【R-18】【完結】魔女は将軍の手で人間になる

雲走もそそ

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人間編

42:覚悟(1)

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 シュザンヌから封筒と便せんを譲り受け、シヒスムンドとは頻繁に会っているため改まって伝えることはないが、貰った手前使うべきかと思い机へ向かった。そこで、メルセデスはあて先の名前を知らないことに気がついた。

 たしかイグナシオ将軍といったが、正式な名前は知らない。将軍閣下と呼べば事足りるので、知る必要もなかった。
 侍女に尋ねれば教えてくれただろうし、なんなら女官に託せばいいので、宛名を書かずとも届く。

 ただメルセデスは、本人から教えてほしかった。

「ああ……。リカルド・シヒスムンド・イグナシオだ」

 シヒスムンドはメルセデスの用意した紙にも書いてくれた。彼の厳めしい見た目にそぐわぬ流麗な筆跡だ。

「ありがとうございます」

 それが価値のあるものに思えて、メルセデスは名前の書かれた紙を大事にしまおうとした。だがそれは手で制される。

「この部屋に俺の書いた字を残していくのはまずい」
「確かにおっしゃるとおりです」

 メルセデスの字ではないメモがあれば、侍女たちにいぶかしがられる可能性がある。これを持っておけないのは残念だった。

「書き写すのはよろしいですか?」
「それなら、いいだろう」

 つづりを覚えておけないので頼むと、それは許可された。

 メモを持って文机に向かい、ランプに明かりを灯し、新しい紙にお手本を見ながら書き写していく。
 最後に間違いがないか両方を見比べようとしたところで、気配を感じたので振り返る。椅子の後ろにシヒスムンドが立っていて、メルセデスの手元を見下ろしていた。

 ぐっと体が近づいてきて、メルセデスの肩越しに手が伸び、書いたばかりの文字を指さす。その拍子にシヒスムンドの、何に似ているかわからないが落ち着く匂いがふわりと届く。

「ここ、一つ抜けている」
「本当ですね」

 もう一度書き直した。

「これでいかがですか?」
「問題ない」

 元々マリエルヴィと帝国で言語や字にほとんど違いはない。間違えたのは、その名前の表記に選ばれている字が、祖国と帝国で若干異なっていたからだ。

「ありがとうございました」

 お手本をシヒスムンドに返す。
 形に残る大事な物は、母と共に失ってしまった。だからメルセデスの持つ残りの大事な物は、すべて記憶の中だけにある。今日教えてもらったこの名前も、その一つになり、これから何度も思い出すはずだ。

 そういえば、話していないことがあったと、メモをしまい込もうとするシヒスムンドに、座ったまま話しかける。
 先ほど体が近づいた際に香った彼の匂いで思い出した、先日抱き締められた時のこと。

「以前、なぜ私へ口づけされたのですか?」

 シヒスムンドの動きが止まり、メモがその手を離れて床に落ちた。
 動かない彼に代わり、椅子から立ったメルセデスはそれを拾い上げる。

「どうぞ」
「ああ……」

 ようやくメモを懐へ納められたシヒスムンドだが、まだ返答を考えているようで、言葉は続かない。
 その晴れない表情からも、以前の推測通りあの口づけは親愛の類ではなかったのだと、メルセデスは内心落胆した。

「あれは……、あれは、お前の反応が……。面白くて、からかっただけだ」

 悩みぬいた末のように選ばれた言葉は、メルセデスをさらに気落ちさせた。これも想像した通りだった。
 親しくない相手との身体的接触は不快感を伴う。シヒスムンドはメルセデスが嫌がることを期待してああしたのだ。

 もとより嫌われているのだから、それ以外に理由はないはずだったが、それでもメルセデスは自分が傷ついているのがよくわかった。先ほど名前を教えてもらえたことによる温かい気持ちが冷えていき、手枷が重さを増したように感じる。

 だが、彼に嫌われているかどうかと、メルセデスが恩を受けて彼を慕っているのは別の問題だ。

「そうですか……。では、あれでは閣下への貢献にならなかったのですね」

 あれがただのメルセデスへの嫌悪感の表れだったのなら、シヒスムンドの役に立つことではなかったということだ。吐き捨てられた言葉と同じ。彼の溜飲は下がれど何も成さない。

「何をすればいいですか。どうすればあなたにとってよいことになりますか」
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