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7.与嘉 ☆
しおりを挟む年の瀬も迫り、洪紆の屋敷は騒がしかった。
翌日には年が明け、新たな龍の干支神として洪紆の仕事が始まるのだ。眷属も使用人もその準備に追われていたが、その中に二人の姿はなかった。
座敷を半壊させた離縁騒ぎから一年近く経った二人は今、ほとんどの日を離れで過ごしていた。というのも、与嘉が生み月に入ったからだった。
驚くことに、あの日のむつみ合いで二人は見事、天からの授かりものを得た。
あまりにあっさりと実を結んだものだから、体が既に作り変わっていたのに逆になぜ今まで授からずにいたのかと不思議になるほどで、何とはなしに洪紆に聞いた与嘉は、理由を聞くともうと少しだけ怒って、夫の腹に軽く肘を食わせた。
いわく、どちらも授かりたいという気持ちがなければ龍の子は根付かないらしい。
だが洪紆はそもそも与嘉に夢中で子作りをほとんど考えてこなかったし、与嘉も自分が孕めるとも知らなかった。結果、互いの気持ちが合致せずに命が芽吹くことはなかった。
しかし今は互いの気持ちがあり、望んだことで、与嘉の下腹はぽこんと出ている。本来ならば、気持ちがあっても何十年何百年と授からないこともあるらしく、本人である与嘉さえ、自分の執念の成果かとさえ思ったほどだった。
洪紆の干支神の就任と与嘉の懐妊。どちらにも沸く屋敷で唯一静かな離れで、与嘉は洪紆の膝に抱かれていた。
「明日の準備は終わりましたか?」
「ああ、もう終わった。祝詞も覚えてるし、支社への配置も割り振ってある」
「大社回りの日程の一覧はどうなりました? 他の干支神様への御挨拶と卯年の干支神様との引き継ぎは」
「一覧は作って書き写して、いくつか壁に張ってある。挨拶と引き継ぎは終わった」
「衣装の替えや予備は? 足袋も毎日替える分を用意してますか? 龍体になった時の角飾りは間に合いましたか? それに、そろそろ潔斎の時間では?」
「全部揃えてある。潔斎はあと一刻したら行う予定だ」
「あとは……」
自分が動けない分、どうにもあれこれ気になってしまう。あまり考え込むと体に悪いとわかってはいるが、気が急いて仕方なかった。
だがその分洪紆は落ち着いていて、今も与嘉のまるい腹を撫でていた。
「与嘉、あまり心配するな」
「でも……」
「ちゃんと段取りも準備も、紙に記して何度も確認しただろう。ええと……ああ、これだ」
洪紆は胸元から畳まれた紙を取り出し、与嘉の前に広げた。干支神として年初めから役目を果たすために、あれこれと考えて二人で記したものだ。
「これも終わった、これも準備は済んでる、この件は丑のところに任せてある」
「こちらは?」
「それは子のところに任せてある……そうだ、頼みに行ったときにこれを預かったんだった。あちらの御内儀が、与嘉にと」
ごそごそと袷を探った洪紆は、白く薄い包みを取りだした。
「子の干支神様は……白重様で、御内儀は……朱烏様ですね」
「全員覚えてるのか? すごいな、与嘉」
「当代の干支神様と伴侶の方の名前は覚えるようにしています。……ああ、お守りですね」
包みの中から現れたのは、白いお守りだった。安産祈願、と書かれたそれにはふわふわした小さなねずみが数匹描かれていて、いかにも子宝の多い子の干支神由来のものらしかった。
