2 / 8
2.洪紆
しおりを挟む干支神に任命すると長に言われた時、洪紆は驚きすぎて思わず龍の角が出かけた。
だがそんな姿を見せるなど、気の緩みでしかない。厳格なその場では相応しくくないととっさに気を張ったため、どうにか角を出すことは避けられた。
けれど今、洪紆は自分の頭の上ににょきりと龍の角が出ているのを感じていた。目の前にいるのは妻である与嘉で、彼は何度も洪紆の角を見ている。だからいいというわけではないが、理性で抑える間もないほどの衝撃だった。
「り……離縁、……離縁? 待ってくれ、与嘉…………よし、もう一度言ってくれ」
「はい。離縁いたしましょう」
聞き間違いかと、耳を澄ましてみても、この五十年で何度も聞いてきた愛しい声は、同じ言葉を告げる。もはや龍の尾も出そうだった。
もう一度同じ言葉を聞いたところで、信じられるはずがなかった。
この五十年、もちろん喧嘩だってした。けれどすぐに仲直りをしてきた。洪紆は毎日与嘉に愛を囁くほど彼を溺愛しているし、与嘉も苦笑しながらもまろい頬を笑ませて、自分もだと言ってくれた。
そんな自分たちの間に、離縁という言葉は一切必要のないものだと思っていた。
「な、な、なぜだ、与嘉」
情けなく声が震え、とっさに細い肩を両手でつかむ。
その白い顔に浮かぶ感情を微塵も逃したくなくて、洪紆は与嘉が贄として捧げられる原因になった青い双眸を見つめた。
与嘉はいつも通りの穏やかな表情で、洪紆を見上げた。
「中で話をしましょう、洪紆様。ここでは皆が見ています」
言われて見れば、ここは屋敷の門を潜ったばかりの庭だ。周囲には使用人たちがおり、予定よりも早く帰った主人と、それを出迎えたはずの家人の不穏な空気に驚いた様子でこちらを伺っている。
ばつが悪くなったものの、それでも与嘉の言い分を聞かなければならない。なにせ、洪紆には離縁を申し付けられるいわれもなければ、それを了承する気もない。
「わかった」
絞り出すような声で頷いた洪紆は、与嘉の手を取った。
一回り小さな手はいつものように握り返してはくれず、洪紆はさっきまでの喜びはどこへやら、泣きたい気持ちになりながら屋敷の中へ入った。
洪紆と与嘉の部屋は、いつも通り整頓されていた。
屋敷で雇っている使用人は多くいるが、この部屋だけは自分たちで整えており、与嘉が箒で掃く時は洪紆は布団を干し、逆の時もあった。部屋のなかはいつも綺麗で、座布団がふたつ並んでいるのが常だ。
部屋に入った与嘉はいつも通り並んでいる座布団の片方の端をつまむと、すいと寄せて、二尺と少しほども離れた場所に置いた。それだけでもう、洪紆はああ、と声を漏らしそうになった。
並んだ座布団に腰を下ろし、肩と肩が触れ合うほど近くに座って話をするのが二人のいつもの光景だ。向かい合って話すことなど、抱擁している時くらいのものだ。与嘉はいつだって洪紆の隣か膝の上にいた。
それなのに、距離を取って正面に座るなど。
さっき聞いた与嘉の信じられない言葉がなおさら重く感じられるようで、洪紆は頭から出た角をしまうこともできないまま、ふらふらと座布団の上に座り込んだ。
「さっきの続きですが」
腰を下ろすなり、与嘉はすぐに声をあげた。
「干支神様になられるのでしたら、他に良い人をお迎えください」
「良い人? お前がいるのだから、そんなものはいない」
「いない、ではないです。見つけるのです。干支神様はその年一年のご利益を世にもたらします。その妻として私は、不相応です」
贄として捧げられたが、与嘉の生まれは地域一体でも高名な名士の家だったという。そのせいか物腰は穏やかで見目こそ大人しいものだが、その胸に宿す気骨は目を見張るものがある。
今も正座をして背筋を伸ばす姿は凛としていた。
いつもならばその姿に見とれて抱き寄せる洪紆だが、向けられる言葉と視線の強さと衝撃に、微動だにできなかった。
「洪紆様に助けられ、共に添うことを許されて五十年。十二分に愛していただきました。毎日幸せで、あの日贄に上げられたことさえ、今ではありがたいと思います」
「与嘉」
「ですが、干支神様になられるのなら話は別です。干支神様に相応しい洪紆様に、私のようなものが報いれることがあるとすればただ一つ、身を引くことです」
「なぜだ、俺は与嘉がいなければ」
とうとうと語る与嘉に隙はない。まるでずっと用意していた言葉を、整然と並べたてているようだった。
「私がいても何も変わりはしません。洪紆様、新しい御内儀をお迎えください。そうすれば、洪紆様が人々にもたらす加護もきっとご利益を増します」
与嘉の声は優しい。まるでせせらぎのようで、その言葉に濁りも淀みもない。だからこそ、彼の口からこぼれる言葉が洪紆との別れを心底願っているのだとわかり、洪紆はどうしようもなく奥歯を軋ませた。
「俺と別れ、お前はどこへ行くと言うんだ。村に戻っても、お前を知るものはもう……」
「私は……どこへでも。どこかでお世話になるのもいいかもしれませ……」
ドンッと重音が響いた。与嘉の言葉を遮ったのは、洪紆の尾だった。
とうとう顕現した龍の尾は、人の姿をしている洪紆に合わせた大きさではあるが、太く長い。それがドッと重い音を立てて座敷を叩いたものだから一瞬にしてそこは抉れ、床の土台に使われている木材がむき出しになった。
「――ならん」
やはり耐えることなど出来なかった。龍体の時のたてがみにもなる髪がざわざわと不穏にざわめき、角もメキメキと音を立てて伸びる。
「洪紆様っ」
見開かれた与嘉の真っ青な目に、洪紆は変化する自分を見た。
