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解決編
70:皇后(3)
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「ここからが長い本番だ。国はシグが攻めれば落ちるが、人心を根から変えるのはいつ終わるかわからない。俺たちが生きているうちには間に合わないかもしれないが、これからは可能な限り長く国を安定させ、国民と向き合っていく。もちろん俺だけでなく、この悪魔と呼ばれた皇帝陛下が先頭に立ってな」
「民衆が怯える」
「なら俺のように目を隠せ。もう人探しは不要だろう」
シヒスムンドは不満げだが、元々周囲を怯えさせてでも金色の目を隠さずにいたのは、自分の魔力の効かない人間を探すためだったそうだ。メルセデスを唯一と思ってくれているのであれば、これからは隠しても問題はないということだろう。
「さて、国の安定のためには、まずシグの心の安寧が必要だと思わないか? メルセデス。皇帝が常に不機嫌そうでは、ただでさえ瞳の魔力があるのに、余計な敵を作る」
「はい……」
急に水を向けられて、メルセデスは気のないような返事しかできなかったが、言わんとすることはわかった。
魔力を発現して以来怯えの混じる視線を受け続けた、親友のダビドでさえ例外でないシヒスムンドが、どれほど孤独を感じていたか、理解している。長らく大陸統一のために自分を犠牲にし続ける強靭な意志を持ちながら、よりによって元は敵のメルセデスを求めてしまうほど、魔力に邪魔されず人としての情を普通に交わせる存在を欲していた。
幼い頃には愛された記憶があり、しかしそれ以来全く与えられずにいた孤独は、メルセデスも同じだ。日々乾燥したまま、ただ死なないためだけに生き、何にも心を動かされなかった王国での暮らし。元はそうでなかったからこそ、強く孤独を感じる。そして彼に癒されたからこそ、一層あの孤独へ戻ることの辛さがわかってしまう。
「私にできることがあれば、そうしたかったです。でも、ここで私にできることは、……ありません」
シヒスムンドと共にいられたらと、何度も思った。それはメルセデスが彼を愛しているからでもあるが、何より、彼の悲痛な孤独が、自分が隣にいることで僅かでも癒えれば、という願いからだ。
二人だけの世界であれば、その思いのままに生きて完結する。だが、その行動は、メルセデスによる虐殺を知る国民には受け入れられない。シヒスムンドとダビドのこれまでを損なってしまう。
目を伏せて手を握りしめる。
それを掴み、メルセデスに顔を上げさせたのは、真剣な表情のシヒスムンドだった。
「国民が拒まなければ……、お前も望んでいるのであれば、なんでもできるか」
「その最初の条件が、ありえないのです」
「それが、一つあるんだ。メルセデス」
驚いてダビドを見れば、冗談ではなさそうな、自信ありげな笑みを浮かべていた。
「愛妾メルセデスは、一年前に皇帝暗殺を防いだ際、刺客の凶刃をわずかに受けていたが気がつかず、その後刃に塗られた毒が元で急死。これはそのままにする。代わりに君を新たな愛妾として迎える」
「は……?」
理解が追いつかず、シヒスムンドへ顔を向けると、彼も説明を加える。
「俺は最後の国を落とした際、新たな愛妾を連れ帰らなかった」
「どこの誰かもわからない人間を後宮へ迎えることは、誰も気にしなくなるほど、これまで多くの前例を作ってきた。今回の新たな愛妾が、やはり素性が知れずとも問題はない」
「まさか……」
ダビドの笑みの意味が分かった。最初から、彼はこうするつもりで策を練っていたのだ。
もはやシヒスムンドが手放せないメルセデスを国民へ受け入れさせるために、別人として迎えればよいと思い至った。だから、メルセデスの新天地には、同じような環境の帝国内の町ではなく、最後に落とす予定の他国にした。メルセデスは一年前から、ダビドの手の平の上にいた。シヒスムンドがメルセデスの出奔に矛を収めたのは、その説明を受けたからだった。
