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02.散歩-3
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シュルークが皇帝との何度目かわからない『散歩』を済ませた日の午後。執務室に若い女官が三人で連れ立って訪ねてきた。
「女官長、花祭のことでご相談があって参りました」
「はい」
壁面に窓の三つある実用重視の石壁の部屋で、耐久性は間違いなさそうな飾り気のない書架や机などが設置されている。豪奢に装飾された皇宮ではあるが、皇族や客人の立ち入らない裏方は、飾る必要もないのでこんなものだ。
その執務室で、壁に向かって置かれた机で書き物をしていたシュルークは、手を止めて入室してきた彼女たちを振り返った。
若い女官たちは、帽子の前側の薄布を上げていて、顔を隠していない。あれは皇帝の前で下ろす必要があるものなので、普段はたいがいの女官が素顔で歩き回っている。隠していることが多いシュルークも、室内で書き物をしていたので今は彼女らと同様に薄布を上げていた。
緊張した面持ちの彼女たちに対し、シュルークは常よりもう少しだけ口角を上げて見せた。一応、話しやすいようにという配慮である。シュルークは基本的に表情がない。だが、表情が対話や対人関係に影響することは理解していた。だから、必要そうだと判断した時には、意識的に笑顔を作っている。
いつも無表情かそもそも顔を隠している女官長の薄い微笑に、女官たちは少し安心したようで続きを話し始めた。
「未婚の女官同士で話し合っているのですが、花祭りの当日、数名だけでもお休みをいただけないでしょうか……」
花祭りとは、市街で行われる主に未婚の比較的年若い女が好んで参加する祭りである。祭りの参加者同士で花を一輪ずつ交換しあう。良縁に恵まれる祝福が与えられるという。それだけでなく、実質的に若い男女の出会いの場でもある。結婚相手は、家族の紹介か花祭りで出会った人のどちらかである場合が圧倒的に多い。
未婚の若い女官全員が休むとそれなりに手痛いが、皇宮で何か催しがあるわけでもないので、祭りに参加しない既婚者や年かさの女官だけでどうにか仕事は回る。
他の女官たちも、せっかくの娯楽や出会いだから、過去に自分たちも参加させてもらったから、といった理由で彼女らの休暇に賛成している。
「毎年のことですから、遠慮は不要です。未婚の若い女官は全員参加できるように人繰りをします。あとで希望者をまとめて届け出てください」
「ありがとうございます!」
そう伝えると、若い女官たちは嬉しそうに表情を和らげた。お互いに笑顔で顔を見合わせている。
そのうちに一人が、何か気づいたようでシュルークの方へ向き直った。ラーメシュという、よく気の回る娘だ。
「女官長はお休みになれないのですか?」
二十代半ばのシュルークも、花祭りで出会いを求める年齢ではあった。立場が上なだけで、下の階級の同じ年齢の女官たちはこれまでも祭りのために休んでいる。だが、シュルークはこの花祭りに参加したことが一度もない。
シュルークの口ぶりが他人事だったので、ラーメシュはもしや自分たちが外出するために女官長が休めないのではないかと懸念したのだろう。ただ、手が足りなくなるから諦めているわけではない。
「休めなくはありませんが、私は花祭りには行きません」
「ご興味がないのですか?」
別の女官が、意外そうな声を上げる。花祭りは未婚の若い女性であれば普通は行きたがるものと認識しているようだ。たしかに、そう認識されるほど参加率はかなり高い。数少ない娯楽でもある。
シュルークは出会いを求めてはいないが、この国の一般常識の範疇として、機会があれば一度ぐらいは見に行っておいた方がいいだろうと、その程度には考えていた。だが、その機会は一生来ないと知っている。
「いいえ。私は皇宮の外へ出られません。外出の申請をしても、理由に関係なく許可が下りないのです」
「え……」
シュルークは事実をそのまま伝えたが、女官たちは聞いてはならないことを尋ねてしまったのだと、顔を強張らせて黙り込んでしまった。
皇宮から出ることを禁じられているのは、基本的に奴隷である。しかしながら、女官になれるのは自由民だけで例外は存在しない。仮にシュルークの身分が奴隷だったとしたら、女官なわけがないのだ。だが、自由民の勤労者ならば、申請しての休暇と外出は当然に認められているはずである。
そもそも、奴隷でも何らかの理由があれば、付き添いを伴って普通に外出している。例えば後宮の女奴隷たちは、ごくたまにであるが気晴らしとして避暑地などへ旅行に連れていってもらうことがある。
だから、この皇宮に一切外出できない人間など存在しないはずなのだ。
何か事情がある。ただ、軽々しく尋ねてよいことではないのは明白だ。女官たちは、どう受け答えしたものかと居心地悪そうにするしかない。
その沈黙を破ったのは、やはり感情を見せないシュルークだった。
「あなた方が気に留めることでも、考えるべきことでもありません。仕事へ戻りなさい」
「は、はい。失礼いたします」
それは、若い女官の少し無遠慮な質問をする軽挙や、聞いたからには何か言葉をかけねばという形ばかりの同情を切り捨てる言葉だった。