長は言っていた。気性も落ち着いて、安定していると。洪紆こそが龍の干支神に相応しいと。
それがどうだ。荒ぶる感情に簡単に負けて、半人半龍の姿を晒している。
さっきまでは確かに干支神に指名されたことが嬉しかった。けれど今はそんなことはどうでもよくなっていた。
たったひとり、五十年傍にいてもまだまだその手を取り足りず、毎日新たに恋をするような相手が、与嘉が、洪紆から離れようとしている。それも、他の家へ――もしかしたら、洪紆の知らない誰かのもとへ、行こうとしている。
「ならん、ならん……お前は、与嘉は……っ!!」
半人半龍の不安定な姿になった洪紆を前にして逃げなかった与嘉の肩を、金色のうろこがまばらに生えた手がきつく掴む。そのまま押し倒すまで、ほんの一瞬の出来事だった。
18
お気に入りに追加
97
あなたにおすすめの小説
怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人
こじらせた処女
BL
幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。
しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。
「風邪をひくことは悪いこと」
社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。
とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。
それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?
推しの完璧超人お兄様になっちゃった
紫 もくれん
BL
『君の心臓にたどりつけたら』というゲーム。体が弱くて一生の大半をベットの上で過ごした僕が命を賭けてやり込んだゲーム。
そのクラウス・フォン・シルヴェスターという推しの大好きな完璧超人兄貴に成り代わってしまった。
ずっと好きで好きでたまらなかった推し。その推しに好かれるためならなんだってできるよ。
そんなBLゲーム世界で生きる僕のお話。
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです
おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの)
BDSM要素はほぼ無し。
甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。
順次スケベパートも追加していきます
異世界に転移したら運命の人の膝の上でした!
鳴海
BL
ある日、異世界に転移した天音(あまね)は、そこでハインツという名のカイネルシア帝国の皇帝に出会った。
この世界では異世界転移者は”界渡り人”と呼ばれる神からの預かり子で、界渡り人の幸せがこの国の繁栄に大きく関与すると言われている。
界渡り人に幸せになってもらいたいハインツのおかげで離宮に住むことになった天音は、日本にいた頃の何倍も贅沢な暮らしをさせてもらえることになった。
そんな天音がやっと異世界での生活に慣れた頃、なぜか危険な目に遭い始めて……。
竜王の妃は兎の薬師に嫁ぎたい
にっきょ
BL
大きな山を隔て、人間界と動物界が並ぶ世界。
人間界の小村から動物界の竜王に友誼の印として捧げられた佑は、側室として居心地の悪い日々を送っていた。
そんな中、気晴らしにと勧められたお祭りを見に行く途中、乗っていた蜘蛛車が暴走し、車外に放り出されてしまう。頭に怪我を負った佑を助けてくれたのは、薬師の明月だった。
明月がどうやら佑の身分を知らないようだ、ということに気づき、内裏に戻りたくなかった佑はとっさに嘘をつく。
「名前が思い出せない。自分が誰か分からない」
そして薬師見習いとして働き始める佑だったが、ひょんなことから正体がばれ、宮中に連れ戻されてしまう。
愛している、けれども正体を知ってしまったからには君と付き合うことはできない――明月は、身分を明かした佑にそう告げるのだった。
お花好きで気弱な白兎の薬師×姉の代わりに嫁いできた青年
【BL】男なのになぜかNo.1ホストに懐かれて困ってます
猫足
BL
「俺としとく? えれちゅー」
「いや、するわけないだろ!」
相川優也(25)
主人公。平凡なサラリーマンだったはずが、女友達に連れていかれた【デビルジャム】というホストクラブでスバルと出会ったのが運の尽き。
碧スバル(21)
指名ナンバーワンの美形ホスト。博愛主義者。優也に懐いてつきまとう。その真意は今のところ……不明。
「僕の方がぜってー綺麗なのに、僕以下の女に金払ってどーすんだよ」
「スバル、お前なにいってんの……?」
冗談? 本気? 二人の結末は?
美形病みホスと平凡サラリーマンの、友情か愛情かよくわからない日常。
君がため
晦リリ
BL
幼い頃に患った病気のせいで見目の悪い穂摘はある日、大火傷を負ってしまう。
親に決められた許嫁は嫌がり、生死をさまよう中、山に捨てられた穂摘。
けれどそれを拾った者がいた。
彼に拾われ、献身的な看護を受けるうち、火傷のせいで姿も見えない彼に初恋を覚えた穂摘だが、その体には大きな秘密があった。
※ムーンライトノベルズでも掲載中(章ごとにわけられていません)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる