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人間編

54:嫌ではない(3)

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 シヒスムンドは、メルセデスが自らに課した義理を果たす必要はなく、嫌なことを拒絶しても良いと理解できるように、言い聞かせた。

 支度を終えると、シヒスムンドは秘密の通路の中へ立ち、黒い外套を羽織る。

 メルセデスは戸惑いながらも、扉の前でシヒスムンドを見送ろうとしている。こんなことがあっても、まだ親のようには慕ってくれているのかもしれない。
 それが一層シヒスムンドを苛む。いつか彼女に言い放ったとおりだ。

『お前の好意と、同じものは俺にない』

 大きく分ければ好意の類かもしれない。だが、メルセデスの清廉な思慕とは違う。シヒスムンドが抱いているのは、孤独を慰めてくれる存在を手に入れたいと逸る、煮え滾る泥のような欲望だ。

「嫌がっているのもわからずに、無理強いして悪かった……」

 どうしても顔を見られなくて、背を向けたままの謝罪になってしまった。

 押さえの椅子をどけられた扉は、音もたてずにゆっくりと閉じていく。
 このような言い逃げとは、シヒスムンドは情けなくて一層惨めな気分になる。

「私は――」

 徐々に閉まっていく扉の隙間から、メルセデスのはっきりとした返事が投げかけられる。

「嫌ではありませんでしたが」
「……は?」

 思わず振り向いたのと、扉が閉まり切るのは同時だった。




 秘密の通路を通って後宮から戻ってきたシヒスムンドは、見るからに意気消沈していた。

 帰ってくるなりソファに座り込んで、目元を覆って俯き、駄目押しに深いため息をついている。泣いてはいなさそうだ。

「話なら聞くぞ」

 ダビドは対面で座って、シヒスムンドの反応を待った。一向に顔を上げないが、この様子が憐れすぎるので催促せず気長に待つ。

 やがてシヒスムンドは覇気のない声を零し始めた。

「ここへ戻ってくるまでの間……、分かれ道に差し掛かるたび……、逆の道へ行ってしまいたいと思った……」
「死ぬな」

 秘密の通路で、二人は皇帝の居室と後宮の一室をつなぐ道順しか知らない。それを外れるということは、永遠に戻れず死へ直結する。

「……だめだが嫌ではないとは、どういう意味だ?」

 もう終わりだとぶつぶつ呟くシヒスムンドを根気よく励まし、ようやくほんの少し手がかりを聞き出した。

 当然メルセデスとの間に何か起きたのだろうが、詳細を聞いて助言してしまっては、シヒスムンドが成長しない。彼は男女の心の機微についてはあまりに経験値が少ない。メルセデスのことに限っては、ダビドはシヒスムンドになるべく自分で考えて、彼女を思いやって行動し、成長してほしいと考えている。

(まぁ、おそらくまだ早かったのに、勝手に口づけたとかだろう)

「口づけられて、嫌がっていたか?」
「いや、教えると結構積極的だったように思う」

 シヒスムンドが見誤っていないのであれば、嫌がってはいなかったが、彼がその次の段階へ性急に進もうとしたのか。こんな図体の男にいきなり体を触られては、身の危険を感じて当たり前だ。

「何がいけなかったのか、尋ねたか?」
「いや……。それどころではなかった」
「遠征まで後一度くらいは会いに行けるだろう。落ち着いてよく話してこい」

 これが成熟した男ならダビドは、尋ねず察しろと言い放つが、シヒスムンドにそれは無理だと承知している。あきらめてメルセデスに聞くよう促した。

 拒絶されて気が動転するとは、本当にメルセデスに惚れていて、そしてその気持ちを抱くことを受け入れたということだ。
 シヒスムンドにとっては芳しくない状況にあるものの、彼が自分を少し許せたようで、ダビドは内心喜んでいた。
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