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魔女編
14:悪いこと(1)
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あの日の夜。
下働きの娘メルセデスは、月明かりを頼りに、城の炊事場の裏手で井戸から水を汲み上げていた。
帝国から宣戦布告を受けて対応に追われる城内も、夜中には静まり返っている。まだ帝国軍はこの国へ足を踏み入れてすらいないのだ。夜にわざわざ騒いでも意味がない。
メルセデスは下働きの中であまりいい立場とは言えなかった。辛い仕事はメルセデスに優先的に回ってくるし、先輩の憂さ晴らしに使われるし、個人的な用事も押し付けられる。この水汲みも、先輩の下働きの女に命じられたもので、蒸し暑い夜だから冷たい井戸水を汲んで来いとのことだ。
「持っていく間にぬるくなるのに……」
不満を一人つぶやくが、面と向かって抵抗はしない。怪我をするようなことはされていないし、大人しくしていればこれ以上の面倒にはならない。
水桶を抱えると、メルセデスはあまり足音を立てないように気をつけながら、そっと早歩きで宿舎へ戻る。
通るのは、王族や家臣の通る表側の通路ではなく、建物の裏手だ。正式に用事を言いつけられてもいないのに、下働きが人目につく表側を通ることは許されていない。それに、表側を通ると警備で巡回している兵士に出くわす可能性が高い。彼らには表を通っていることを見とがめられるだけでなく、人によっては卑猥な言葉を投げかけられたり、体を触られたりするので会いたくない。
食糧庫の裏手に差し掛かった時、表から人の話し声が聞こえた気がして、瞬時に体を静止した。そっと建物の陰から表側をうかがう。余計に動くより、待ってやり過ごしたい。
「……」
明かりも持たずに、人が二人立ち話をしている。暗いため詳しくは見えないが、どちらも男のようだ。
月の出ている夜とはいえ、明かりを持っていないのは不思議だった。メルセデスは建物の陰に隠れたまま、耳をそばだてる。
「……これで最後になりそうだな。確かに預かった。お前の曇り空の色の目のおかげで順調だったよ」
何かを一方が受け取って懐へしまう。
「半年間長かった。この国は冬は極寒で夏は涼しいんだが、それが彼らにとっての普通だから、冬は寒がり過ぎないようにしないといけないし……」
「容姿は似ていても、体質は別の場所で生まれた以上、どうにもならないからな。まぁ、愚痴は帰ったら聞いてやるさ。……じゃあそろそろ」
「ああ。この国が我らが帝国の手中に落ちるまでの辛抱だ。よろしくな」
何かを受け取った方が、もう一方の肩を叩いてから、静かに立ち去る。
メルセデスはその会話から彼らの正体に感づいた。一方は間諜で、この城に半年前から潜入している。もう一方は、その間諜から得た情報を持ち帰る役だ。
誰かに伝えなくては。
「……!」
その時、残った男がこちらを振り返った。すぐに顔をひっこめたが、手にした桶の水が、ちゃぷ、と音を立ててしまった。
「誰だ!」
抑えた鋭い声。駆け寄る音が迫る。
逃げなくては。
水桶を投げ捨て、メルセデスはつんのめりながら来た道を戻りかける。
でも、表へ行った方が誰かに助けてもらえるのでは。
一瞬判断に迷ったのが命取りだった。
「あっ!」
背後から突き飛ばすように、地面へ押し倒された。
すぐさま肩を引かれて、仰向けにされる。
「だ……!」
誰か、と叫ぼうとしたが、口元を掴んで押えられ、くぐもった声に変わる。
メルセデスに馬乗りになっているのは、壮年の男だった。
「閣下には無闇に殺すなと言われているが……」
灰色の目の男は悩むような顔でつぶやきながら、懐に忍ばせたナイフを抜き放つ。
「必要あればためらうなとも仰った」
ナイフが振り上げられる。切っ先が夜空の月にかかって、はっきりと見えた。
メルセデスは命の危機に、体を固くする。
「すまない娘。これも我らが帝国と、この国にとっても良いことなんだ……」
よいこと。善い事。
『メルセデス。私たちは善い魔女になるために、この力を善い事だけに使うのよ……』
母の言葉が脳裏に響く。メルセデスを守るために悪い魔女になった母が。
「許せ!」
ナイフがメルセデスの胸に刺さるより先に、彼女の手が、口を押える男の腕を掴んだ。
いや、弾き飛ばした。
「がッ……!」
男は十分に悲鳴を上げることもなく、食糧庫の壁にたたきつけられた。倒れこんだ体は痙攣し、投げ出された左手は血塗れで何節にも無残に曲がり、折れた骨が肉を突き破って露出している。
体を起こしたメルセデスは、自分がたった今殺されかけたことよりも、男の惨状に恐怖した。
とっさに魔力をほんの少しぶつけただけなのに、男の体は吹き飛び、直接触れた腕は無茶苦茶になってしまった。
「あ、あぁ……」
