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しおりを挟む悲しい時や嬉しい時に涙は出るが、しゃくりあげることもなくただただ溢れてくる涙というのを初めて経験しながら、芹は八の館の座敷にいた。
黒縒の前から逃げ出したものの、道は複雑で、そのうえ誰もいない。ふと我に返って、あっちだっただろうか、こっちだっただろうかと右往左往してみたが、一向に八の館と他の館を繋ぐ廊下は見つからず、どこかで落ち着きたいとほとほとと歩いた芹は、薄く開いた障子の向こうに小さな座敷を見つけて、そこに滑り込んだ。
さすがにすぐに見つかってしまうかと、続きの襖を少し引くと、その次も座敷になっていて、薄く開いた隙間からそろりと入ると、ようやくほっと息を吐くことが出来た。
ぼろぼろと零れてくる雫は尽きることなく頬を濡らし、そのせいで襟元はびしょびしょに濡れている。ひっくと引きつけのような大きなしゃくりあげはないものの、すんと鼻をすすると、押し出されるように、またぽろりと大粒の涙がこぼれた。
あまりにも恐ろしいことを突きつけられた。
神気を分け与えることは、まったく構わない。それで黒縒が何よりも大切にしているという妻が目覚め、普通の生活が送れるようになるのであれば、協力もしたいと思った。
けれど、その代償が、果てのない眠りというのはあまりにも衝撃があり過ぎた。
一年や二年眠っているならまだよかった。けれど、そもそも命の限りなどあるのかわからない神とその伴侶が尽きるまで死ぬことは出来ず、ただひたすらに昏々と眠り続ける。
それでは、蘇芳に会うどころか、見る事さえも叶わなくなる。そんな事はどうしても受け入れられなかった。
膝を抱えて小さくなり、こぼれる涙を袖に吸わせて、しばらく芹はそこから動かずにいた。
部屋に戻りたかったが、目は腫れぼったいし、息もまだ整わない。こんな姿を蘇芳や穂摘に見られれば、心配されてしまうに違いなかった。
しばらくそうやって涙が止まるのを待ち、なにもない小さな座敷でぼんやりと過ごしていた芹は、ふと聞こえた小さな声に顔をあげた。
なにを喋っているかまでは聞き取れないが、誰かが話している声がする。
ここに来るまで、八の館では誰も会わなかったはずだが、他に人がいたのかと体を竦めたが、ふと聞こえた声に、そろりと襖を振り返った。
「………」
微かに聞こえたその声は、蘇芳の声だった。
すぐ隣の間ではなく、ひとつかふたつ、部屋を挟んでいるようにくぐもってはいるが、間違うはずのない、蘇芳の声だ。
朝から姿を見ないと思っていたが、八の館にいたのかと隣の間に続く襖を薄く開けるとそこは空の座敷で、更にそこから隣へ繋がる襖を細く開けると、広い座敷があった。
その中央、芹からは離れた場所に、大きな御帳台があった。前後左右の几帳が上に巻き上げられているそこには、褥に横たわる人影があった。そしてその傍らに膝をついているのは、蘇芳だった。
蘇芳は顔を覗き込んでいるだけかと思ったが、しばらくすると人影がもぞりと動き、ぎこちなく体を起こそうとすると、甲斐甲斐しく背中を支えて起こした。
開け放たれた縁側から差し込む陽の光に逆光になり、消えてしまいそうな風情だったが、ふらふらと覚束なく頭を起こしているその人物を、芹は知らないまでも見たことはあった。
(夜に見た、幽霊…?)
