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1巻

1-3

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「はぁっ、はっ……ぅ、ふうんっ」

 ここなら誰も来ない。さすがに声が漏れる可能性はあるが、体の疼きを発散することはできる。
 座っていられなくて体を丸く屈め、そのまま石の床に寝転ぶ。ひんやりとした床が心地よかったが、それにうっとりする間もなく、ミシュアルはもどかしく下衣を蹴り脱いだ。
 案の定、下衣の股の部分はぐっしょりと濡れて色を変えていた。上衣の丈の方が長いので人目にはつかなかっただろうが、それでもミシュアルの羞恥をあおるには十分で、その恥ずかしさが更に体に熱をともした。

「んっ、う、うあっ、あ……」

 濡れるだけに飽き足らず、とうとう溢れだしたものが尻の谷間を伝い落ちていく。その感覚にさえ体が震えて、触れてもいないのにミシュアルの勃起は雫を垂らした。
 完全に発情期ヒートと同じ状態だった。
 性欲が抑えきれず、理性をねじ伏せて本能が暴れまわる。肉体はそれに振り回され、相手もいないのに準備を始めてしまうのだ。

「っあは、は、はぁっ」

 熱に狂って暴走する体とは裏腹に、頭の片隅には冷静な自分もいる。
 どれだけ濡れて、どれだけほぐれても、この体を抱く相手はいない。対となったはずの者は姿もわからない。ここにいるのは、一生この疼きを一人で慰めていくのだと、諦めをまとった孤独なオメガだ。
 けれど、今日は違う。握りこんだままのタッセルを鼻に持っていき、すんと浅く吸う。すると、先ほどよりもずっと甘くやわらかな香りになってミシュアルを包んだ。
 まるで誰かに抱きしめられているような安堵感だ。ずっと傍にあったもののように、馴染んだ匂いがする。そして、この匂いの主のために体を開かねばという気持ちがむくむくとわきあがった。

「ああ……もう、こんな――……」

 タッセルに寄り添いながら、脚の間に手を伸ばす。すっかり勃起した陰茎はだらだらと溢れる白濁に濡れ、自分でも気付かないうちに何度か達していたのか、石の床にもまだらに散っていた。それでもまだ自分で擦りあげたいが、もっと指を求めている場所がある。
 しっかりとした筋肉がついた、むっちりとした弾力の奥に手を滑らせると、源泉のように蜜を溢れさせる窄まりがある。そこはすでにほころんで、指の腹をあてるとねっとりと口を開いた。
 普段もそれなりに自慰はするが、陰茎を扱いて処理する程度で、後蕾には触れない。発情期ヒートの時は指を挿入することもあるが、それこそ漏らしたようにここまで濡れることは初めてだった。
 まるで絞めつけることを知らないように開いた中に指を埋めると、ずるずると障害もなく入っていく。動かすと、溢れだした蜜が肌の間でぬちぬちと粘っこい音を立てた。
 一本では足りない。二本、もっと太いもの。でも、ここにはない。あるのは匂いだけだ。
 夢中になって奥をえぐり、熱を孕んでふっくらとした肉壁を責める。すでに手首までびしょ濡れだった。