女官たちが全てを察したのか、シュルークに拒絶の意図があったのかは不明だが、自分たちのすべきことを思いだした娘たちは、慌てて執務室を出ていった。
「女官長、花祭のことでご相談があって参りました」
「はい」
壁面に窓の三つある実用重視の石壁の部屋で、耐久性は間違いなさそうな飾り気のない書架や机などが設置されている。豪奢に装飾された皇宮ではあるが、皇族や客人の立ち入らない裏方は、飾る必要もないのでこんなものだ。
その執務室で、壁に向かって置かれた机で書き物をしていたシュルークは、手を止めて入室してきた彼女たちを振り返った。
若い女官たちは、帽子の前側の薄布を上げていて、顔を隠していない。あれは皇帝の前で下ろす必要があるものなので、普段はたいがいの女官が素顔で歩き回っている。隠していることが多いシュルークも、室内で書き物をしていたので今は彼女らと同様に薄布を上げていた。
緊張した面持ちの彼女たちに対し、シュルークは常よりもう少しだけ口角を上げて見せた。一応、話しやすいようにという配慮である。シュルークは基本的に表情がない。だが、表情が対話や対人関係に影響することは理解していた。だから、必要そうだと判断した時には、意識的に笑顔を作っている。
いつも無表情かそもそも顔を隠している女官長の薄い微笑に、女官たちは少し安心したようで続きを話し始めた。
「未婚の女官同士で話し合っているのですが、花祭りの当日、数名だけでもお休みをいただけないでしょうか……」
花祭りとは、市街で行われる主に未婚の比較的年若い女が好んで参加する祭りである。祭りの参加者同士で花を一輪ずつ交換しあう。良縁に恵まれる祝福が与えられるという。それだけでなく、実質的に若い男女の出会いの場でもある。結婚相手は、家族の紹介か花祭りで出会った人のどちらかである場合が圧倒的に多い。
未婚の若い女官全員が休むとそれなりに手痛いが、皇宮で何か催しがあるわけでもないので、祭りに参加しない既婚者や年かさの女官だけでどうにか仕事は回る。
他の女官たちも、せっかくの娯楽や出会いだから、過去に自分たちも参加させてもらったから、といった理由で彼女らの休暇に賛成している。
「毎年のことですから、遠慮は不要です。未婚の若い女官は全員参加できるように人繰りをします。あとで希望者をまとめて届け出てください」
「ありがとうございます!」
そう伝えると、若い女官たちは嬉しそうに表情を和らげた。お互いに笑顔で顔を見合わせている。
そのうちに一人が、何か気づいたようでシュルークの方へ向き直った。ラーメシュという、よく気の回る娘だ。
「女官長はお休みになれないのですか?」
二十代半ばのシュルークも、花祭りで出会いを求める年齢ではあった。立場が上なだけで、下の階級の同じ年齢の女官たちはこれまでも祭りのために休んでいる。だが、シュルークはこの花祭りに参加したことが一度もない。
シュルークの口ぶりが他人事だったので、ラーメシュはもしや自分たちが外出するために女官長が休めないのではないかと懸念したのだろう。ただ、手が足りなくなるから諦めているわけではない。
「休めなくはありませんが、私は花祭りには行きません」
「ご興味がないのですか?」
別の女官が、意外そうな声を上げる。花祭りは未婚の若い女性であれば普通は行きたがるものと認識しているようだ。たしかに、そう認識されるほど参加率はかなり高い。数少ない娯楽でもある。
シュルークは出会いを求めてはいないが、この国の一般常識の範疇として、機会があれば一度ぐらいは見に行っておいた方がいいだろうと、その程度には考えていた。だが、その機会は一生来ないと知っている。
「いいえ。私は皇宮の外へ出られません。外出の申請をしても、理由に関係なく許可が下りないのです」
「え……」
シュルークは事実をそのまま伝えたが、女官たちは聞いてはならないことを尋ねてしまったのだと、顔を強張らせて黙り込んでしまった。
皇宮から出ることを禁じられているのは、基本的に奴隷である。しかしながら、女官になれるのは自由民だけで例外は存在しない。仮にシュルークの身分が奴隷だったとしたら、女官なわけがないのだ。だが、自由民の勤労者ならば、申請しての休暇と外出は当然に認められているはずである。
そもそも、奴隷でも何らかの理由があれば、付き添いを伴って普通に外出している。例えば後宮の女奴隷たちは、ごくたまにであるが気晴らしとして避暑地などへ旅行に連れていってもらうことがある。
だから、この皇宮に一切外出できない人間など存在しないはずなのだ。
何か事情がある。ただ、軽々しく尋ねてよいことではないのは明白だ。女官たちは、どう受け答えしたものかと居心地悪そうにするしかない。
その沈黙を破ったのは、やはり感情を見せないシュルークだった。
「あなた方が気に留めることでも、考えるべきことでもありません。仕事へ戻りなさい」
「は、はい。失礼いたします」
それは、若い女官の少し無遠慮な質問をする軽挙や、聞いたからには何か言葉をかけねばという形ばかりの同情を切り捨てる言葉だった。
女官たちが全てを察したのか、シュルークに拒絶の意図があったのかは不明だが、自分たちのすべきことを思いだした娘たちは、慌てて執務室を出ていった。
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