自分を守るために魔力を使ってしまった。これは悪いことだ。メルセデスも、悪い魔女になってしまった。
下働きの娘メルセデスは、月明かりを頼りに、城の炊事場の裏手で井戸から水を汲み上げていた。
帝国から宣戦布告を受けて対応に追われる城内も、夜中には静まり返っている。まだ帝国軍はこの国へ足を踏み入れてすらいないのだ。夜にわざわざ騒いでも意味がない。
メルセデスは下働きの中であまりいい立場とは言えなかった。辛い仕事はメルセデスに優先的に回ってくるし、先輩の憂さ晴らしに使われるし、個人的な用事も押し付けられる。この水汲みも、先輩の下働きの女に命じられたもので、蒸し暑い夜だから冷たい井戸水を汲んで来いとのことだ。
「持っていく間にぬるくなるのに……」
不満を一人つぶやくが、面と向かって抵抗はしない。怪我をするようなことはされていないし、大人しくしていればこれ以上の面倒にはならない。
水桶を抱えると、メルセデスはあまり足音を立てないように気をつけながら、そっと早歩きで宿舎へ戻る。
通るのは、王族や家臣の通る表側の通路ではなく、建物の裏手だ。正式に用事を言いつけられてもいないのに、下働きが人目につく表側を通ることは許されていない。それに、表側を通ると警備で巡回している兵士に出くわす可能性が高い。彼らには表を通っていることを見とがめられるだけでなく、人によっては卑猥な言葉を投げかけられたり、体を触られたりするので会いたくない。
食糧庫の裏手に差し掛かった時、表から人の話し声が聞こえた気がして、瞬時に体を静止した。そっと建物の陰から表側をうかがう。余計に動くより、待ってやり過ごしたい。
「……」
明かりも持たずに、人が二人立ち話をしている。暗いため詳しくは見えないが、どちらも男のようだ。
月の出ている夜とはいえ、明かりを持っていないのは不思議だった。メルセデスは建物の陰に隠れたまま、耳をそばだてる。
「……これで最後になりそうだな。確かに預かった。お前の曇り空の色の目のおかげで順調だったよ」
何かを一方が受け取って懐へしまう。
「半年間長かった。この国は冬は極寒で夏は涼しいんだが、それが彼らにとっての普通だから、冬は寒がり過ぎないようにしないといけないし……」
「容姿は似ていても、体質は別の場所で生まれた以上、どうにもならないからな。まぁ、愚痴は帰ったら聞いてやるさ。……じゃあそろそろ」
「ああ。この国が我らが帝国の手中に落ちるまでの辛抱だ。よろしくな」
何かを受け取った方が、もう一方の肩を叩いてから、静かに立ち去る。
メルセデスはその会話から彼らの正体に感づいた。一方は間諜で、この城に半年前から潜入している。もう一方は、その間諜から得た情報を持ち帰る役だ。
誰かに伝えなくては。
「……!」
その時、残った男がこちらを振り返った。すぐに顔をひっこめたが、手にした桶の水が、ちゃぷ、と音を立ててしまった。
「誰だ!」
抑えた鋭い声。駆け寄る音が迫る。
逃げなくては。
水桶を投げ捨て、メルセデスはつんのめりながら来た道を戻りかける。
でも、表へ行った方が誰かに助けてもらえるのでは。
一瞬判断に迷ったのが命取りだった。
「あっ!」
背後から突き飛ばすように、地面へ押し倒された。
すぐさま肩を引かれて、仰向けにされる。
「だ……!」
誰か、と叫ぼうとしたが、口元を掴んで押えられ、くぐもった声に変わる。
メルセデスに馬乗りになっているのは、壮年の男だった。
「閣下には無闇に殺すなと言われているが……」
灰色の目の男は悩むような顔でつぶやきながら、懐に忍ばせたナイフを抜き放つ。
「必要あればためらうなとも仰った」
ナイフが振り上げられる。切っ先が夜空の月にかかって、はっきりと見えた。
メルセデスは命の危機に、体を固くする。
「すまない娘。これも我らが帝国と、この国にとっても良いことなんだ……」
よいこと。善い事。
『メルセデス。私たちは善い魔女になるために、この力を善い事だけに使うのよ……』
母の言葉が脳裏に響く。メルセデスを守るために悪い魔女になった母が。
「許せ!」
ナイフがメルセデスの胸に刺さるより先に、彼女の手が、口を押える男の腕を掴んだ。
いや、弾き飛ばした。
「がッ……!」
男は十分に悲鳴を上げることもなく、食糧庫の壁にたたきつけられた。倒れこんだ体は痙攣し、投げ出された左手は血塗れで何節にも無残に曲がり、折れた骨が肉を突き破って露出している。
体を起こしたメルセデスは、自分がたった今殺されかけたことよりも、男の惨状に恐怖した。
とっさに魔力をほんの少しぶつけただけなのに、男の体は吹き飛び、直接触れた腕は無茶苦茶になってしまった。
「あ、あぁ……」
自分を守るために魔力を使ってしまった。これは悪いことだ。メルセデスも、悪い魔女になってしまった。
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