咽ぶ獣の恋渡り綺譚

晦リリ

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2.洪紆

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 干支神えとがみに任命すると長に言われた時、洪紆こううは驚きすぎて思わず龍の角が出かけた。
 だがそんな姿を見せるなど、気の緩みでしかない。厳格なその場では相応しくくないととっさに気を張ったため、どうにか角を出すことは避けられた。
 けれど今、洪紆は自分の頭の上ににょきりと龍の角が出ているのを感じていた。目の前にいるのは妻である与嘉よかで、彼は何度も洪紆の角を見ている。だからいいというわけではないが、理性で抑える間もないほどの衝撃だった。
「り……離縁、……離縁? 待ってくれ、与嘉…………よし、もう一度言ってくれ」
「はい。離縁いたしましょう」
 聞き間違いかと、耳を澄ましてみても、この五十年で何度も聞いてきた愛しい声は、同じ言葉を告げる。もはや龍の尾も出そうだった。
 もう一度同じ言葉を聞いたところで、信じられるはずがなかった。
 この五十年、もちろん喧嘩だってした。けれどすぐに仲直りをしてきた。洪紆は毎日与嘉に愛を囁くほど彼を溺愛しているし、与嘉も苦笑しながらもまろい頬を笑ませて、自分もだと言ってくれた。
 そんな自分たちの間に、離縁という言葉は一切必要のないものだと思っていた。 
「な、な、なぜだ、与嘉」
 情けなく声が震え、とっさに細い肩を両手でつかむ。
 その白い顔に浮かぶ感情を微塵も逃したくなくて、洪紆は与嘉が贄として捧げられる原因になった青い双眸を見つめた。
 与嘉はいつも通りの穏やかな表情で、洪紆を見上げた。
「中で話をしましょう、洪紆様。ここでは皆が見ています」
 言われて見れば、ここは屋敷の門を潜ったばかりの庭だ。周囲には使用人たちがおり、予定よりも早く帰った主人と、それを出迎えたはずの家人の不穏な空気に驚いた様子でこちらを伺っている。
 ばつが悪くなったものの、それでも与嘉の言い分を聞かなければならない。なにせ、洪紆には離縁を申し付けられるいわれもなければ、それを了承する気もない。
「わかった」
 絞り出すような声で頷いた洪紆は、与嘉の手を取った。
 一回り小さな手はいつものように握り返してはくれず、洪紆はさっきまでの喜びはどこへやら、泣きたい気持ちになりながら屋敷の中へ入った。



 洪紆と与嘉の部屋は、いつも通り整頓されていた。
 屋敷で雇っている使用人は多くいるが、この部屋だけは自分たちで整えており、与嘉が箒で掃く時は洪紆は布団を干し、逆の時もあった。部屋のなかはいつも綺麗で、座布団がふたつ並んでいるのが常だ。
 部屋に入った与嘉はいつも通り並んでいる座布団の片方の端をつまむと、すいと寄せて、二尺と少しほども離れた場所に置いた。それだけでもう、洪紆はああ、と声を漏らしそうになった。
 並んだ座布団に腰を下ろし、肩と肩が触れ合うほど近くに座って話をするのが二人のいつもの光景だ。向かい合って話すことなど、抱擁している時くらいのものだ。与嘉はいつだって洪紆の隣か膝の上にいた。
 それなのに、距離を取って正面に座るなど。
 さっき聞いた与嘉の信じられない言葉がなおさら重く感じられるようで、洪紆は頭から出た角をしまうこともできないまま、ふらふらと座布団の上に座り込んだ。
「さっきの続きですが」
 腰を下ろすなり、与嘉はすぐに声をあげた。
「干支神様になられるのでしたら、他に良い人をお迎えください」
「良い人? お前がいるのだから、そんなものはいない」
「いない、ではないです。見つけるのです。干支神様はその年一年のご利益を世にもたらします。その妻として私は、不相応です」
 贄として捧げられたが、与嘉の生まれは地域一体でも高名な名士の家だったという。そのせいか物腰は穏やかで見目こそ大人しいものだが、その胸に宿す気骨は目を見張るものがある。
 今も正座をして背筋を伸ばす姿は凛としていた。
 いつもならばその姿に見とれて抱き寄せる洪紆だが、向けられる言葉と視線の強さと衝撃に、微動だにできなかった。
「洪紆様に助けられ、共に添うことを許されて五十年。十二分に愛していただきました。毎日幸せで、あの日贄に上げられたことさえ、今ではありがたいと思います」
「与嘉」
「ですが、干支神様になられるのなら話は別です。干支神様に相応しい洪紆様に、私のようなものが報いれることがあるとすればただ一つ、身を引くことです」
「なぜだ、俺は与嘉がいなければ」
 とうとうと語る与嘉に隙はない。まるでずっと用意していた言葉を、整然と並べたてているようだった。
「私がいても何も変わりはしません。洪紆様、新しい御内儀をお迎えください。そうすれば、洪紆様が人々にもたらす加護もきっとご利益を増します」
 与嘉の声は優しい。まるでせせらぎのようで、その言葉に濁りも淀みもない。だからこそ、彼の口からこぼれる言葉が洪紆との別れを心底願っているのだとわかり、洪紆はどうしようもなく奥歯を軋ませた。
「俺と別れ、お前はどこへ行くと言うんだ。村に戻っても、お前を知るものはもう……」
「私は……どこへでも。どこかでお世話になるのもいいかもしれませ……」
 ドンッと重音が響いた。与嘉の言葉を遮ったのは、洪紆の尾だった。
 とうとう顕現した龍の尾は、人の姿をしている洪紆に合わせた大きさではあるが、太く長い。それがドッと重い音を立てて座敷を叩いたものだから一瞬にしてそこは抉れ、床の土台に使われている木材がむき出しになった。
「――ならん」
 やはり耐えることなど出来なかった。龍体の時のたてがみにもなる髪がざわざわと不穏にざわめき、角もメキメキと音を立てて伸びる。
「洪紆様っ」
 見開かれた与嘉の真っ青な目に、洪紆は変化する自分を見た。
 長は言っていた。気性も落ち着いて、安定していると。洪紆こそが龍の干支神に相応しいと。
 それがどうだ。荒ぶる感情に簡単に負けて、半人半龍の姿を晒している。
 さっきまでは確かに干支神に指名されたことが嬉しかった。けれど今はそんなことはどうでもよくなっていた。
 たったひとり、五十年傍にいてもまだまだその手を取り足りず、毎日新たに恋をするような相手が、与嘉が、洪紆から離れようとしている。それも、他の家へ――もしかしたら、洪紆の知らない誰かのもとへ、行こうとしている。
「ならん、ならん……お前は、与嘉は……っ!!」
 半人半龍の不安定な姿になった洪紆を前にして逃げなかった与嘉の肩を、金色のうろこがまばらに生えた手がきつく掴む。そのまま押し倒すまで、ほんの一瞬の出来事だった。
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