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中編
17.恐怖の低減-2
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イリスは杖を自らへ向け、セムラクの解除の呪文を唱えた。
「う……」
どくり、と心臓が大きく鼓動した。
先送りにしていた、アルヴィドと対面することによる強い恐怖がどっと流れ込んでくる。
「はっ、はっ……」
確かめなくてもわかるほど、強く速くなる脈拍。息が浅くなり、視界が狭まってくる。
(怖い。怖い)
途切れ途切れの記憶が目の前を通り過ぎていく。若いアルヴィドが、イリスに圧し掛かって、服を剥ぎ、まるで紙を丸めて捨てるようなぞんざいさで、処女を奪った。
『なんだ。本物の淫魔は廃人になるほど良いって聞くけど、雑ざりものじゃあ劣るな。あ、やっぱり処女か』
彼に吐きかけられた侮辱の言葉が、這いまわる手の感触や下腹部の痛みが、よみがえる。
「あ、あぁ……」
(気持ち悪い……)
体の震えを少しでも押さえたくて、抱き締めるように自分の両腕を強く掴み、上体を伏せた。
この場に鎮静剤は持ってきていない。耐えるしかない。
しかし脳裏には、再びセムラクをかけるという選択肢が芽生えていた。そうすれば、この恐怖を先送りにして逃れられる。
「だめだ」
昔より一段低くなった、アルヴィドの声。
イリスが杖を意識して握り直したのを見咎めたのだ。
隣に彼が居ることを思い出したイリスは、身を固くした。
見られている。この惨めな姿を見られている。
(見ないで、どこかへ行って……!)
指輪から感じる熱。
少し驚いたように息を呑む気配と同時に、アルヴィドが立ち上がって歩き出す。意識した念ではないが、イリスの望み通りどこかへ行こうとしている。
「指輪を使わなくても、言ってくれたら動く……」
顔は上げずとも、足音と遠ざかっていく声で離れつつあることがわかる。
「……せめて、何かあった時駆けつけられる場所に」
アルヴィドはイリスの外出時の護衛でもある。イリスがそれを思い出すと、勝手に動かされていた彼の足音は止まった。
「う、ふぐ……」
苦しい呼吸と、最も弱みを見せたくない男にそれを晒さなくてはいけない屈辱に、涙が出てくる。これを隠せないことも、イリスを一層苛んだ。
隠したい。誰にも知られたくない。
手の中には杖がある。
もう十分恐怖を味わったのだから、戻してもよいのではないか。
その迷いが強くなった時、離れた場所からアルヴィドの声が届く。
「そのまま聞いてくれ。現実との対峙の訓練で、短時間でその状況から離れてしまうと、そこに危険がないことや、不安は減るという経験を学べないままになってしまう。すると、やはりあの状況は恐ろしいものだった、とこれまでの認識を補強して逆効果になる。始めたら、恐怖が薄れるまでその状況と向き合う必要がある」
現実の彼の言葉に集中すると、記憶の中のアルヴィドの侮蔑がかき消される。
「……だから、セムラクに逃げてはいけない。耐えろ。今の君は、危険な状況にはない。記憶が、現実の君を傷つけることはない」
過去の記憶を見たくない。アルヴィドにこの姿を見られたくない。このままにしては、気を失ってしまうのではないか。
不安がセムラクの使用を後押しする。
だが、イリスは杖を、ベンチの座面の上へ置いて手放した。すぐに自分の腕を握りしめて、手を伸ばす欲求に耐える。
(逃げてはいけない。逃げたくない……)
「う……」
どくり、と心臓が大きく鼓動した。
先送りにしていた、アルヴィドと対面することによる強い恐怖がどっと流れ込んでくる。
「はっ、はっ……」
確かめなくてもわかるほど、強く速くなる脈拍。息が浅くなり、視界が狭まってくる。
(怖い。怖い)
途切れ途切れの記憶が目の前を通り過ぎていく。若いアルヴィドが、イリスに圧し掛かって、服を剥ぎ、まるで紙を丸めて捨てるようなぞんざいさで、処女を奪った。
『なんだ。本物の淫魔は廃人になるほど良いって聞くけど、雑ざりものじゃあ劣るな。あ、やっぱり処女か』
彼に吐きかけられた侮辱の言葉が、這いまわる手の感触や下腹部の痛みが、よみがえる。
「あ、あぁ……」
(気持ち悪い……)
体の震えを少しでも押さえたくて、抱き締めるように自分の両腕を強く掴み、上体を伏せた。
この場に鎮静剤は持ってきていない。耐えるしかない。
しかし脳裏には、再びセムラクをかけるという選択肢が芽生えていた。そうすれば、この恐怖を先送りにして逃れられる。
「だめだ」
昔より一段低くなった、アルヴィドの声。
イリスが杖を意識して握り直したのを見咎めたのだ。
隣に彼が居ることを思い出したイリスは、身を固くした。
見られている。この惨めな姿を見られている。
(見ないで、どこかへ行って……!)
指輪から感じる熱。
少し驚いたように息を呑む気配と同時に、アルヴィドが立ち上がって歩き出す。意識した念ではないが、イリスの望み通りどこかへ行こうとしている。
「指輪を使わなくても、言ってくれたら動く……」
顔は上げずとも、足音と遠ざかっていく声で離れつつあることがわかる。
「……せめて、何かあった時駆けつけられる場所に」
アルヴィドはイリスの外出時の護衛でもある。イリスがそれを思い出すと、勝手に動かされていた彼の足音は止まった。
「う、ふぐ……」
苦しい呼吸と、最も弱みを見せたくない男にそれを晒さなくてはいけない屈辱に、涙が出てくる。これを隠せないことも、イリスを一層苛んだ。
隠したい。誰にも知られたくない。
手の中には杖がある。
もう十分恐怖を味わったのだから、戻してもよいのではないか。
その迷いが強くなった時、離れた場所からアルヴィドの声が届く。
「そのまま聞いてくれ。現実との対峙の訓練で、短時間でその状況から離れてしまうと、そこに危険がないことや、不安は減るという経験を学べないままになってしまう。すると、やはりあの状況は恐ろしいものだった、とこれまでの認識を補強して逆効果になる。始めたら、恐怖が薄れるまでその状況と向き合う必要がある」
現実の彼の言葉に集中すると、記憶の中のアルヴィドの侮蔑がかき消される。
「……だから、セムラクに逃げてはいけない。耐えろ。今の君は、危険な状況にはない。記憶が、現実の君を傷つけることはない」
過去の記憶を見たくない。アルヴィドにこの姿を見られたくない。このままにしては、気を失ってしまうのではないか。
不安がセムラクの使用を後押しする。
だが、イリスは杖を、ベンチの座面の上へ置いて手放した。すぐに自分の腕を握りしめて、手を伸ばす欲求に耐える。
(逃げてはいけない。逃げたくない……)
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