「はぁっ、はあっ、んーっ……んひ、ひ、ぅんっ」

 ぐずぐずにほぐれた穴は、普段は剣の柄を握るようなしっかりとした指を三本も飲み込む。自分で慰めているうちにここまで拡張できてしまったのも悲しかったが、そんな悲しみも快楽の前ではかすんだ。
 床に置いたタッセルに鼻を寄せ、子犬がするようにくんとかぎながら、ここも、と上衣のあわせに自然と手が伸びた。硬いだけではなく、みっしりとした柔らかさのある胸にぽつんとある粒に指先を滑らせると、それだけでとろりと後蕾から蜜が垂れた。
 どうしてこうなったのだろう。タッセルは拾っただけで、こんなことをするつもりはなかったのに。落とし主に、早く返したいのに。それなのに、こんなにも手放せない。
 混乱と快楽が混ざり合って、どろどろに思考をとかす。それでも自ら乳暈にゅううんごと乳首を摘まんで指先で潰すのをやめられないし、腹の奥はもっと奥を穿ってほしい、もっと大きなもので拡げてほしいと収縮しては淫らな液を次から次へと漏らす。そこに飲み込まれた指も、少しでも強い快楽を得たいと、ぐぱぐぱとはしたない音を立てながら激しくうごめいた。
 いつか、誰かがここを埋めてくれるのだろうか。それともそのうち自制が利かなくなって、金を払って誰かに抱いてもらうようになるのだろうか。
 そんな悲壮な思いとは裏腹に、体だけは急速に高みへと駆け上っていく。
 タッセルの匂いを、すんと嗅いだ。
 優しくて甘いのに、その奥には鼻腔から頭までをすっと通すような紫煙にも似た香りがする。そして、包まれるような雰囲気。そういえば、昨日ラナを訪れたイズディハールも、いい匂いがしていた。
 ――陛下は、どんなオメガをつがいになさるんだろう。
 そんなことを考えると、脳裏に太陽のような金髪をたずさえたイズディハールの姿が鮮やかに浮かび上がった。
 オメガであるミシュアルを慮ってくれたことを感謝しなければいけない。それなのに、記憶の中のイズディハールを探り、その姿が徐々に現在に近づいてくると背すじまでがぞくぞくと震えだして止まらない。

「あっ、あっ、…あっ、はあっ………んあっ、あ、うんん…っ」

 ひと際強く体が強張り、びくびくと肌が震える。足首のあたりから革紐で固定しているために脱げることがなかったサンダルの固い底が、丸まろうとする爪先に引っかかれてカリリと乾いた音を立てた。
 大きな絶頂と入れ替わりに、じっとりとした倦怠感が、石の床に横たわった体に重くのしかかる。
 荒い呼吸をくり返し、そのたびにタッセルの匂いを吸い込む。それでも一度大きく達したことでようやく本能が鎮まったのか、体はあまり反応しなかった。代わりに、ぼんやりした頭でも明確にわかってしまったことから逃げるように、ミシュアルは体を丸めた。
 ――この匂いが、陛下のものならどれほどいいだろう。
 達する瞬間、そう思ってしまった。
 だめだ、となおさら強く体を縮こめる。頭蓋布はいつの間にかはずれ、豊かな黒髪が床に這っていたが、そんなものはどうでもよかった。
 諦めなければと封印した想いが、こんな落とし物ひとつで胸の底から浮上して、その輪郭を明らかにしてくる。
 お前は、決して叶うことのない恋をしているのだと。