洪紆も干支神だが、やはり子宝に関しては子や戌の加護が有名だ。ありがたいものを貰ったと、与嘉が微笑むと、洪紆も神妙な顔でお守りに手を合わせた。
「お守りだから、身に着けていた方がいいですよね。それとも他の干支神様からいただいたものは……う、んん……」
どこで保管すべきかと考えたところで、与嘉は体を強張らせた。
腹の下の方がずんと重い――痛い。
「与嘉?」
「ちょ……ちょっと痛むだけです。多分、張ってるだけだから……」
大丈夫だと深呼吸をする。もう洪紆の干支神就任まで数刻だ。ただでさえ忙しないのに、今生まれるつもりかと宥めるように腹を擦るが、たまに張るのとはどこか違う。
「横になろう。寝台に……」
「い、今はこのままで……ん、うぅーっ!」
ズズ、と重いものが降りてくる。ぐっと洪紆の衣を握り締めて背を丸めると、大きな手のひらが腰を撫でた。
「っはあ、は、……洪紆様……」
「なんだ、なんでも言ってくれ」
「……あの……っうう……」
呼吸が上がる。腹の痛みはどんどん増して、すぐに止むものではないと与嘉にもわかった。
龍の子は卵で産まれるというが、産卵にどれほど時間がかかるか、与嘉は知らない。
だが、もう一刻後には洪紆は身を清めるために潔斎の儀に入り、夜が明ければそのまま干支神として大社回りに行かなければならない。
でも、龍の伴侶としての責任感と同じくらい、傍にいてほしいという気持ちもある。
どうしようと思いながらも痛みに体を強張らせていると、与嘉を抱き直した洪紆が背を正して伸びあがった。
顔の向く方は、明日の準備で忙しない母屋の方だ。
「誰か! 白縄を呼んでくれ」
洪紆が呼びつけたのは、使用人たちのまとめ役をしている眷属の青年だ。彼を呼びつけたということは、この場を任せることにしたのだろう。
(明日は干支神のお役目の一日目。潔斎の時間も迫ってる。これが正しいこと……)
寂しさと不安はどうしようもなく積もるが、仕方がないことだ。
干支神の伴侶として自分が出来ることは、洪紆を見送り、無事に卵を産むことだ。感傷に浸ってはいられないと自分に言い聞かせているうちに寝台に運ばれて枕を抱えていると、半ば駆けるような足音が母屋の方から近づいてきて、慌てた様子の白縄が姿を現した。
「いかがなさいましたか」
「与嘉が産気づいた。少し出るから、ここを頼む。なにかあればすぐに呼んでくれ」
「か、かしこまりました」
白縄は与嘉もよく見知った青年だ。彼が傍についてくれるなら心配ないし、必要とあらば他にも呼べる。
「大丈夫です、行ってください」
心配はないと言うと、後ろ髪を引かれるような顔をしながらも、洪紆は与嘉の頭を撫でたあと足早に離れを出て行った。
「いよいよですね、与嘉様。お水を持ってこさせましょうか」
「いえ、今は……あうっ……」
不意にずぐんと深い痛みが下半身を襲う。同時に、腹の奥で大きなものが移動を始めたのを感じた。
「ううーっ……」
与嘉は急いで今朝まで自分と洪紆がくるまっていた上掛けをぐしゃぐしゃとまとめた。そのままそこに顔をうずめる。
こうしていれば、洪紆の匂いがする。少しほっとして体の力を抜いた与嘉は、上掛けを抱えてしばらくふうふうと息を整えた。
潮が引いてまた満ちるように、痛みは押し寄せる。腰が割れそうに痛んで、何度も強張る足を落ち着かなくもぞもぞと動かしながら、上掛けに顔を埋めた。
(どのくらいで産まれるんだろう……今日中? 明日?)
