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前編

7.危機-3

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「あー、よかった。成功だ」

 診察台から降りた男は、横たわり目で追いかけてくるイリスを見下ろした。
 その顔は、先ほどまでの憔悴ぶりから一転、どこか寒気を感じる別人のようなおどけた表情だ。

「眠り薬が効いてるはずだって? あれね、寝たふり。魔力抑制薬もそう。俺、たいていの薬は効かないように訓練で耐性つけてるから」

 まだ手の中にあった杖をもぎ取られ、床へ捨てられる。
 イリスは何が起きているのか分からなかった。この男は患者ではなかったのか。

「センセーさぁ、患者を眠らせたりしてまあまあ用心深いんだけど、ちょおっと詰めが甘いんだよな。約束の時間通りに、病院からの紹介状を持ってきたからって、本人とは限らないだろ?」

 国立病院から、今夜患者が来ると連絡を受けていた。そしてこの男は紹介状を持ってやってきた。事前に知らされていた概要と相違ない記憶を語った。
 イリスは目の前の男が患者だと、疑いもなく信じてしまった。

「辛い記憶で夜も眠れなかった可哀そうな男は、今頃天国で家族と対面してるだろうよ」

 この男は、患者から必要な情報を聞き出して殺害し、成り代わっていたのだ。

「だ、れ……」
「俺はそうだなぁ。この国をより良くしようとしている秘密結社の一員ってところだな。そんなことより俺たちは、センセーの記憶分離の魔術が欲しいんだ。記憶を見る魔術じゃ経験にはならないし劣化した複製でしかない。記憶分離は原型の記憶を取り出して移せる。元の記憶の持ち主を殺しても構わない。こんなのよく作れたもんだ」

 この男が反政府組織か何かの構成員だとすると、記憶分離の魔術を渡してはとんでもないことになる。例えば他人に構成員の記憶の大部分を移せば、相手は人格が変わり、組織の手先になる可能性がある。それを政府要人にでも行えば、恐ろしい被害を生むことは想像に難くない。
 こういった手合いに悪用されないよう、術を施す相手は紹介された患者に絞っていた。だが、男の語った通り、万全ではなかった。国立病院の患者の情報自体が極秘だ。にもかかわらず、男はその中でもさらにイリスへ紹介された人物を突き止めている。根深いところに内通者がいると考えられた。

「さぁて、早く帰らないとな」

 男は手荷物として持ってきていた、口金式の大ぶりの鞄を開き、イリスの診察台の隣の床に置いた。
 そして動けないイリスの体を起こすと、診察台のへりに腰かけさせる。

 イリスの視界には、足元で口を開ける鞄が映った。鞄の中に底はなく、ひたすら暗い闇が広がっている。おそらく鞄の中の空間を拡張する魔術を施した道具だ。

 男はイリスの足元を、その鞄の中へ入れた。
 鞄へイリスを収めようとしている。
 男はこの場で秘術を聞き出すのではなく、どこかへイリスを連れ去ってからじっくり尋問するつもりなのだ。

「よいしょっと」

 だがそうはさせない。
 上体に手をかけられた瞬間、イリスは精神を集中させ、体から魔力を放出した。

「あがっ……!」

 魔力の衝撃波をまともに受けて、男は背後の戸棚へぶつかり床に倒れ込んだ。戸棚に収納された陶器やガラス容器が派手な破壊音を立てる。
 イリスも男の支えを失い床へ落ちた。受け身は全く取れず、痛みに息を詰める。

 杖や呪文を使わずに念じて操れる魔力は、基本的に僅かであるし効率が非常に悪い。それでもイリスは過去の経験から、身動きできない状態でも抵抗するための最後の手段として、この方法を辛抱強く訓練し続けた。その結果、人一人気絶させる芸当まで可能となったのだ。

 男に魔力をぶつけて倒したイリスは、診察台から床に落ちた痛みを堪えつつ、自分の力が戻るのを待った。

(これで気絶しているうちに……)

 もう少しでイリスの魂は体に馴染む。魔術さえ使うことができれば、男に抗戦できる。
 しかし、その目算は外れていた。

「……いってぇ。クソッたれ」

 苦しげに悪態をながら、男が戸棚に掴まり立ち上がった。家具に衝突して切れた額から、血が流れている。だが本来ならこの程度の傷で済むはずがない。
 床に這いつくばるイリスを見下ろす目には、残虐な光が灯っていた。

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