        ◇


 王宮から帰宅したミシュアルは、夕食はどうなさいますかと問い掛けてくる家人に部屋で食べるからと返しながら、急いで浴場へ向かった。
 あの自慰のあと、後悔と寂寥にまみれたミシュアルはしばらく石床に横たわっていた。けれども下肢は汚れたままだ。このあとも護衛の任務は続くことを思い出して、控え室に前もって置いていた替えの服に着替えた。不要だと思いつつ、万が一を考えて常備しておいたものだったが、役に立つ日が来た。けれど喜ぶ気力などない。のっそりと着替えて体を適当に拭ったあとは外出から戻ったラナに呼ばれるまで、中庭の人目につかない場所でぼんやりとしていた。
 あのタッセルはどうしようか迷ったものの、どうにも手放しがたく、たたんだ手ぬぐいの中に隠した。家に持ち帰ろうかとも思ったが、手に取ってしまえば匂いに囚われてしまうような気がして、そのまま奥の小部屋に置いてきていた。
 仕事を終えたあとは逃げるように家に帰り、まだかすかに匂いが残る胸元を重点的に洗った結果、肌は赤くなってしまったが匂いは消えた。ほっとしてようやく自室に戻ったミシュアルだったが、棚に置かれた歴史書が視界に飛び込んでくるなり罪悪感に駆られ、倒れこむようにベッドに横になった。
 今日は色々あった。イズディハールに二度も会うことが出来たのは嬉しかったが、あの落とし物を拾ってからは散々だった。
 あの奥の部屋には助けられたが、使いたくはなかった。壁を隔てた向こうには自分の職務を全うしている衛兵たちや、ラナたちがいる。そんな場所で本能に負けて劣情に泣きむせぶなど、恥ずかしいやら情けないやらで消えてなくなりたくなった。
 心も体も疲弊していた。このまま眠ってしまおうかとぼんやりしていたミシュアルだったが、さっきも見た歴史書の重厚な背表紙が目に入り、しばらくそれを眺め、おもむろに起き上がった。
 陽が傾きかけ、部屋の中は薄暗い。その中で本を手に取ったミシュアルは、固い裏表紙をめくり、現れた紙面を撫でた。そこにはミシュアル・アブズマールと書かれている。けれどこれを書いたのはミシュアル本人ではなく、当時十三歳だったイズディハールだ。
 そもそもイズディハールは王族で、ミシュアルは国に仕える将軍を輩出する名家の子どもだ。本来ならば、二人は物心つく前に何かしら顔を合わせる機会があるはずだった。
 実際、ミシュアルが六歳の頃、アブズマール家で開かれた長兄ジュードの結婚の宴で二人は初めて顔を合わせる予定だったのだ。宴には当時の王カリム・ナジム・ナハルベルカと、まだ王子だったイズディハールが招かれており、ミシュアルも会うことを楽しみにしていた。しかし、ちょうど宴の日にミシュアルは高熱を出して寝込んでしまい、結局会うことはできなかった。
 そんなすれ違いを一度挟んで初めて対面したのは、その一年後のこれもまた宴の席だった。当時の王カリムの正妃であり、イズディハールの母であるシーリーンが三人目の子を授かったという慶事があり、その祝いの席に呼ばれた父が、ミシュアルを宮殿へ連れて行ったのだ。
 そこで出会ったイズディハールは十歳の少年で、けれどミシュアルが普段見るような十歳とはやはり違った。
 その頃からすでに体ばかり大きく育ち、引っ込み思案で父の影に隠れて果実を食んでいたミシュアルを見つけ出すと、イズディハールは大人ばかりでつまらないだろうからと、中庭に誘って一緒に遊んでくれた。
 初めて会った、将来お前が仕えるのだと言われている王子の姿にミシュアルはもちろんどきどきしたし、あまり話せなかった。それでもイズディハールは気分を害することもなく、今日出会えたことがとても嬉しかった、だから、僕たちが会えた記念にこれを、と帰り際には飾り紐をくれた。
 紐で紋様を編んだそれは、ミシュアルには何に使うのかわからないのものだった。母に相談したら手首や足首に巻くものだけど、大きいから失くしてしまうかもと言われ、腰紐に絡めてしばらく身に着けていた。どこに行くにもつけているうちに切れてしまったが、今でも自室の棚の中に大切にしまわれている。
 その棚には他にもイズディハールが折に触れてはくれたものが飾られていた。練習しすぎて柄の折れた短剣、愛用していたのにすっかりぼろぼろになってしまったストール、珍しい鳥の羽で作られたペン。その中に、古びた歴史書もしまわれていた。
 これはもともと、ミシュアルが十歳の頃に使っていた教科書だった。それでもイズディハールからもらったものだけを飾るための棚に置いてあるのにはわけがあった。
 例にもれず、ミシュアルは勉強が嫌いな子どもだった。
 体を動かすことが好きで、剣術や馬術の授業の時は喜んで先生を待っていたが、座学の時は部屋から逃げ出したこともあった。
 ある日も逃げ出したが、ちょうど父ファルークに用事があったとかでアブズマール邸を訪れていたイズディハールと出くわした。

「ミシュアル? 今は座学の時間だとファルーク殿から聞いたはずだけど」
「それ……は、あの……」

 逃げ出しはしたものの、その行為が悪いことだとはわかっている。会うたびに遊んでくれ、わからないことを教えてくれるイズディハールにそんな姿を見られたことはさすがに恥ずかしい。言いよどんでいると、あっという間に父に見つかった。

「ミシュアル! お前はまた座学をさぼる気か!」
「ファルーク殿、叱らないであげてください。話をしたいのですが、ミシュアルの座学の時間を私がいただいても?」

 父に叱られ、恥ずかしさに拍車がかかったところで思わぬ助け舟が出た。ミシュアルも父も目を瞬かせたが、あちらを借りますね、と中庭の四阿あずまやに引っ張って行かれた。
 石造りのベンチに腰かけて、イズディハールは、それでと切り出した。