蘇芳を追いかけて夜の屋敷を歩き回った時に見かけた、あの幽霊のような人間だった。
八の館の住人だったのかと目を瞬かせていると、ようやく自分で腰を据えて座った相手に、蘇芳はなにかをぼそぼそと告げ始めた。
相手はなにかを返すわけでなく、静かにそれを聞いている。
なにを話しているのかは聞こえず、蘇芳の表情もよくわからない。あれは誰だろうかと思いながら、隙間から様子をうかがっていた芹は、次の瞬間、まだ涙の粒が残るまつげに縁どられた双眸を大きく開いた。
蘇芳がおもむろに布団に突っ伏し、丸くなる。その背にまるで少年のような細さの体が覆いかぶさり、細い手がそっと撫で降りた。
「大丈夫」
微かなのに、凛と響く声が芹の耳にも届いた。
「…大丈夫、大丈夫だよ、蘇芳。…僕の愛しい蘇芳。泣かないで」
動いているのが不思議なほど、むしろ白い布でも巻きつけていると言われた方がまだ納得するほど白い手が、蘇芳の背を慰めるように撫でている。そして、見つめる目は優しかった。決して華やかでもなければ美しいというわけでもないが、穏やかで優しげな顔立ちをしたその人物は、自分の腹のあたりに顔を埋める蘇芳の頭に、唇を落とした。
「……っ」
黒縒に永久の眠りを突きつけられた時の恐怖よりも強く、ぐっと胸が詰まった。
競りあがって来たものは大きな衝動で、芹は唇を強く強く引き結び、瞼の裏に光が弾けるほどぎゅっと目を瞑った。
そうしないと、大きな声で喚いてしまいそうだった。ようやく止まったばかりの涙が、また粒を結んで頬を転がり落ちそうだった。
顎が痛くなるほど強く歯を噛みしめて、芹は一歩、後ろへ引いた。そのまま音を立てないよう、それだけに気を配りながら後ろへ下がっていく。そうして座敷を一つ抜け、二つ抜け、元の座敷に戻った芹は、溜まらずそこからも駆けだした。
なりふり構っていられず、廊下から飛び出して、いつかのように裸足で庭に駆け下りた。
触れたことのない感情が、芹を取り囲んでいた。
今しがた見た八の館の住人のことを、芹はなにひとつ知らない。それなのに、嫌いになった。
彼にすがっていた蘇芳に対して、怒りとも悲哀と困惑ともつかない思いが沸いた。
そして、なにより自分をみじめだと思った。恥ずかしくさえ思った。
芹にとっての蘇芳は世界の全てだが、蘇芳にとっての芹は、十数年の付き合いでしかないことを、芹は今までわからずにいた。けれど、彼には彼の世界がある。本来が、黒縒から遣わされた従者だ。芹と出会う前に築いた縁があってもおかしくはない。そして、そんな蘇芳を、芹は知らなかった。
蘇芳は言っていた。
娶りたい相手はいるが、叶わないと。
それはきっと、あの八の館の住人なのだ。芹の知らない、蘇芳の知っている、誰かなのだ。
知ったばかりの恋が、悲しみと羞恥と苦悩で崩れていく。
裸足の足は小石を踏みつけるたびに痛むのに、胸の奥がひび割れたように痛むせいで、芹は足の裏の皮が擦り切れて血がにじんでいることにも気付かないまま走った。
風雪に切り刻まれていくような心境とは裏腹に、やがて昼になろうとする庭は明るく穏やかで、けれど芹の冷えた胸を温められはしない。
散々に走って走って、ようやく体力が尽きたころ、芹は五の館のすぐ近くまで来ていた。
けれど、修復中の部屋には戻れない。
布団にくるまって、誰にも聞かれないように大声で泣き喚きたかったのにとどこか冷静な頭で考え、それならばどこへ、と踵を返す。
蘇芳の部屋は空いているだろうが、今は行きたくなかった。けれど、泣きはらした顔と土に汚れた裸足のままで書庫にも行けない。
自分はどこに行けばいいのだろうと立ち尽くした芹は、ふらふらとまた歩き出した。
