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しおりを挟む手を通した小袖は、今までに触れた中で一番肌触りの良いものだった。
絹や、殿上人だけが着るような上等な糸で織られたものだろうとわかるそれは柄のない白一色のもので、袷こそ普通だったが、まるで死に装束のようだと思った。
儀式の朝、芹は褥の上で目が覚めた。出て行った蘇芳を追わずに星を眺めていたが、いつの間にか眠っていたらしかった。
おそらくは、戻った蘇芳が寝かせてくれたのだろう。しっかりと上掛けも被って目覚めた芹は、朝餉の代わりにと珍しく墨染が持ってきた白湯を飲み、少しの水菓子を食んだ。
蘇芳はどこへ行ったのか、姿が見えない。代わりに墨染が白一色の装束を持ってきた。
「こちらにお着替えください。お一人で大丈夫ですか?」
「はい」
「では、外で控えていますので、準備が出来ましたら声をおかけください」
「ありがとうございます」
そうして渡されたものに手を通し、帯を結んで布を整える。足袋まで履いてしまうと、顔と手以外は真っ白になってしまった。
脱ぎ捨てた小袖を適当に畳んで褥の傍に置き、くるりと部屋の中を見渡す。
なにか忘れ物はなかったかと思ったが、ここは蘇芳の部屋で、芹が持ち込んだものなど昨日読んだ書物が一冊だけだ。
持っていくことも出来ないし、あとでどうとでもしてくれるだろう。
部屋を出ると、廊下に墨染が膝をついて控えていた。芹が出るとすっと立ち上がり、こちらですと先に立って歩き出す。その後ろを歩きながら、髪を揺らす風を頬に感じた。
五の館から延々歩いて、一日ぶりに訪れた八の館は相変わらず静かだった。
物音ひとつない中を静かに歩きながら、芹はどんどん奥へ行く墨染の背を追い、やがて、八の館の奥からつながる、もう一つの館の屋根に気付いた。
「墨染さん」
「はい、なにか」
「あそこも八の館ですか」
黒縒の屋敷であるここは、八つの館で形成されていると聞いていた。館同士は橋のように渡された廊下で繋がっているため、渡り廊下を越えるのは、次の館に行くという印象があった。
「いえ、あちらは昨夜黒縒様が建立された、新しい館です。とは言っても、座敷はひとつと能舞台しかありませんが」
能舞台といえば、屋根の下には部屋があるわけでなく、屋根の下には四本の柱しかない。芹も実物は見たことがなかったが、絵草紙でなら知っていた。
どんな館なんだろうかと想像していると、やがて全容が見えてきた。
確かに、他の館とは違ってだいぶこじんまりとはしていた。館同士をつなぐ橋を渡った向こうには、墨染が言った通り能舞台があった。橋を渡ってちょうど正面に当たる場所には滝が描かれた壁があったが、よく見るとそれは、大きな襖が八枚連なったものだった。
そして、橋から襖までの間に人影があり、二つの列をなしている。その間が道になっており、襖へと連なっていた。あの襖の奥が儀式の間であるのは明白だった。
「……ここは涼しいですね。風が気持ちいい」
あの大きな湖が近いからだろう。澄んだ水の香りがする風が、さやさやと絶え間なく吹いている。じめじめと湿っていたり、逆に常に陽が当たり続けたり、土蔵のように真っ暗な場所だったら嫌だなと思っていたが、こんな風が吹く場所なら、まだいいのかもしれなかった。
「儀式の間ではありますが、芹様が今後安置される場所でもあります。より清らかな場所をと黒縒様がお決めになりました」
「そうですか」
芹には過酷な命を下した黒縒だが、それも理由があってのことだ。なんてひどいんだろうと思いもしたが、こうやって最良の場所を選んでくれたのは、純粋に嬉しかった。
やがて、橋に差し掛かった。これを越えたら芹はもう、逃げられなくなる。少しの緊張は喉を乾かしたが、深呼吸をすると、空気に多分に含まれた水分が、ひいやりと口内を冷やした。
道の両脇に立つのは、人の形をしていたり、妖の形をしていたり、様々だった。けれども一様に顔を面で隠していた。左右に彼らがいるうえ、背後に墨染が回り、逃げられはしない。深く息を吐いて、襖まで歩いた。
遠目にも大きい襖だと思っていたが、近くによると更にその巨大さを感じる。それこそ離れにあった十尺の塀ほどもあった。
「芹様の御参りです」
おもむろに墨染が声高に告げると、その声に応じて、襖が左右にすっと開いた。
「どうぞ、中へ」
促されて入った、これから芹が安置されるという場所は、縦に長い板間だった。一番奥の壁は板壁だったが、左右の壁はどうやら襖と同じようになっているらしく、全てが開かれて、心地よい風が吹き抜けていた。
部屋の奥には立派な神棚が設置されており、その前には黒縒が立っていた。彼の前には、畳一畳分ほどの大きさの白い寝台が二つ置かれており、二台は少し間を離して設置されていた。一方はなにも載っていなかったが、もう一方には人が横たわっていた。
(あれが、千茅様?)