「どうして座学をさぼったんだい?」
「……それは……えっと……」

 全うな理由などあるはずもない。ただ嫌いなだけだ。ミシュアルは将来は軍人になって、国のために戦いたかった。父や兄のように自分も馬を駆り、剣を揮って、ナハルベルカの国民を、ミシュアルの大切な人たちを守りたい。そのために剣術は必要だが、座学は大人しく席について先生の話を聞くばかりで、何も役に立たないと思ったのだ。
 口ごもるミシュアルの頭を、微笑んだイズディハールが撫でた。

「勉強は知識の訓練だよ、ミシュアル。剣も揮えば揮うほど強くなるように、知識も知れば知るほど強大な武器になる。それは将来のためになるんだ」
「軍に入ってもですか?」
「もちろんだ。いつか……そうだね、ミシュアルが軍に入る頃には、私は陛下より譲位されて、即位しているかもしれない。その時、剣の腕はもちろん、私が困った時にお前が培った知識という武器で助けてくれると嬉しい。だめだろうか」
「だっ、だめじゃないです! 俺、あっ、わ、私、頑張ります。殿下が王様になった時、お力になれるように……!」
「じゃあ、そのために座学も頑張ってくれるね?」
「はい!」
「それなら部屋へ戻ろう。先生はまだいるだろう? ちゃんと謝って、これから知恵という武器を授けてくれる人に感謝をするんだ」
「はいっ」

 促されて部屋に戻ると、先生は呆れ顔で待っていた。イズディハールが一緒とわかると目を見開いて驚いていたが、今までの非礼を詫び、これからは真面目にやりますと言うと手をたたいて喜んでくれた。
 そうしてイズディハールは、特にミシュアルが苦手だった歴史の教科書に『ミシュアル・アブズマール』と名前を書いてくれた。

「これは君の本。君の武器になるものだ。しっかりと使って、その武器を磨いてくれ」

 それじゃあ頑張ってと、イズディハールは宮殿へ帰って行った。
 このことがあってから、ミシュアルは座学にも真剣に向き合うようになり、苦手だった歴史はいちばんの得意科目にもなった。
 そして、その頃からイズディハールはミシュアルの憧れになった。
 若木のようなしなやかなたたずまいと、立っているだけで放たれる存在感は見るたびに輝きを増し、いつかこの人に求められるような人になりたいと思った。
 そう思い続けている間にも何度か会う機会があった。そのたびに彼の輝きは増す。だから、いつ憧れが恋に変わったかなど、ミシュアル本人にもわからなかった。
 気付けば彼からもらったものを眺めたり、次はいつ会えるだろうかと焦がれたりした。けれど、想いなど告げられるはずもないまま、あの性徴検査が行われた。
 オメガであるという自分の性徴を突き付けられた日、ミシュアルは軍に入れなくなった。それは今までの努力や、いつかイズディハールの求める人になるのだという憧れが終わった日でもあった。
 更には追い打ちをかけるようにミシュアルにはつがいがいることが判明し、ただのオメガだったならまだしもと、叶うわけがないとわかっていながらも抱え続けていた恋に突きつけられた結末に泣いた。
 やがてラナの後宮ハレム入りが決まり、ミシュアルは完全にイズディハールに対して抱いていた想いを封印しようと思った。
 イズディハールのことは好きだし、ラナも好きだ。それぞれに抱く愛情の形や色は異なるが、それでも二人とも大切な人だ。
 ――やはりこの恋は諦めて正解だった。
 確かにそう思ったはずだったのだ。
 それなのに、落とし物の匂いがイズディハールの匂いと少し似ていた。ただそれだけのことで、胸の奥深くに葬ったはずの想いがあっさりと浮上して、水を得た花のようにふんわりと開いてしまった。この匂いが彼のものだったらいいのにと、しようもない願いさえ抱いてしまった。
 体は誰かの匂いに反応して、淫らな本能を暴き立てられる。
 それなのに、心はいまだ未練がましくイズディハールを追いかけようとしている。
 違う方向を向いた理性と本能の狭間で、ミシュアルは立ち尽くすしかなかった。
 いつの間にか、部屋の中は暗くなっていた。すでに陽は落ち、窓からのぞく空には濃い色をした月が浮かんでいる。
 金色にも見えるほどの鮮やかな月を仰ぎながら、ミシュアルはため息とともに深く目を閉じた。夜陰に沈む部屋を、月明かりだけが静かに照らしていた。



