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15.忘却-1
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脱出して数日後、敵国の王都を攻め落とし将軍の私邸の地下牢へ戻ってきたファルハードは、前室に倒れたシュルークの姿を目の当たりにした。
別れた時には解かれていたのに、鉄格子の根本にまた手首をくくりつけられ、裸のまま放置されている。
二つある牢のどちらも空いているのだから、わざわざ前室で拘束せず牢へ入れればいい。だがあえてそうしなかったのは、凌辱者が逐一牢から出すのを煩わしく思ったからだ。狭い牢の中では事に及びにくい。あの傭兵か、あるいは他の誰かが、繰り返し彼女を慰み者にしていた証である。
「おい!」
ファルハードは思わず駆け寄って膝をつき、その肩を揺らした。触れた素肌は冷え切っており、衰弱している。しかし、息はある。
地面に捨て置かれていた彼女の服を拾って体にかけながら、体を揺り動かしていると、閉じていた瞼がゆっくりと開いた。
「よかった……」
弱り切ったか細い声。シュルークはファルハードを見て、力なく笑った。声を聞くために、ファルハードは身を屈めて彼女の顔に頭を近づける。
「いい子……」
それを勘違いしたのか、シュルークは手を伸ばしてファルハードの首を撫でた。
「あの時……、お別れを、言いたかったの……」
撫でる手を掴んで外そうとしかけたファルハードは、シュルークの言葉に動きを止めた。
「でも、あなたに、名前をつけてなかった、から……、呼び止められなかった……」
別れ際に伸ばされたあの手は、助けを求めるためではなかったのだ。
「殿下、こちらを」
成り行きを見守っていたシャーヤールが、ファルハードに水の入った革袋を差し出した。
シュルークを抱き起し革袋を口に咥えさせると、彼女は一口ずつゆっくり飲み込んだ。あと少しで処刑される命だからと、水もまともに与えられていなかったのだろう。
「飼い主さん……、ありがとう。外はもう、散歩をしに来られるぐらい、安全なのね……」
どうやら、ファルハードを牢から逃がしたシャーヤールを、新しい飼い主だと思っている様子だ。
「本当はね、もう名前は考えてあったのよ……。けれど、名前をつけたら、きっとあの子と同じぐらい、大事に思うようになるわ。それなのに、またお父様に殺されてしまったら……。でも、こんなことになるなら、もっと早く名前で呼んであげればよかった」
瞳にじわりと涙の膜が張り、声が震える。こんなことを、あれから何日も冷たい地下室で後悔し続けていたのだ。
シュルークは自分にとって都合の悪いことや嫌なことを、拒絶し忘れられる。だから今でもファルハードの取る人間の行動を、即座に忘れて認識せず、犬として見ている。それができるなら、過酷な凌辱、迫る処刑の日、飼い犬との別れ。そのどれも、忘れられたはずだ。なのに覚えている。
その理由をファルハードは分かっていた。凌辱の最中にも虚ろにならずに耐えたのは、自分の犬を守ると決意したから。その後今でも記憶を保っているのは、逃げたファルハードが無事か気がかりで、確かめるまでは忘れられなかったからだ。
この涙が彼女を力尽きさせたのか、シュルークは落ち着いて、うとうととし始めた。
「いいえ……、呼ばない方がよかったんだわ。もうお別れするんだもの……。名前は新しい飼い主さんにつけて貰ってね」
瞼が落ちてくるのに抗いながら、悲しげだが穏やかにファルハードへ語りかけ、耳の後ろをいつものように撫でる。
「私は、ごめんね、一人きりではもう、抱えられないの。だから、忘れるわ」
犬の無事は確認した。だからもう、普段なら拒絶していた記憶を忘れることにしたようだ。
どうせ、蔓草の曜日を免れても、いずれファルハードが処刑する。だがそれまでの間、あの凌辱の記憶を始めとした嫌なことは、忘れていた方がいいだろう。ファルハードは、シュルークには届かないと思っても、彼女の言葉に同調した。
「ああ。そうしろ」
シュルークはファルハードの人間の言葉を聞き入れない。だからこれまで怒りの言葉をぶつけても、反応は返ってこなかった。
「うん……。幸せにね。大好きよ……」