「ですが、私だと、見抜かれてしまいます」
たったの一年前にいた愛妾だ。戦勝祝いの夜会は短い時間だったため問題ないかもしれないが、後宮の大勢はメルセデスの顔を覚えている。
「見抜く人間はいない」
「実はな、メルセデス。君は今、後宮のたった一人の愛妾なんだ」
「どういうことでしょうか?」
総勢四十名の愛妾がいたではないか。
しかし、確かに後宮は静まり返っているような気がする。
「元からそうするつもりだったのだが、後宮を整理した。文科局に、文化交流と相互理解のために各地の公共機関等の人が集まる場所へ赴いて、講演や情報発信を行う部門を新設した。愛妾の内、希望者には、後宮を辞してそこへ勤めてもらった。彼女らは後宮での活動を物理的に不自由に感じていたから、ようやく好きなことに心行くまで打ち込めると、喜んで出て行った。残ったのは帝国出身の愛妾たちだが、彼女らはまだ皆年若かったし、十分に謝礼を支払って実家へ帰っていただいた。文化面での大陸統一に少なからず貢献したという栄誉も与えたし、嫁ぎ先も見つけておいたし、不満は少なかった。何より――」
薄布で見えはしないが、ダビドはちらりとシヒスムンドのほうへ視線を投げたような間を取った。
「シグが誠意をもって一人一人の目を見て説明したから、誰も彼の女として後宮に残りたいと言い出さなかった」
メルセデスが後宮にいた頃、シヒスムンドの目を見たことのある愛妾は、心底彼が恐ろしいようだった。彼女らは、こちらが皇帝だと知っていれば、後宮へ入ろうとすら思わなかっただろう。
誰も皇帝を愛していないがゆえに、後宮は綺麗に片付いてしまった。
「もともと君専属の侍女たちは相性が良かったようだから残したが、他の侍女はたった一人の愛妾のために置いておくには多すぎるから、異動か転職させた」
彼女たちは秘密を守ってくれる、ということだろう。
「国民には、お前のことは存在しか伝わっていない。誰も顔を知らない。王国から来たときに兵士には見られているが、あの時とはかなり変わっているから、ほとんど気づかないだろう」
「民衆が怯える」
「なら俺のように目を隠せ。もう人探しは不要だろう」
シヒスムンドは不満げだが、元々周囲を怯えさせてでも金色の目を隠さずにいたのは、自分の魔力の効かない人間を探すためだったそうだ。メルセデスを唯一と思ってくれているのであれば、これからは隠しても問題はないということだろう。
「さて、国の安定のためには、まずシグの心の安寧が必要だと思わないか? メルセデス。皇帝が常に不機嫌そうでは、ただでさえ瞳の魔力があるのに、余計な敵を作る」
「はい……」
急に水を向けられて、メルセデスは気のないような返事しかできなかったが、言わんとすることはわかった。
魔力を発現して以来怯えの混じる視線を受け続けた、親友のダビドでさえ例外でないシヒスムンドが、どれほど孤独を感じていたか、理解している。長らく大陸統一のために自分を犠牲にし続ける強靭な意志を持ちながら、よりによって元は敵のメルセデスを求めてしまうほど、魔力に邪魔されず人としての情を普通に交わせる存在を欲していた。
幼い頃には愛された記憶があり、しかしそれ以来全く与えられずにいた孤独は、メルセデスも同じだ。日々乾燥したまま、ただ死なないためだけに生き、何にも心を動かされなかった王国での暮らし。元はそうでなかったからこそ、強く孤独を感じる。そして彼に癒されたからこそ、一層あの孤独へ戻ることの辛さがわかってしまう。
「私にできることがあれば、そうしたかったです。でも、ここで私にできることは、……ありません」
シヒスムンドと共にいられたらと、何度も思った。それはメルセデスが彼を愛しているからでもあるが、何より、彼の悲痛な孤独が、自分が隣にいることで僅かでも癒えれば、という願いからだ。