   3


 まるで事故のようだったあの発情を翌日まで引きずったり、そのまま周期が乱れて発情期ヒートに入ってしまったらどうしようと危ぶんだものの、ミシュアルの体は翌朝にはいつもの調子を取り戻していた。
 一時的なものであったことにほっとしながらも、一体なぜという疑問が消えるわけではない。悶々としながらもいつも通り紅玉の宮へ向かい、衛兵としての任務を全うすべく今日もラナの部屋の前で佇んでいたミシュアルは、こらえきれないため息を吐いた。

「はあ……」
「ミシュアル」
「はっ、はいっ」

 肩を落としたところで不意に声がかかり、思わずびくりと体が揺れる。その横をはははと笑いながらラナの歴史学の授業を受け持つ教授が出ていき、次いでラナも出てきた。

「授業終わったの。お茶にするから、中に入って」
「ああ……はい」

 すでに部屋の中は片付けられ、ラナが勉強の時だけ使っている低いテーブルなどは寄せられている。丸い絨毯のうえに座ったラナは、ここに座ってちょうだい、と自分の目の前を指した。

「失礼します」

 ラナのお茶に付き合うのも、最近ではもう抗うことをやめた。自分は護衛だからと何度言ってもラナは聞かないし、そのたびに木に登るだの池に飛び込むだのしようとする。
 無視をすれば本当にやりかねない従姉なので、自分は護衛と話し相手を兼任しているのだからと自分に言い聞かせて、許容するようになった。

「こちら、お召し上がりくださいね」

 座るとすぐにハシュマがやってきて、ラナとミシュアルの前にはそれぞれ焼き菓子ののった皿を、中央に置かれた銀盆にはティーセットを置いた。

「ハシュマ、控え室にいてくれる? ミシュアルと話がしたいの」
「かしこまりました。ご用がありましたら、ベルを鳴らしてくださいね」

 それではと頭を下げたハシュマが出ていくと、広い室内には二人きりになる。窓から吹き込んだ風が相変わらず紗しか掛けていない出入り口から抜けていき、汗で湿った肌に心地よかった。
 ハシュマがれてくれた茶を飲みながら、ラナはしばらく静かだった。カップの中の水面をじっと見つめたかと思うと、ちらりとミシュアルを見て、またすぐに逸らす。そしてまた茶を飲み、と三度ほど繰り返したあと、ようやくカップを銀盆におろした。

「ねえミシュアル、体調は大丈夫?」
「体調?」

 思いがけず振られた話題に、カップを持った手が揺れた。幸いにも中身はすでに飲み干しており、おかわりをもらおうかと思っていたところだった。

「昨日私が帰ってきた時から、調子が悪そうだったから。今日もなんだか、顔色があんまり良くないし」
「大丈夫だ。別に、何も……」

 落とし物を拾ったことは、まだ誰にも話していない。その落とし物の匂いに体が反応して、発情した時に使う部屋として用意されていた場所とはいえ宮殿内で自慰に及んでしまったことなど、ラナは知らないのだ。
 単に従弟の不調を察して心配してくれている彼女にどきりとしたものの、何食わぬ顔で答えたミシュアルに、ラナはふうんと鼻を鳴らすと焼き菓子を食べ始めた。
 このまま黙っていれば、落とし物の件は誰にも知られずに済む。匂いはそのうち薄くなるだろうから、頃合いを見計らって処分してしまえばいいのだ。

(……でも、すごくいい匂いだった。甘くて、優しくて……あの匂いがもっとあればいいのに。あんな小さなものじゃなくて、体を包めるほどのストールとか……)
「そうだ、ミシュアル」
「うわっ!」

 思わずぼんやりと考えに飲み込まれそうになっていた時だった。陶酔の世界を打ち破るように響いたラナの声に思わず大きな反応をしてしまうと、従姉はその大きな目を見開いてミシュアルを見た。

「なによ、ぼうっとしてたの?」
「ちょ……ちょっと、考え事を……」
「――どうしちゃったの、ミシュアル。あなたやっぱり変よ。顔も赤いし、目も潤んでるし。熱でもあるんじゃないの?」
「そんなことは……」

 思わず顔を俯けてしまいながらも、自分の意識があの落とし物にとらわれていた自覚はあるので、どっと冷や汗が噴き出る。
 やはり、あれは処分すべきものだ。ラナの宮に落ちていたとはいえ、誰にも見られてはいないはずなのだから。

(……でもそれが誰か、わかった方がいいんじゃないか?)

