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人間編
31:感謝(2)
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魔女であったことを、忘れたい。
「これを望めたことすら、私には奇跡なのです。帝国が王国を侵略しなければ、私は心底魔女のままでした。だから――」
メルセデスは、シヒスムンドの足元、外套の裾を、高貴なものに触れるかのような仕草で取り上げ、そっと口づけた。
「心から、感謝しています。一度は帝国へ歯向かった私を、見出してくださったことに」
シヒスムンドはメルセデスを凝視したまま言葉を失っている。
メルセデスはその間を、戸惑っているのだと考えた。
「これは、マリエルヴィでの、最大限の謝意を示す作法です」
説明をしてもなお、信じがたいものを見るように眉間に皺をよせている。
「謝意……だと? 謁見の間から引きずり出して無体を働き、命と引き換えに手枷をはめてここへ放り込んだ男にか」
やがて絞り出された言葉は、メルセデスの真意を探るものだった。
メルセデスはシヒスムンドを見つめて、できるだけ心を込めて、気持ちが伝わるようにと願いながら言葉を紡ぐ。
「むしろその方が良かったのです。ただ後宮へ迎えられるより、脅され連行された方が、あの場の兵士たちの溜飲はわずかでも下がったでしょう。この手枷も、必要なものでした。皆さんが私を恐れないように」
「俺はお前を利用している。この先お前に危険が迫っても、何かを費やしてまで助ける必要はないと思っている。それでもか?」
シヒスムンドの低く強い言葉が、なぜか縋るような声音に聞こえた。
「はい。あなたがどうお考えでも、結果として、私には報酬を得られる機会を与えてくださいました。それに、閣下は私の命をもう二度も救ってくださっています。既に身に余ることです」
「二度?」
「火事の時と、王国にいた時です」
苛立たしげなため息をつかれるが、メルセデスはなんとなく、シヒスムンドが腹を立てているのではないと感じていた。
「俺は、死ぬか愛妾になるか選ばせた。それは救ったとは言わん」
「いいえ。混乱していて思い至りませんでしたが、もし、法に則り私が無罪放免とされて、帝国兵にもそれを呑み込ませてくださったとしても、解放された途端、魔女と告発された私は王国の民衆の手で火あぶりにされていました。だから、脅して攫ってきたのかもしれなくても、あなたは、私の命も、心も救って、私を人間にしてくれたのです」
金色の瞳がメルセデスを見つめて揺れるが、やがて瞼を閉じ顔を背けられた。
(信じてもらえなかった……)
シヒスムンドに、何も伝わらないまま、また誤解を受けてしまう。
王国では戦禍を招いた魔女と誹謗され、帝国では王太子と共謀した悪女と非難を受け、誰にも真実が伝わらなくても構わなかった。しかし、メルセデスを救ってくれたシヒスムンドにだけは、自分がどれほど感謝しているのか、それを疑われたくない。
「目を、私の目を見てください。嘘ではないのです」
このまま帰ってしまうのではと焦り、引き留めようととっさに外套の膝のあたりを掴む。
その手が、シヒスムンドの武骨な手に取りあげられた。
「疑っているのではない。……俺が耐えられんのだ」
腰を落としたシヒスムンドは、メルセデスの手を引いて立ち上がらせる。そして目を逸らしたまま、深く息をついた。
「これを望めたことすら、私には奇跡なのです。帝国が王国を侵略しなければ、私は心底魔女のままでした。だから――」
メルセデスは、シヒスムンドの足元、外套の裾を、高貴なものに触れるかのような仕草で取り上げ、そっと口づけた。
「心から、感謝しています。一度は帝国へ歯向かった私を、見出してくださったことに」
シヒスムンドはメルセデスを凝視したまま言葉を失っている。
メルセデスはその間を、戸惑っているのだと考えた。
「これは、マリエルヴィでの、最大限の謝意を示す作法です」
説明をしてもなお、信じがたいものを見るように眉間に皺をよせている。
「謝意……だと? 謁見の間から引きずり出して無体を働き、命と引き換えに手枷をはめてここへ放り込んだ男にか」
やがて絞り出された言葉は、メルセデスの真意を探るものだった。
メルセデスはシヒスムンドを見つめて、できるだけ心を込めて、気持ちが伝わるようにと願いながら言葉を紡ぐ。
「むしろその方が良かったのです。ただ後宮へ迎えられるより、脅され連行された方が、あの場の兵士たちの溜飲はわずかでも下がったでしょう。この手枷も、必要なものでした。皆さんが私を恐れないように」
「俺はお前を利用している。この先お前に危険が迫っても、何かを費やしてまで助ける必要はないと思っている。それでもか?」
シヒスムンドの低く強い言葉が、なぜか縋るような声音に聞こえた。
「はい。あなたがどうお考えでも、結果として、私には報酬を得られる機会を与えてくださいました。それに、閣下は私の命をもう二度も救ってくださっています。既に身に余ることです」
「二度?」
「火事の時と、王国にいた時です」
苛立たしげなため息をつかれるが、メルセデスはなんとなく、シヒスムンドが腹を立てているのではないと感じていた。
「俺は、死ぬか愛妾になるか選ばせた。それは救ったとは言わん」
「いいえ。混乱していて思い至りませんでしたが、もし、法に則り私が無罪放免とされて、帝国兵にもそれを呑み込ませてくださったとしても、解放された途端、魔女と告発された私は王国の民衆の手で火あぶりにされていました。だから、脅して攫ってきたのかもしれなくても、あなたは、私の命も、心も救って、私を人間にしてくれたのです」
金色の瞳がメルセデスを見つめて揺れるが、やがて瞼を閉じ顔を背けられた。
(信じてもらえなかった……)
シヒスムンドに、何も伝わらないまま、また誤解を受けてしまう。
王国では戦禍を招いた魔女と誹謗され、帝国では王太子と共謀した悪女と非難を受け、誰にも真実が伝わらなくても構わなかった。しかし、メルセデスを救ってくれたシヒスムンドにだけは、自分がどれほど感謝しているのか、それを疑われたくない。
「目を、私の目を見てください。嘘ではないのです」
このまま帰ってしまうのではと焦り、引き留めようととっさに外套の膝のあたりを掴む。
その手が、シヒスムンドの武骨な手に取りあげられた。
「疑っているのではない。……俺が耐えられんのだ」
腰を落としたシヒスムンドは、メルセデスの手を引いて立ち上がらせる。そして目を逸らしたまま、深く息をついた。
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