芹からは足元しか見えず、どのような人物かはわからない。これ以上進んでいいのだろうかと逡巡していると、黒縒の声が飛んできた。
「隣の台へ、芹」
「……はい」
もう墨染はついては来なかった。一人でしずしずと歩き、台まで来ると、ようやく千茅の顔が見えた。
「あ……」
息を飲んだのはもはや無意識で、自発的には止められなかった。
白い台に横たわり、真っ白な瞼を降ろしていたのは、蘇芳を慰め、あやすように宥めていた、あの八の館の住人だった。
(なんで……?)
ここに居るということは、彼が黒縒の妻である千茅ということだ。けれど、彼は蘇芳とも抱き合っていた。宥め、抱きしめ、頭に口づけを落としていた。
どういうことだと混乱しながら、ぴくりとも動かずにまるで人形のように横たわったままの千茅を見つめる。
黒縒は本性が蛟の水神で、千茅はその細君だ。そして、蘇芳は黒縒の従者だ。
ぐるぐると目まぐるしく三人の関係図が回る。けれど、考えれば考えるだけ、芹の頭には疑問ばかりが増えていく。
黒縒は、不定期に起きて寝てを繰り返す千茅のために、芹を贄にすることにした。
蘇芳は、千茅に慰められていた。それも、口頭などではなく、その体に突っ伏し、半ば抱き着く形だった。千茅もそれを拒否せず、受け入れていた。
二人の間で、千茅という存在が揺れていく。
なにが正しいのか、なにが間違っているのか、芹にはわからない。ただひとつ納得がいったのは、蘇芳の言葉だった。
ーーー娶りたい相手はいるが、叶わない。
(千茅様の事だったんだ……)
確かに、娶りたくてもそれは叶わないだろう。相手は主である黒縒がなによりも大切にしている妻だ。蘇芳は鬼としては強いようだが、略奪しようにも神である黒縒には敵わない。むしろ、蘇芳という人柄が、そんな事を許すわけもなかった。
混乱の渦の中で、すとんと落ちてきた諦めだけが、深く心に沈んでいく。
もうどうせなにも関係なくなるのだ。
芹はこれから、眠りにつく。果ての見えない、いつ目覚めるかなど誰もわからない眠りだ。蘇芳の想い人が千茅であろうと、千茅が黒縒の妻であろうと、なにも関係がない。
結局は蚊帳の外だったと、ため息さえもこぼれなかった。
もうすべてがどうでもよくて、さっさと儀式に臨んでしまおうと、芹は台に上がった。
白い寝台はやわらかな綿の詰められた敷物で覆われており、背中を優しく受け止めてくれる。ここでなら、十年も百年も、千年だって眠れそうだなと思った。
鳩尾のあたりで手のひらを重ね、すっと目を閉じる。横になった体の上をふわりと漂う風が心地よく眠りを誘うようだ。
人の気配が動いて、芹は自分と千茅の間に誰かが立ったことに気付いた。恐らくは黒縒なのだろう。額に指先が触れ、聞いたこともない言葉を、静かで深い声が紡いでいく。
この期に及んで、芹は蘇芳が来てくれるだろうと思っていた。
蘇芳は細やかで優しい男だ。芹が贄になって千茅の代わりに眠ったら、きっとたまには見に来てくれる。それがすぐなのか百年あとなのかはわからないが、きっと来てくれるだろうと思えば、胸にぽかりと大きく開いた穴に、仮初の蓋がそっとかぶせられたような気がした。
そういえば、と芹は自分の手首を軽く探った。いつも祠参りの時には蘇芳から借りていた数珠をはめていた。あれさえあれば、風雨に祠が揺れても、得体の知れないものに名前を呼ばれても、何も怖くなかった。
借りておけばよかったなと思ったが、そういえば悪鬼たちに襲撃された時に、ほどけてしまったのを思い出す。せめて一粒でも持ち帰っていれば懐に忍ばせておけたのにと、今更悔やんだ。
黒縒の声が、少しずつ遠くなっている気がした。体から力が抜けていく。こうやって眠りに落ちるんだ、と冷静に思う芹の耳に、喧騒が聞こえた。
やめろだとか、止めろだとか、誰かが争っている音がした。なにかが壊される音もする。それにくわえ、室内の空気も変わったようだった。
「やめて、黒縒!」
悲鳴のような声が、すぐ隣で上がった。
「もう止めて、僕はもう大丈夫だからっ」
隣といえば、千茅が眠っていたはずだ。
無事に神気とやらが流れ込んだのか、やめてと騒いでいる。
どんと大きな音がして、喧騒が一気に近くなった。
「芹様っ!」
蘇芳の声がした。
聞いたこともないほど大きな声で、芹を呼んでいる。
とたんに芹は嬉しくなった。
こんなに大きな声で呼んでくれたら、もしかしたら夢の中にいてもわかるかもしれない。
(もう一度呼んで)
ふんわりと、真綿の中に落ちたように体が沈んでいく。足先から暖かなお湯に入るような心地だ。
自分を激しく呼ぶ声を聴きながら、芹の意識は穏やかな眠りの水面に溶けた。
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