この屋敷に心休まる場所がないのなら、出ればいい。一人になって、思う存分声をあげて、好きなだけ泣いて、そのまま眠ってしまいたい。
そう思った芹が庭を突っ切り、ふらふらと門を抜けようとすると、左右から伸びてきた槍が目の前で交差し、行く手を阻んだ。
「右丈さん、左丈さん」
いつもは芹が通っても、夕刻までには帰られよと声をかけられる程度だったのに、なぜ今邪魔をするのかと、真っ赤に腫れた目で胡乱に見上げると、左右に立った烏天狗は、鳥頭でありながら感情がありありとわかる顔をしかめた。
「黒縒様より仰せつかっている」
「すまんが、今日は外へは出せん」
気のいい二人だが、主である黒縒からの命には逆らえない。芹としても、普段明るく接してくれる彼らにこんな真似をさせるのは心苦しかったが、今はそれよりも、ここに居たくないという気持ちの方が幾分も強かった。
「止めないで。俺、一人になりたい」
交差した槍の下を潜ろうと屈むと、槍も下がる。それに苛立ちを覚えながら、ぐっと槍自体を押したが、簡単に跳ね除けられた。
「理由は知らんが、黒縒様から賜った命に背くことは出来んのだ」
「悪いと思わんでくれ」
右丈も左丈も謝罪を口にするが、芹を通してはくれない。
徐々に今までそれほど覚えたことのない怒りがふつふつと沸いてきた芹は、おもむろに槍に思い切り突進した。一点を押された槍は一度外に膨らんでほどけかけたが、すぐに持ち直して芹を内側へ押しやる。それでもぐいと押すと、一瞬槍の力が弱まって、反動で芹の体はふわりと外に投げ出されかけた。
出られる。
そう思った瞬間、ぶわりと突風が吹いた。咄嗟に瞑った目を開いたのは、そのほんのわずか後だった。
それなのに、目の前で交差して芹を阻む槍の向こうには、這う這うの体である芹などとは違い、着衣にも呼吸にも乱れのない黒縒が立っていた。
「お前には申し訳ないことをすると思っている。しかし、逃がすことは出来んよ」
この人は神なのだと、逆らう気力すら削がれて立ち尽くしながら思った。
芹を迎えてくれた日の嬉しげな顔も、願いを言えと脅しまでした鬼気迫る表情も、眠り続ける愛妻との日々を語る柔和でいながら寂寞の拭いきれない横顔も、どれもこれも彼という人柄に触れられるものだった。
けれど今、芹が前にしている黒縒には一切の感情がなかった。
申し訳ないと言いながら、その現実を告げる冷徹さは、憎しみや悲しみや苦しみといった、その前後にある感情さえ殺していた。
自分の欲のために人を殺すどころか、永劫の眠りに繋ぎとめることを、一切躊躇わない。それでいながら、まるで子飼いのように他人を利用してまで、恋しい相手を守ろうとする慈悲もある。
その強さと傲慢さと思いの深さは、まるで自然だ。山であり、川であり、空であり、風であり、そういうものなのだと思い知った。
「明後日、儀式を執り行う」
静かな断罪の声にかぶさって、芹様、と背後で誰かが呼んでいる。
振り向きたかったが、たった一晩と少しの間に、随分と疲れた気がする。首を捩るのさえ億劫で、それどころかここに立っていることさえ、どうでもよくなった。
(……夢ならいいな)
ぽかりと胸に浮いた思いはそれだけで、芹はまるで自分の体が泥のように重くなるのを感じた。そうしてそのまま意識が暗くなっていく。
次に目が覚めたら、離れの寝間だったらいい。それほど広くはないけれど、誰も侵しに来ることのない、芹と蘇芳だけの世界だ。
あの庭で蘇芳が取ってくれた柿が食べたいなと思いながら、芹の体はすとんと力を失った。
間一髪で伸びてきた腕は芹を抱き留めたが、意識はもう、眠りの向こうへと逃げた後だった。
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