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しおりを挟む「…話すとは言っても、最初に断っておかなきゃいけないことがあるんだけどね」
千茅は、おもむろにそう話を切り出すと、黙ったまま俯いている蘇芳に向いた。
「蘇芳」
「……はい」
「お前のことも話すけど、いいかな」
端的な問いかけに、蘇芳は少し逡巡したようだったが、嗄れそうな声で、はいと呟いた。
「本人の承諾も得たから離すけど、そもそもは、僕の神気がなさすぎることが発端で、そこから偶然が何度も重なった結果なんだよ」
そう言って千茅は、まず芹が目を見開くことを口にした。
「まず、三つの偶然が重なったんだ。ひとつは、子どもを拾ったこと。もうひとつは、その子を僕の息子にした事。この息子っていうのが、蘇芳なんだけどね」
「蘇芳が、息子?」
「うん。血の繋がりはないけど、神気の繋がりはあるし、赤ん坊だった蘇芳を育てたのも僕だよ」
どういうことだと混乱する意識の真ん中に引きずり出されてきたのは、八の館で抱き合っていた風景だ。あの光景を見て、芹は自分の恋の終焉を知った。けれど千茅の話が本当ならば、あれは親が子を慰めているだけの図だ。
絶句する芹だったが、思わず視線を蘇芳にやると、渦中の当人もさすがに顔をあげており、芹の言いたいことを理解したのか、はいと頷いた。
「山に捨てられていた俺を育ててくださりました。黒縒様と千茅様は、俺の養親です」
「従者じゃなかったんだ…」
蘇芳がどこまでも慇懃な態度なものだから、まさかと黒縒のほうを見ると、彼もまた頷いた。
「養子ではあるが、いずれ人里に戻すつもりでいた」
「人里? 蘇芳は鬼ではないのですか?」
今は上手く人間に変化しているものの、幼いまま人里においてしまえば鬼の姿を出してしまうのではと芹が首をひねると、それは、と当の本人が注釈を挟んだ。
「俺は、正確には鬼ではありません。定かではありませんが…両親は鬼と人間で、俺は間の子です」
「それじゃあ、蘇芳は半分は人間なの?」
「血筋的にはそうなります。ですが、十を過ぎた頃に、鬼になることを選びました。…その儀式を執り行ってくださったのが、千茅様です」
気づけば話は千茅から蘇芳に引き継がれていたが、芹は黙ってみ耳を傾けていた。
蘇芳が言うには、まだ幼い頃は、角が額にある程度で、他は人の子となんら変わらなかった。けれどそれでは立派な鬼になれないと、刀を振るうことを覚え、その鍛錬に打ち込んだ。
「だから蘇芳、剣術もすごいんだ」
「その頃の俺は力もなかったので、必死でした」
まだ首も据わらない頃から拾って育ててくれた黒縒と千茅のために立派になろうと奮起していた幼い蘇芳だったが、やがて告げられたのは、黒縒の統べる一帯だけでなく、鬼妖の住む世界からの離別だった。
「千茅様や黒縒様が俺の将来を思ってくださったのは、嬉しいことでした。ですが、育ててくださった方々にこんなにも気にかけて貰える俺ならば、その御恩に報いたいと思ったのです」
見知らぬ実の親より、自分の未来を案じてくれた養親のためになろうと決意した結果、蘇芳は自分の半分に流れる鬼の血を使うことを決めた。
そうして行われることになった儀式で、千茅は大変な任を負うことになった。
「俺なぞは、神であるゆえ、神気が強いからな。単に与えるだけならば構わんが、人の身である半身を壊さぬまま鬼の血に寄せつつ変えていくには、俺と蘇芳の間に、いわゆる緩衝となるものが必要だった。それに手を挙げたのが、よりにもよって千茅だった」
「よりにもよってとか言わないで。僕はちゃんと考えて、それを選んだんだから。…儀式は成功したよ。でも、黒縒に引きずられて、僕の少ない神気もほとんどなくなった」
