花と娶らば

晦リリ

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 黒縒の屋敷での日々は、常に新しく、穏やかだった。
 これまで出来なかった外出は自由に出来るし、見聞が広がるだけやりたいことも増えてくる。退屈など覚える暇もない、めまぐるしい日常は、朝の目覚めからして、以前とは全く違った。
 以前は目覚めても蘇芳が来るまでは暇をつぶしたり布団の中でだらだらと怠惰を貪っていたが、今は目が覚めるとさっさと自分で身支度を整え、庭に出る。なにか特別なことがあるわけではないが、朝露が光る草に足を濡らしてみたり、まだ陽が昇りきらない薄闇の空を眺めてみたりすることが新鮮で、飽きることはなかった。
 そうこうしている間に朝餉を携えた蘇芳がやってくるので、今日の予定ややりたいことなどを話ながら残さずいただく。幸いにも、ここで出される食事は、人の世と何ら変わりのないものだった。最初の頃こそ書物で読んだような、赤子の腕や獣の尻尾、蜥蜴を入れた茶など出されたらどうしようかと震えていたが、毎日出される食事は、いたって普通のものだ。敢えて言うならば、北の海でしか捕れない魚と、南の暖かい場所でしかならない果物が同じ膳に並べられたりなどもしていたが、さすがにそれは芹も気付かなかった。
 朝餉を終えた後は、以前から蘇芳に習っていた、書や学問の時間にあてている。書庫から借りてきた書家の本を見ながら筆を走らせたり、算術の本を読みふけっているうちに昼餉の時間になる。昼餉も朝と同じように自室で摂る時もあれば、約束を取り付けた穂摘と市へ出たり、近くの森に散策に出かけながら、そこで食べたりもした。
 昼からは自由に過ごした。穂摘や、彼が一緒に連れてくる二人の子どもと遊ぶこともあれば、書物を脇に積み重ねてひたすらそれをめくる日もあり、好きな事に好きなだけ触れて過ごした。その間もたいてい蘇芳は傍にいて、芹が遊ぶのを見守っていたり、一緒に書庫を回ったりもした。
 陽が落ちれば夕餉をいただき、湯浴びをしたら寝るまでの間も自由だが、その頃には蘇芳も自室に戻っていく。その点は離れにいたころと変わらず、蘇芳を見送ってからは、寝床に入るようにしていた。
 その日も蘇芳が去ってから褥に横たわり、庭で鳴く虫の声に耳を澄ませながらうとうととしていた芹は、ふと廊下に面した障子に人影が写ったのに気付いた。
 上背のある体躯に、頭のあたりから伸びる角の影に誰だろうかとぼんやりと思っていると、久々に聞く声が障子越しに静かに響いた。
「芹よ。もう休んだか」
「……黒縒様!」
 夜陰に沈むような深く低い声の主にすぐ思い至り、慌てて体を起こすと、はははと笑い声をあげながら、この屋敷の主がすらりと障子を開いた。
「微睡んでおったか。すまぬな、この夜更けに」
「いいえ、申し訳ありません、寝間着のままで…」
 あまりに突然の事で、夜着にしている薄い小袖一枚の姿だ。貴人の前に出るにはあまりに不敬な自分の恰好に慌てふためいて、咄嗟に衣文掛けにあった袿を一枚羽織ったが、黒縒は気にする様子もなく、よいよいと手を振った。
「少し話をするだけだ、まあ座れ」
「は、はい」
 どっかりと座りこんだ黒縒の下座に腰をおろすと、今日は珍しく蛟の姿ではない男は、上から下まで芹を眺めて、整った顔を笑ませた。
「相変わらず、お前の神気は芳醇だな。まるで滝のようだが、お前自身、それほど垂れ流しにしていて疲れたりはせんのか」
「いえ、疲れなどは……」
 芹は、自分に強い神気が備わっていると自覚したことがない。なにか特別なことが出来るわけでなく、産まれた時からそう言われていても、自身で調整したりすることもない。
 今も疲れていないかと問われれば疲れているが、それは昼間に蘇芳と森を散策したからだ。単なる肉体的な疲れであって、一晩寝れば、明日には忘れている程度のものだ。