しかしこの時のシュルークは、眠りに落ちる寸前だったからなのか、初めて返事をした。
閉じた瞼の縁から、涙が零れ落ちていく。
ファルハードは、これが『元の』シュルークとの最初で最後の会話だとは、夢にも思わなかった。
別れた時には解かれていたのに、鉄格子の根本にまた手首をくくりつけられ、裸のまま放置されている。
二つある牢のどちらも空いているのだから、わざわざ前室で拘束せず牢へ入れればいい。だがあえてそうしなかったのは、凌辱者が逐一牢から出すのを煩わしく思ったからだ。狭い牢の中では事に及びにくい。あの傭兵か、あるいは他の誰かが、繰り返し彼女を慰み者にしていた証である。
「おい!」
ファルハードは思わず駆け寄って膝をつき、その肩を揺らした。触れた素肌は冷え切っており、衰弱している。しかし、息はある。
地面に捨て置かれていた彼女の服を拾って体にかけながら、体を揺り動かしていると、閉じていた瞼がゆっくりと開いた。
「よかった……」
弱り切ったか細い声。シュルークはファルハードを見て、力なく笑った。声を聞くために、ファルハードは身を屈めて彼女の顔に頭を近づける。
「いい子……」
それを勘違いしたのか、シュルークは手を伸ばしてファルハードの首を撫でた。
「あの時……、お別れを、言いたかったの……」
撫でる手を掴んで外そうとしかけたファルハードは、シュルークの言葉に動きを止めた。
「でも、あなたに、名前をつけてなかった、から……、呼び止められなかった……」
別れ際に伸ばされたあの手は、助けを求めるためではなかったのだ。
「殿下、こちらを」
成り行きを見守っていたシャーヤールが、ファルハードに水の入った革袋を差し出した。
シュルークを抱き起し革袋を口に咥えさせると、彼女は一口ずつゆっくり飲み込んだ。あと少しで処刑される命だからと、水もまともに与えられていなかったのだろう。
「飼い主さん……、ありがとう。外はもう、散歩をしに来られるぐらい、安全なのね……」
どうやら、ファルハードを牢から逃がしたシャーヤールを、新しい飼い主だと思っている様子だ。
「本当はね、もう名前は考えてあったのよ……。けれど、名前をつけたら、きっとあの子と同じぐらい、大事に思うようになるわ。それなのに、またお父様に殺されてしまったら……。でも、こんなことになるなら、もっと早く名前で呼んであげればよかった」
瞳にじわりと涙の膜が張り、声が震える。こんなことを、あれから何日も冷たい地下室で後悔し続けていたのだ。
シュルークは自分にとって都合の悪いことや嫌なことを、拒絶し忘れられる。だから今でもファルハードの取る人間の行動を、即座に忘れて認識せず、犬として見ている。それができるなら、過酷な凌辱、迫る処刑の日、飼い犬との別れ。そのどれも、忘れられたはずだ。なのに覚えている。
その理由をファルハードは分かっていた。凌辱の最中にも虚ろにならずに耐えたのは、自分の犬を守ると決意したから。その後今でも記憶を保っているのは、逃げたファルハードが無事か気がかりで、確かめるまでは忘れられなかったからだ。
この涙が彼女を力尽きさせたのか、シュルークは落ち着いて、うとうととし始めた。
「いいえ……、呼ばない方がよかったんだわ。もうお別れするんだもの……。名前は新しい飼い主さんにつけて貰ってね」
瞼が落ちてくるのに抗いながら、悲しげだが穏やかにファルハードへ語りかけ、耳の後ろをいつものように撫でる。
「私は、ごめんね、一人きりではもう、抱えられないの。だから、忘れるわ」
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「ああ。そうしろ」
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「うん……。幸せにね。大好きよ……」
しかしこの時のシュルークは、眠りに落ちる寸前だったからなのか、初めて返事をした。
閉じた瞼の縁から、涙が零れ落ちていく。
ファルハードは、これが『元の』シュルークとの最初で最後の会話だとは、夢にも思わなかった。
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