
イリスの心からの訴えに、無表情だったアルヴィドの様子が変わった。
セムラクが作用していれば、感情は出ないはずだ。だがため息のような微かな声を漏らした彼の瞳には、感情の色が乗っている。
イリスは、セムラクの使用者が踏み入れてはならない領域へ、アルヴィドの背を押してしまったのだ。
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