蘇芳は苦い顔をし、黒縒も眉間にしわを刻んだ。おそらく二人はそれぞれに、その過去に後悔があるのだ。
黒縒は自分の力の強さを呪い、蘇芳は自分のために養親が倒れるようなことを頼んだと。けれど千茅は朗らかに笑った。
「だけど、蘇芳は完全に鬼になれた。鬼でも人でも、蘇芳が望む姿になる手助けが出来て、僕は嬉しかったよ」
「千茅様……」
ぐっと膝の上でこぶしを作った蘇芳の顔は俯いていて見えなかったが、芹の視線に気づいたのか、腕でぐいと顔を拭うと、大丈夫ですと顔を上げた。目元は赤くなっていたが、もう俯かず、過去を語る養親をじっと見つめた。
「でも、時期が悪かったというか、こればかりは神様もわからないのか…その頃だと思う。すごく眠い日が続いたんだ。それで、ちょっと眠ったら十年過ぎてた」
「十年……」
前もって話は聞いていたが、ひたすら一日千秋の思いで待っていた黒縒と違い、ひたすら眠っていた千茅の中で、時間の経過の感覚は大きく隔たりがある。黒縒は思い出すのも苦しいといったていだったのに対し、千茅はけろりとしていて、本当についうっかり、と言わんばかりだった。
「眠ったなって思ったのは一瞬だったよ。でも、その時に、青玻を授かったってわかった。夢の中でさんざん遊んだから」
ねえ、と自分の懐で眠る青玻の小さな頭を千茅の指先が撫でると、小さな蛟はキュウと小さな声をあげて、その指に擦り寄った。
青玻を授かったとわかって、千茅はとても喜んだらしい。我が子同然に蘇芳を可愛がっていたが、二十年に渡って黒縒との間の子に恵まれなかったため、なにがあっても大切にしなければと千茅は思った。
けれど、この喜ばしい事態を、素直には喜べない人がいることを、目覚めた千茅は知ってしまった。
それは黒縒だった。
「僕が眠ったのは、神気があまりにも枯渇したせいだけど、それは青玻がお腹にいたから。でも、黒縒は蘇芳を鬼にするために使ったからだって思ったみたいで」
「仕方なかろう。あれのすぐ後だったではないか」
「それはそうだけど…」
ともかく、と千茅は端的に語りだした。
十年眠った千茅は、これからもまた自分が眠り続けてしまうことはわかっていた。だからこそ黒縒に伝えようとしたが、それより先に夫の怒りと、血の繋がらない息子の落ち込みを目の当たりにしてしまった。
黒縒は蘇芳が鬼になるために神気を使い過ぎて千茅が眠り続けていると思い、蘇芳にも強く当たっていた。
蘇芳は自分のせいで千茅に無理をさせてしまったと落ち込み、屋敷から出てさえいた。
真実は違うのだと伝えようとした千茅だったが、同時に、腹に宿った青玻が心配になった。
蘇芳の件であれほど立腹していた黒縒に、自分の神気を吸い続けて成長する子が腹に宿ったなどと伝えたら、それこそ奪われてしまうのではないかと。
黒縒は千茅にはどこまでも甘いが、それ以外には神として自由にふるまう帰来がある。
人を正し、導くための仏とは違い、強大な力を持ちながら万物に宿る神は、その人格も異なる。気に入ればなんだってしてしまうし、気に入らなければ命を奪うこともある。
せっかく授かった青玻を、そんな危険にさらすわけにはいかなかった。
「僕も、少し神経質だったのかもしれない。一度は相談すれば、こんなことにはならなかったんだろうなって今は思うよ」
そう言って申し訳なさげに、千茅はもう一度ごめん、と謝った。
そういった理由があって千茅は、青玻を内緒で育てることにした。とは言っても神気を探られたらすぐに知れてしまう。そこで、千茅は黒縒から教わっていた簡単な術を自分にかけた。
「神纏いって言ってね、神様からいただいた神気を自分にまとって、守ってもらうんだ。僕は元々神気が弱いし、何かあったらいけないからって、ここに来てすぐに黒縒に教えてもらってた。だから、黒縒の神気で自分を覆った。こうすれば黒縒から見ても、僕は自分の体を黒縒の神気で守っているようにしか見えないから」