 芹が首を左右に振ると、黒縒は少し考えるように自分の顎を撫で、それから自分で何かを納得したのか、うんと頷いた。
「……まあ良いさ。ところで、不便などはないか?」
「ありません。すごく良くしていただいています。…あの、黒縒様」
「なんだ?」
「俺、こちらへはなにか、神子のような役割で来たのだと思っていました」
 藤村の離れにいた頃、蘇芳からは潤沢な神気を生かして、神子のような要職に就くかもしれないと言われていた。けれど実際こちらに来てひと月が経とうとしているが、要職に就くどころか、毎日遊び暮らしている。最初の頃こそ、自由の素晴らしさに目が眩んでいたが、毎日を過ごしていくうちに、屋敷にいるものはなんらかの役職を得ていると気付いた。
 厨には毎食美味しい膳を作ってくれるのっぺらぼうがいて、書庫では大蜘蛛が八本もある長い手足を使って、蔵書の整理をしている。門番の付近には右丈と左丈が立っていて、毎日欠かさず警護に当たっている。他にも馬の世話をする牛頭鬼や、鋏の形をした両手を忙しそうに動かして庭の木を剪定していく網切や、氷室の番をしている雪女など、みながそれぞれの仕事についている。蘇芳は芹の護衛のほかに黒縒の御用聞きもしているし、穂摘も子どもを育てながら夫である薬師の志郎を手伝っている。芹だけがなにもせずにいると気付いたのだ。
「けれど、毎日自由に好きなようにさせていただいています。……なにか、俺がここですべきことはないのでしょうか」
 事情があって幽閉されていた以前ならまだしも、今はそれなりに自由だ。ただ飯をひたすら消費していくのではなく、自分に出来ることがあるならそれに従事したい。
 訴える芹をじっと見下ろして、黒縒はしばらく考え込んだようだったが、すぐに答えをくれた。
「お前はいるだけで良い。その神気があるだけで、俺にとっては十分な役割を果たしておるよ」
「いるだけで、ですか」
「そうさ。お前の神気がここに…俺の神域にあるだけで、今は十分よ。むしろ、毎日健やかに過ごしてくれ。神気が濁らぬよう、揺らがぬよう、尽きぬようにな」
「……はい」
 そうは言われても、芹にはなにもわからない。
 なにをすれば、自分に宿るという神気とやらに影響が出るかなど、生まれから一度も意識したことがない。
 せっかく自分の特異な性別についての悩み事が解消された今、なにをどうすれば自分がここに居続けられるのか、蘇芳の傍に居られるのかを悩み始めた芹にはなにもかもがわからな過ぎて、ただ頷くことしか出来ない。
 肩を落とした芹の頭を、しかし黒縒は慈しむように大きな手のひらでそっと撫でた。
 その日の夜から、黒縒は夜更けにたまに訪れることが増えた。
 初めこそ緊張したが、黒縒は大らかで穏やかだった。今日は何をした、良いことはあったかと芹の話を促し、にこやかに聞いてくれる。芹からも何か話をとねだると、様々な話をしてくれた。
「……それでな、うっかり山頂で眠ってしまったのよ。しかし酔っておってな、うっかり寝返りをうったらそのまま転げ落ちてしまった」
「蛟のままですか?」
「そうとも。それも、八尋の太さの姿でな。そうしたら、そのまま落ちた先が細く長く窪んでしまって、そら、村の近くに川があっただろう。あれは俺が昔転がったせいで出来た川よ」
「えっ、あの大きな川、黒縒様の寝返りで出来た川だったんですか」
「まあ、もう五百…いやもっとだったかな。昔の話だがな」
「き、気を付けてくださいね、今はあのあたりはたくさん人が住んでいます」
「はは、今はもうせぬよ。さすがにあれは痛かった」
 そんなふうに互いにひとしきり話をして、一刻もすれば黒縒は帰っていく。その前に、必ず芹の頭を撫で、溢れ流れているという神気とやらを確認してから、黒縒は腰をあげていた。
 そのたびに芹は、自分の役割は本当にこれだけでいいのだろうかという気持ちが大きく膨らんでいくのを感じていた。



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