 処分してしまえば、あの落とし物は無くなる。それは、ミシュアルのつがいであるアルファへの手掛かりが無くなるということだ。それにラナの宮へ誰が立ち寄ったか、護衛としても把握はあくしなくてはならない。ラナに心当たりがなければ、侵入者がこの紅玉の宮へ足を踏み入れたことにもなるのだ。
 逡巡は一瞬で、ミシュアルはカップを銀盆に置くと、あぐらを掻いた膝の上でぎゅっと拳を握り締めた。
 自分があの落とし物に対して発情したことを伝えることに、恥ずかしさがないわけではない。けれど、それよりもミシュアルは紅玉の宮を守る衛兵として、安全面の考慮を優先した。

「ラナ。その……驚かないで聞いてほしい」
「なあに?」

 小さな焼き菓子が、さくさくとラナの口に消えていく。従姉の呑気な様子に緊張感がやわらぐのを感じながら一息ついたミシュアルは、意を決して口を開いた。

「昨日のことだけど……西の尖塔から戻った時、落とし物を拾ったんだ」
「落とし物?」
「タッセルだ。青……少し濃い青で、このくらいで……多分、何かの飾りの一部だと思う」

 手のひらに握りこんだ時の大きさを思い返しながら、親指と人差し指の間を広げて大きさを示すが、思い当たるふしがないのか、ラナはきょとんとしていた。

「私のじゃない。青系のものってあんまり持ってないし……」
「ラナのものじゃなければ、他に持っていそうな人に心当たりはないか?」
「うーん……見たことがあるような気もするけど……出入りする人はたくさんいるでしょ? 昨日と今日だけでも、さっきいらしてた歴史学のフィンス先生に礼儀作法のツェルルク先生、外語学のヘンリエッタ先生……出入りの業者だって、昨日はヴェーダック商会にブラネ織物協会、プユ・ラ・ペルハと……。ああ、そういえば庭師も新しく来てもらったばかりよね。他にもまだいると思うから……見覚えはあっても、ほとんどが似ていたか私の記憶違いだと思う。はっきり覚えてはいられないし……」

 ラナ自身は後宮ハレムから出ることはあまりないが、その代わりに大勢の人間が出入りする。教授たちは弟子を数人伴ってやってくることもあるし、外商は幾人もの使用人を引き連れてくる。全員が身体検査などをされて、毒物や刃物、もしくはそれに準じるものなどは持ち込めないようになっているが、装飾品は規制されていない。タッセルなど誰がつけていてもおかしくはない装飾品の一部であるうえ、いちいちそれを覚えているはずもなかった。
 わかってはいたが、ラナにもわからないとなると見当がつかない。
 けれどもこの出入りする人々の中に持ち主がいるのかもしれないのだ。今まで一切素性の知れなかったつがいへの糸口をつかんだ気がして、ミシュアルの鼓動はわずかに早まった。
 もしかしたらそのうち本人と会うことになるかもしれないし、あるいはもう会っているのかもしれない。ミシュアルは発情期ヒートでなくとも弱めの抑制剤を常飲しており、それが上手く作用して相手も気付いていないか、もしくはミシュアルが自分のオメガだとわかっていながら普通通り接している可能性もゼロとは断定しきれない。
 怯えと喜びがないまぜになる。呆然としていたが、ラナの涼やかな声がミシュアルを混乱から引き上げた。

「それで、そのタッセルがどうしたの?」
「あ、た……タッセルが……その……」

 さっきは血の気が引くような感覚を味わったのに、今度はじわりと頬が熱くなり、鎖骨の辺りにまで熱が伝播していくのを感じる。
 やはり言うべきではないかもしれない。
 ラナは従姉で、生まれてからずっと一緒に育った兄弟も同然で、信頼もしている。けれど彼女はオメガではなく、女性だ。オメガであり男であるミシュアルとは何もかもが違ううえ、今はさらに護衛と妃候補という立場上の違いもある。
 そんな相手にこんなことを話してもいいのだろうかという迷いの坩堝るつぼにはまっていると、一緒に育ったはずなのにその思考回路はまったく逆であるラナが、ああ、と声をあげた。