そうして青玻を育て始めた千茅は、神纏いのまじないが薄まりそうになるたびに起きて、また自分にまじないを施した。それを何十年も繰り返していくうちに青玻は徐々に育っていったが、本来ならば、もう百年はかかると思っていた。
ところが二百年近く経とうというある日、芹が生まれた。
「贄にするために連れてくるって聞いて、すごく腹が立ったし、悲しかった。僕は、僕自身の判断で青玻を産もうって決めた。だけど、そのせいで誰かが犠牲になるのは嫌だったし、人の世の里の人たちに慕われてる黒縒が、僕のせいでそんなことをするのも嫌だった」
だからこそ怒ったが、連れてこられなくとも、芹の神気は大きな変化を千茅と青玻にもたらした。
三ヶ月に一度の祠参りの日は、いわば芹の神気を遠隔から取り込むためのもので、あの祠を依代にして、芹の膨大な量の神気が流れ込んだ。そのため、黒縒からの、千茅を生かすためだけに注がれている程度の量だけを糧にしていた青玻の成長が格段に速くなり、千茅はそのたびに起きなければならなくなった。
「いつ知られてしまうだろうって冷や冷やしながら起きてたよ。でも、幸いと言っていいのかな……黒縒には知られなかった」
ふ、と黒縒が口をつぐんだまま、鼻だけで嘆息した。それは、呆れているというよりは、自分の不甲斐なさを笑っているようでもあった。
「このまま、祠参りだけを頼りに出来たらなって思うようになってたんだ。それなら贄としてこちらに来てもらう必要もないから、人里で暮らしていけるだろうって」
けれど、千茅も誤算だったのだろう。
ただでさえ多かった芹の神気が成長するにつれて増えるなど。
結局は贄にせずとも保護しなければならないからと、時期が来たとの名目で芹が連れて来られた日、千茅は全く膨らんでいない腹が内から熱くなるほど、青玻が一気に成長を始めたのを感じた。
「もう、温石でも抱いているみたいだったよ。それくらい一気に成長し始めたけど、それでも余りあるほど僕の体には芹さんの神気が馴染んだし、おかげで僕も眠って過ごさなくて済むようになった。本当に感謝したよ」
おかげさまで大きく生まれたんだよ、と袷の谷間に頭を載せて、くわあと欠伸など噛んでいる青玻の頭を撫でて千茅は笑った。
「でも、やっぱり生むときは僕の体も準備をしないといけなかったみたいで…少しだけ眠って起きたら、もうすべてが終わるって思った。もう青玻はすぐに生まれるってわかったし、生んじゃえばこっちのものだから、黒縒も文句は言えても、やっと生まれた青玻を殺したりはしないだろうって」
散々に言われている黒縒は、おそらく一度はこの話をふたりで膝でも突き合わせながら語ったのだろう。胡坐をかいた上に肘をつき、居心地悪そうに庭に視線をやっていた。
「眠っていたけど、芹の神気があるせいかな、意識だけ起きてる時もあった。そうしたら、毎日蘇芳が僕のところに来て、泣くんだよ」
黒縒がいない時を狙ってか、千茅がひとりで眠っているときにやってくる蘇芳は、泣きながら懇願した。
「目を覚ましてくださいって。大きくなってからは千茅様って呼ぶようになった蘇芳が、母上、お願いですからって。だから早くしなきゃって思ってたんだけど、黒縒の方が早くて、結局儀式が始まって、芹さんの神気が一気になだれ込んできてから目が覚めた。だから止めたんだけど…覚えてる?」
「なんとなく…やめてって声、聞こえてました」
ぼんやりとではあるが、隣で突然上がった制止の声は覚えている。あれはやはり千茅だったのだ。
芹がぽつりと呟くと、それならと千茅は、おもむろに能舞台の壁にもなる八枚連なる板間を指差した。
「あのあたりが壊れたのも覚えてる?」
「いえ…あやふやです」