二人だけの世界であれば、その思いのままに生きて完結する。だが、その行動は、メルセデスによる虐殺を知る国民には受け入れられない。シヒスムンドとダビドのこれまでを損なってしまう。
目を伏せて手を握りしめる。
それを掴み、メルセデスに顔を上げさせたのは、真剣な表情のシヒスムンドだった。
「国民が拒まなければ……、お前も望んでいるのであれば、なんでもできるか」
「その最初の条件が、ありえないのです」
「それが、一つあるんだ。メルセデス」
驚いてダビドを見れば、冗談ではなさそうな、自信ありげな笑みを浮かべていた。
「愛妾メルセデスは、一年前に皇帝暗殺を防いだ際、刺客の凶刃をわずかに受けていたが気がつかず、その後刃に塗られた毒が元で急死。これはそのままにする。代わりに君を新たな愛妾として迎える」
「は……?」
理解が追いつかず、シヒスムンドへ顔を向けると、彼も説明を加える。
「俺は最後の国を落とした際、新たな愛妾を連れ帰らなかった」
「どこの誰かもわからない人間を後宮へ迎えることは、誰も気にしなくなるほど、これまで多くの前例を作ってきた。今回の新たな愛妾が、やはり素性が知れずとも問題はない」
「まさか……」
ダビドの笑みの意味が分かった。最初から、彼はこうするつもりで策を練っていたのだ。
もはやシヒスムンドが手放せないメルセデスを国民へ受け入れさせるために、別人として迎えればよいと思い至った。だから、メルセデスの新天地には、同じような環境の帝国内の町ではなく、最後に落とす予定の他国にした。メルセデスは一年前から、ダビドの手の平の上にいた。シヒスムンドがメルセデスの出奔に矛を収めたのは、その説明を受けたからだった。
「ですが、私だと、見抜かれてしまいます」
たったの一年前にいた愛妾だ。戦勝祝いの夜会は短い時間だったため問題ないかもしれないが、後宮の大勢はメルセデスの顔を覚えている。
「見抜く人間はいない」
「実はな、メルセデス。君は今、後宮のたった一人の愛妾なんだ」
「どういうことでしょうか?」
総勢四十名の愛妾がいたではないか。
しかし、確かに後宮は静まり返っているような気がする。
「元からそうするつもりだったのだが、後宮を整理した。文科局に、文化交流と相互理解のために各地の公共機関等の人が集まる場所へ赴いて、講演や情報発信を行う部門を新設した。愛妾の内、希望者には、後宮を辞してそこへ勤めてもらった。彼女らは後宮での活動を物理的に不自由に感じていたから、ようやく好きなことに心行くまで打ち込めると、喜んで出て行った。残ったのは帝国出身の愛妾たちだが、彼女らはまだ皆年若かったし、十分に謝礼を支払って実家へ帰っていただいた。文化面での大陸統一に少なからず貢献したという栄誉も与えたし、嫁ぎ先も見つけておいたし、不満は少なかった。何より――」
薄布で見えはしないが、ダビドはちらりとシヒスムンドのほうへ視線を投げたような間を取った。
「シグが誠意をもって一人一人の目を見て説明したから、誰も彼の女として後宮に残りたいと言い出さなかった」
メルセデスが後宮にいた頃、シヒスムンドの目を見たことのある愛妾は、心底彼が恐ろしいようだった。彼女らは、こちらが皇帝だと知っていれば、後宮へ入ろうとすら思わなかっただろう。
誰も皇帝を愛していないがゆえに、後宮は綺麗に片付いてしまった。
「もともと君専属の侍女たちは相性が良かったようだから残したが、他の侍女はたった一人の愛妾のために置いておくには多すぎるから、異動か転職させた」
彼女たちは秘密を守ってくれる、ということだろう。
「国民には、お前のことは存在しか伝わっていない。誰も顔を知らない。王国から来たときに兵士には見られているが、あの時とはかなり変わっているから、ほとんど気づかないだろう」
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