「処理に困ってるの? 私が預かって、出入りする人に聞くことも出来るけど……いなければ、処分してもいい?」
「だ、だめだっ!」
「えっ」

 とっさに出てしまった大声を、今更なかったことには出来ない。思わず自分の両手を口に当てたが、時すでに遅く、パタパタと足音が近づいたかと思うと、出入口の紗の向こうから心配げなハシュマが顔を出した。

「ラナ様、いかがなさいましたか?」
「ごめんなさい、ハシュマ。私が驚かしちゃったの。大丈夫だから、控え室にいて」
「かしこまりました」

 ハシュマの足音が去り、また二人に戻る。口に両手をあてたままミシュアルはどうすることも出来ずにいたが、ラナがついた小さなため息に宥められるように、ようやく手を降ろすことが出来た。
 思わず叫んでしまったのは、まぎれもなくオメガである本能だった。あの落とし物はつがいであるアルファの匂いが移ったもので、それを処分するなんてとんでもない――そんな本能が、ミシュアルという人格や理性を振り切って発した叫びだった。
 これほどまでの激情を晒してしまったのだ。今更言い訳など出来るはずもない。
 ひと際強くこぶしを握って、ミシュアルは浅く息を吸った。

「ラナ。あの落とし物……タッセルから、匂いがしたんだ」
「匂いって?」
「あ……アルファの、匂いだ」

 消え入りそうな声でミシュアルが言うなり、ラナはすっくと立ち上がった。

「ちょっと待ってて」

 ラナはさっさと歩いて出入口まで行くと紗の向こうに顔を出し、それから両扉を閉じた。そして小走りで戻ってくると、ミシュアルと頭突きをしそうなくらい近くに座り込んだ。

「話して」
「あ、ああ……」

 いくらなんでも近すぎる、とのけぞりそうになりながら昨日の顛末を、自慰をしたことは省いて話すと、ラナは思案顔で黙りこくり、やがて大きな目でミシュアルを見上げた。

「ミシュアル、……気を悪くしないでほしいのだけど、興味本位で聞いてるわけじゃないから、あなたさえよかったら答えて。そのタッセルに……あなたは反応した?」

 言葉の語尾は上がり、問いの形をしている。けれど、これは確認なのだとミシュアルは思った。
 ミシュアルがタッセルの匂いに反応したことをラナは認識したうえで、自分のことを考えようとしてくれているのだと感じると、恥ずかしさはあっても自然と素直に頷くことができた。

「……反応した。アルファの匂いを嗅いだことはあまりないけど……あれが多分、俺のつがいの匂いなんだと思う」
「あなたのつがい……それで昨日はぼんやりしていたのね」
「……」

 何食わぬ顔で職務に当たっているつもりではあったが、やはり長年一緒にいる従姉を誤魔化すことなど出来てはいなかった。
 ラナはベータだが、アルファやオメガの生態や性徴のことは誰もが性徴検査の前に習う。オメガとアルファは互いの匂いに敏感で、特につがいのものだと強く反応することは周知だった。
 あの衝動は自分で抑制できるようなものではないが、それでも自慰をしてしまった事実は恥ずかしいことだ。思わず俯いてしまうと、ラナはひらひらと忙しなく小さな手のひらを振った。

「違うわ、責めてるわけじゃないの。体調が悪いのかしらって心配だったから……」

 言い方が悪かった、ごめんなさいとラナは謝った。けれど彼女が悪いわけではない。逆に心配をかけてしまったとミシュアルが慰めることになってしまい、昼下がりのささやかなお茶会にはふさわしくない空気が室内に満ちた。
 この雰囲気を打破するにはそれなりの勇気とタイミングが必要だ。どう切り出して、この話をいったん終わらせようかと考えていると、コンコンと軽やかなノックの音が響いた。

「ラナ様、陛下よりお茶会のお知らせが届いております。あとでお読みになられますか?」
「今見るわ」
「かしこまりました。失礼いたします」

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