半年間眠っていたので、その間に何かがあったわけではないが、さすがに記憶が少しぼやけている。なにかあっただろうかと記憶を探った芹は、眠りに落ちる直前に聞いた大きな怒号と喧騒を思い出した。
「蘇芳が壊したんだよ。鬼になって大暴れして、能舞台に大穴を開けたかと思ったら、襖まで全部飛ばして。そのまま黒縒にまで襲いかかったから、僕と芹さん、危うく寝台から落ちるところだったんだよ。今はもう直ってるけどね」
その時の光景でも思いだしたのか、けらけらと笑いながら千茅は言ったが、黒縒はばつが悪そうに視線を向けたまま、蘇芳は小さな声で「まことに申し訳ありません」と力なくこぼした。
「蘇芳が襲った…?」
ただただ驚くばかりだ。
蘇芳は、まだ乳しか飲めない赤子の頃の芹にさえ敬語を使ったと清三に笑われていたほど生真面目で慇懃な、忠義に厚い男だ。それが主と仰ぐ養親に襲いかかったなど、とうてい信じられなかった。
「まさか鬼の姿になってまで止めに来るとは思わなかったがな。とにかく、儀式は中断した。だが、眠りの祝詞は先に唱え終わっていてな、それがどうにも中途半端な状態で残ってしまったらしい。俺としたことが、解けるまで半年もかかった」
「俺はもう眠り続けなくていいんですか」
「もうまじないは解けたからな。以前のように、朝起きて、夜寝る営みに戻れるだろう。しばらくは違和感があるかもしれんが、それも直になくなる」
「あ、で、でも、そうしたらまた千茅さんは…」
不安から口をついて出た問いかけに、しかし黒縒は苦い顔をした。
「…俺は、お前のような良い心根のものに、とんでもないことをしでかしてしまったのだな。心配せずともよい、もう青玻は生まれ、あれはあれで、自分の神気を持っている。千茅に必要以上に神気を求めることもない」
「そうなんですか…それなら良かった」
命がけで青玻を産んだ千茅が、また眠りについてしまっては、しこりばかりが残ってしまう。しかしそれが避けられ、最善と思える結果になったことに安堵してほっと息を吐いた。
ひとまず話は現在に帰結し、途中に様々な擦れ違いはあったものの、誰か一人だけが重責を背負い続ける結果にはならずに済んだ。
半年も眠ってしまったことは驚いたし、さすがに戸惑いもしたが、その結果が現在ならば、それもよかったと思えた。
どうにか一息ついた雰囲気の中、ふと、それまで千茅の襟ぐりから顔だけ出して眠っていた青玻がぱちりと目を覚ました。くわあと小さな口を目いっぱい開けると、するりと袷から出てきて、そのままふわふわと飛んで行ってしまうと、慌てたのは両親だった。
「ああもう、青玻……ごめん芹さん、起きたばかりなのに無理させて。僕たちは退散するからゆっくり休んで。ほら黒縒、行こう。青玻を捕まえなきゃ」
「あ、ああ」
それじゃあまた、と黒縒を急き立てながら千茅は軽く会釈をして去って行った。
大襖がぱたりと音を立てて引き閉められると、広い儀式の間には、蘇芳と二人だけになる。すると、足音が遠ざかるのさえも待てないと言ったように、蘇芳が口を開いた。
「俺からも、謝罪をさせてください、芹様」
拳を膝の上で固く握りしめたまま、ひりつくような赤い目尻を隠しもせずに、蘇芳は痛いほどの強いまなざしを芹に向けた。
「不肖な鬼である俺に対し、幼い頃よりいつも笑顔を向けてくださっていたあなたを、養父であり主の命とは言え、危険にさらしたことをお許しください」
「そんな……いいよ、そもそも俺は、贄にされるって言われて育ったんだよ。それが、少し…半年眠っただけでもう大丈夫なんて、むしろ良い結果だよ」
贄といえば、それこそ食べられたり殺されたり、人柱として生きたまま葬られたりと、その命そのものが危険に脅かされるものだ。
けれど、芹は生きている。
永久の眠りにつき続ける恐れもあったが、今はそのまじないも解け、全てが上手くまとまった。謝られるどころか、諸手をあげて万歳をしたいほどだ。