赤子を産むときも数刻かかると聞いているのだし、産むのが卵であってもそれなりに時間はかかるだろう。その間、使用人のまとめ役である白縄がここにいては、母屋でも混乱が起きるかもしれない。ならばと、与嘉はよろよろと体を起こした。
「白縄さん」
「与嘉様、横になってください。体を起こしていては……」
「大丈夫です、まだかかると思うので……はあ、ふ……準備は、どうなってますか」
まとめた上掛けに枕も寄せて、小さな山を作ってそこに抱きつく。今が分厚い掛物を使う冬でよかったと思いながら、小山にもたれて息を吐くと、痛みは少し楽になった。
「滞りありません。与嘉様が書きつけてくださった一覧のおかげです。あとは点検と、明日のお務めをする者への申し送りと……もう一度周囲の掃除だけです」
「そうですか……」
こまごました用件だけのようだが、彼もまだやることがある。
(なら、母屋に戻ってもらおう)
そもそも、龍の産卵に立ち会うのはせいぜい伴侶だけで、ひとりで産むのも珍しくはないと聞いていた。
それに、彼は洪紆ではないのだ。誰かがいることは、逆に伴侶の不在を強く思わせる。洪紆がいないのに、と考えてしまう。
(——あ、だめだ)
まだ彼が行って、一刻も経っていない。それなのに、ここにいないと思っただけで火照った頬にほろりと雫が落ちたのがわかった。
「与嘉さ……」
「ち、違うんです、これは目が乾燥して……」
焦ったような白縄の声が上がり、慌てて反対側を向こうとした矢先、空から大音声が響いた。
「与嘉ー!」
誰かと思うまでもない。洪紆の声だ。
見ると目も眩むほどの美しい鱗をした巨大な金龍が落下する勢いで降りてくるところだった。そのまま離れの庭に激突するかと思ったが、ぎりぎりのところで変化をし、そのまま室内に駆け込んできた。
変化を解いたばかりの洪紆は髪も乱れ、よく見ればまだ角も出ている。背後ではゆらゆらと揺らめく尾まで仕舞われないままだった。
だが、喧嘩をした時のように我を失って変化しかかっているのではなく、興奮と高揚で本性が現れかかっているようで、与嘉をまっすぐに見る金色の双眸はぎらぎらと輝いていた。
「おかえりなさいませ、洪紆様」
少なくとも明日までは姿を見ることはないと覚悟していた与嘉は驚いたが、白縄はいつものように深々と頭を下げた。
「お早かったですね」
「ああ、卯のところに話をしに行ったら、ちょうど余九もいたから、話が通しやすかった。明日の段取りについては話がついている。大社での祝詞の読みあげまでは俺がやるが、あとは余九が大社を周ってくれる」
「でしたら、他の干支神様方への通達は」
「それも請け負ってもらった。あとは……」
二人はまるで打ち合わせたように話をしているが、与嘉はなんのことだかさっぱりだ。
上掛けの小山にしがみついたままぽかんとしていたが、白縄と話しながら寝台に腰かけた洪紆の手が腰を撫でると、はっとして詰めていた息を吐いた。
「……あとはそのように。では、失礼いたします」
「ああ、頼んだ」
白縄は洪紆との話を終えると、足早に離れを出て行った。すぐに誰かを収集している声が聞こえ、それに返る声も方々から遠く聞こえた。
二人に戻った部屋には、与嘉の荒い呼吸だけが響く。相変わらずずくずくと痛む腹に呼吸を乱す与嘉だが、頭の中はもっと混乱を極めていた。
(余九様と言えば寅の干支神様で、……話がついている? 祝詞まではやる、あとは……大社を周るのは、洪紆様じゃなくて余九様?)
「なっ、な……うっ…うう、……なにを…何を考えてるんですか!」
まさか、新たな干支神として立つ大切な日に大役を他の干支神に任せたのか。
痛みのせいで丸まってしまいそうになる背をどうにかそらして洪紆を見上げると、角も尾も出しっぱなしの龍は、ああと朗らかに笑った。
「順番を考えただけだ。確かに明日は大切な日だ。でも、干支神はその年の神だけが動くものじゃない。加護は確かに担うその年が一番効果が出るかもしれないが、他の干支神でも補えるものだろ」
「でもっ」
「加護を与えるのは、他の干支神が出来ることだ。でも、与嘉のそばにいられるのは俺だけだ。他に譲れるものじゃない」
「――でも…」
「それに、俺が傍にいたいんだ。傍にいて、与嘉と一緒に俺たちの子が生まれるところを見たい。それが俺の考えた、一番いい順番なんだ」
宥めるような穏やかな低い声が耳に優しく響いて、与嘉はもうなにも言い返せなくなった。
腰を撫でてくれていた手が肩を抱く。おいでとそのまま抱き寄せられた与嘉は、寝台に上がった洪紆の膝の上に乗り上げた。
本当ならちゃんとお役目を果たすべきだと叱咤すべきなのかもしれないが、洪紆の考えた一番いい順番を、与嘉もその通りだと思ってしまった。
与嘉の胎と卵の中で眠っている子は、二人の子だ。迎えるなら一緒がいい。
今度は痛みのせいでなく目じりに浮かんだ涙に視界を揺らしながら、与嘉はふうと息を吐いた。
「……そうですね」
微笑んだ与嘉に、洪紆はああ、と嬉しげに頷いてくれた。
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