けれど、事がすべて終わって安堵している芹とは裏腹に、蘇芳は険しい顔を崩しはしなかった。
「良くなどありません。それに俺は、あなたに嘘をつきました」
「嘘?」
なんの事だと芹が首を傾げると、蘇芳は深く深呼吸をして一拍の沈黙を置いた。
「……娶りたい相手がいるかと言われて、いると答えました。ですが、叶わないとも言いました」
「うん、でもそれは…」
千茅の事が好きだからだと言いかけて、芹は思わず口をつぐんだ。
蘇芳と千茅が八の館で抱き合っているのを見た時、芹は二人が互いに好きあっているのだと思ったが、蓋を開けてみれば、二人は親子だった。
けれど、親子とは言っても血の繋がりは一切ない。それならば、好きになっても、恋をしてもおかしくはない。むしろそれを否定してしまうことは、蘇芳に育てられた芹が自分の想いをなかったことにするようなものだった。
思いだしただけでずきりと痛んだ胸に、自分はそれでもまだ蘇芳の事が好きなのかと思い知らされた。
「…でもそれは、蘇芳が千茅様を好きだからでしょ?」
意を決して芹が言うなり、蘇芳が息を飲んだ。徐々に目が丸く見開かれ、もう何度目かになる喪失感に胸を軋ませながらもどこか冷静に、蘇芳の切れ長の目でも、こんなに丸くなるのかと思った。
「千茅様は…いえ、それは、親としてです。俺を拾い、育ててくださった千茅様はいわば母であり、主の御内儀。それ以上でも、それ以下でもありません。…娶りたい相手はいるんです。ただ俺は、叶わないと、叶えてはならないと自分に言い聞かせて何もせずにいた。ですが、今回のことで思い知りました。不敬と思われても構いません。俺は、父であり主君である黒縒様に逆らってでも、母である千茅様のためにならなくとも、あの儀式を打ち壊してしまいたかった」
襖を開け放した場所から、水の匂いがする涼やかな風が吹く。
一秒が長く、それこそ半年も眠っていた間の体感よりも、ずっと長く感じられる。
蘇芳はなにを言おうとしているのだろうと、芹は怖いような、泣きだしたいような気持で次の言葉を待った。
芹と蘇芳以外は誰もいない場所で、聞き間違いなど、聞き逃しなど許さない強さの朗々たる声が響いた。
「あなたを娶れたらと、ずっとそう思っていました」
風が吹いて庭の木々を揺らし、ざあとさざ波のような音を立てる。少し伸びた気がする髪の先が浚われて、首筋を撫でた。
「いつからかはわかりません。ただ、ずっと傍にいたいと思った。俺はそれに耐えていました。ですが、不埒な性根があるのでしょう。あなたからの誘いを断りきれなかった。お仕えする者として、あなたを守る者として、断るべきだったのに」
そう言って、まっすぐ芹に向けられていた視線を下に落とした蘇芳の姿を、芹は見たことがあった。
初めて肌を合わせた夜、部屋の隅でじっと座していた。あれは、蘇芳の自分への悔恨の姿だった。あの時、蘇芳は後悔を抱いたのだろう。主に手を出したことを、己が身も忘れ、淫蕩に耽ったことを。
蘇芳の懊悩はわかったが、芹はそれでも言いたいことがあった。
「でも、俺を、だ…抱いてって言っても…抱いてくれなかった!」
もう最後だと思った夜、意を決した願いは聞き届けられなかった。
だからこそ、もうこの想いを諦めようと思ったのに、なぜ今になってそんな事を言いだすのかと怒りさえ沸いてきたが、蘇芳も引き下がりはしなかった。
「それは…怖かったからです。最後まで抱かずとも、あなたの喜ばせるだけで俺は満足でした。それなのに、契ってしまったらもう、戻れないと思ったのです。俺はあなたの従者ですが、同時に黒縒様の臣下でもあります。せめてその一線だけはと思いました。その一線を越えさえしなければ、俺は黒縒様の恩義に報いられると思ったんです」
蘇芳は実直で馬鹿らしいほど生真面目な男だ。
そのまま死んで野に帰ってもおかしくなかったところを拾われ、育ててもらい、あげく仲睦まじい夫婦を引き裂く発端を担ってしまったことを、百年以上も後悔してきたことは、芹にだってわかった。黒縒に報いたいと思ったその気持ちは、ずっと彼だけを見てきた芹にとって、蘇芳らしいと素直に思える事だった。
だからこそ、蘇芳の行動には驚いた。
「…俺はあなたの願いを退けた。けれどやはり我慢が出来ませんでした。愚かだと思いました。俺は結局あなたを離すことが出来ない。貫くと決めた忠義も、報いようと思った恩も、あなたが奪われようとする前では、俺を止められはしませんでした」
能舞台に大穴を開け、襖を吹き飛ばし、大暴れしたという蘇芳をついさっき聞いたばかりだ。それだけでも信じられなかったのに、自分と比べるには重すぎるものを秤にかけていたのだと聞いて、芹は自分の顔が徐々に熱を持ち出したことに気付いた。
自分ばかりが恋をしていると思っていたが、その熱量をさらに超えたものを、今蘇芳は芹に手向けている。それは、恋と呼ぶには激しすぎ、また臆病でもある。
その感情の名前を、芹はまだ知らない。けれどその種が、胸の奥にしまい損ねた恋心の中にあることはわかった。
「不敬を承知で申し上げます。あなたを愛しています、芹様。どうか俺に、娶られていただきたい」
羞恥も謙遜も誇張もない、ただただ芹に真っ直ぐ響く声で蘇芳は告げた。
耳に届いた声は胸に響き、じんわりと体に広がっていく。
芹だけが返せる言葉を紡ぎたかったが、これだという言葉が見つからない。
ただ、愛しているという告白が、この恋を昇華させるものだということはわかった。そして、愛と呼べる感情が、その恋の中で確かに芽吹いていることも。
蘇芳は、じっと芹の答えを待っている。
しだいに赤くなっていく目元から頬にかけてを見ながら、ふと、本性である赤鬼の姿で赤面してもわかるのかな、と脳裏に浮かんだ疑問が我ながらおかしくて思わず小さく笑った芹は、自然と目尻に浮いた涙が頬を転がり落ちるのを追うように頷いた。
すぐに、伸びてきた腕が強く抱きしめてくる。その力強さをなんの躊躇いもなく受け入れられる幸せをいっぱいに享受しながら、蘇芳の背に腕を回した。
誰かのために生きることは、決して悪い事ではないのだろう。けれど、その理由を人にゆだねてしまってはいけない。
自分のために生きてみようと、芹は思った。
これまでは選ぶ岐路がなかったとはいえ、自分の事に無関心だった。だからこそ、自分で抱えた恋にさえ長い間気づけずにいた。けれどもう、それからは解き放たれた。
これからどう生きるかは、自分次第だ。人生も、命を賭けた恋も、自分で選んで決めていく。
うん、と芹は頷いた。
幸せになるために、幸せにするために、一度は諦めたこの恋を花開かせるために。
「俺を娶って、蘇芳。ずっと、傍にいて」
囁いた言葉の最後は、声にならなかったかもしれない。
いつだって丁重で優しく、穏やかな男は確かに獰猛な鬼だった。けれど、恐怖などは微塵もない。触れている唇から溶けるような、こんなに甘やかな接吻をするのだから。
涼やかな清風が、木の葉を巻き込みながら一陣吹いて抜けていく。
嬉しい涙に濡れてしまった唇を重ねあうふたりは、いたずら盛りの青玻が忍び込んできて芹の指先をつついて遊び始めるまで、互いの体温を確かめるように、分かち合うように、抱きしめ合っていた。
了
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今回も素敵でした~✨
ありがとうございました。
芹が眠る事を受け入れるまでの葛藤が泣けて泣けて…
色々な疑問が解決する怒涛の終盤、でも神様だから仕方ないかという諦め、とても面白く読ませて頂きました。
過去作の面々も優しく描かれていて楽しかったです!