24 / 43
24
しおりを挟む黒縒の屋敷での日々は、常に新しく、穏やかだった。
これまで出来なかった外出は自由に出来るし、見聞が広がるだけやりたいことも増えてくる。退屈など覚える暇もない、めまぐるしい日常は、朝の目覚めからして、以前とは全く違った。
以前は目覚めても蘇芳が来るまでは暇をつぶしたり布団の中でだらだらと怠惰を貪っていたが、今は目が覚めるとさっさと自分で身支度を整え、庭に出る。なにか特別なことがあるわけではないが、朝露が光る草に足を濡らしてみたり、まだ陽が昇りきらない薄闇の空を眺めてみたりすることが新鮮で、飽きることはなかった。
そうこうしている間に朝餉を携えた蘇芳がやってくるので、今日の予定ややりたいことなどを話ながら残さずいただく。幸いにも、ここで出される食事は、人の世と何ら変わりのないものだった。最初の頃こそ書物で読んだような、赤子の腕や獣の尻尾、蜥蜴を入れた茶など出されたらどうしようかと震えていたが、毎日出される食事は、いたって普通のものだ。敢えて言うならば、北の海でしか捕れない魚と、南の暖かい場所でしかならない果物が同じ膳に並べられたりなどもしていたが、さすがにそれは芹も気付かなかった。
朝餉を終えた後は、以前から蘇芳に習っていた、書や学問の時間にあてている。書庫から借りてきた書家の本を見ながら筆を走らせたり、算術の本を読みふけっているうちに昼餉の時間になる。昼餉も朝と同じように自室で摂る時もあれば、約束を取り付けた穂摘と市へ出たり、近くの森に散策に出かけながら、そこで食べたりもした。
昼からは自由に過ごした。穂摘や、彼が一緒に連れてくる二人の子どもと遊ぶこともあれば、書物を脇に積み重ねてひたすらそれをめくる日もあり、好きな事に好きなだけ触れて過ごした。その間もたいてい蘇芳は傍にいて、芹が遊ぶのを見守っていたり、一緒に書庫を回ったりもした。
陽が落ちれば夕餉をいただき、湯浴びをしたら寝るまでの間も自由だが、その頃には蘇芳も自室に戻っていく。その点は離れにいたころと変わらず、蘇芳を見送ってからは、寝床に入るようにしていた。
その日も蘇芳が去ってから褥に横たわり、庭で鳴く虫の声に耳を澄ませながらうとうととしていた芹は、ふと廊下に面した障子に人影が写ったのに気付いた。
上背のある体躯に、頭のあたりから伸びる角の影に誰だろうかとぼんやりと思っていると、久々に聞く声が障子越しに静かに響いた。
「芹よ。もう休んだか」
「……黒縒様!」
夜陰に沈むような深く低い声の主にすぐ思い至り、慌てて体を起こすと、はははと笑い声をあげながら、この屋敷の主がすらりと障子を開いた。
「微睡んでおったか。すまぬな、この夜更けに」
「いいえ、申し訳ありません、寝間着のままで…」
あまりに突然の事で、夜着にしている薄い小袖一枚の姿だ。貴人の前に出るにはあまりに不敬な自分の恰好に慌てふためいて、咄嗟に衣文掛けにあった袿を一枚羽織ったが、黒縒は気にする様子もなく、よいよいと手を振った。
「少し話をするだけだ、まあ座れ」
「は、はい」
どっかりと座りこんだ黒縒の下座に腰をおろすと、今日は珍しく蛟の姿ではない男は、上から下まで芹を眺めて、整った顔を笑ませた。
「相変わらず、お前の神気は芳醇だな。まるで滝のようだが、お前自身、それほど垂れ流しにしていて疲れたりはせんのか」
「いえ、疲れなどは……」
芹は、自分に強い神気が備わっていると自覚したことがない。なにか特別なことが出来るわけでなく、産まれた時からそう言われていても、自身で調整したりすることもない。
今も疲れていないかと問われれば疲れているが、それは昼間に蘇芳と森を散策したからだ。単なる肉体的な疲れであって、一晩寝れば、明日には忘れている程度のものだ。
芹が首を左右に振ると、黒縒は少し考えるように自分の顎を撫で、それから自分で何かを納得したのか、うんと頷いた。
「……まあ良いさ。ところで、不便などはないか?」
「ありません。すごく良くしていただいています。…あの、黒縒様」
「なんだ?」
「俺、こちらへはなにか、神子のような役割で来たのだと思っていました」
藤村の離れにいた頃、蘇芳からは潤沢な神気を生かして、神子のような要職に就くかもしれないと言われていた。けれど実際こちらに来てひと月が経とうとしているが、要職に就くどころか、毎日遊び暮らしている。最初の頃こそ、自由の素晴らしさに目が眩んでいたが、毎日を過ごしていくうちに、屋敷にいるものはなんらかの役職を得ていると気付いた。
厨には毎食美味しい膳を作ってくれるのっぺらぼうがいて、書庫では大蜘蛛が八本もある長い手足を使って、蔵書の整理をしている。門番の付近には右丈と左丈が立っていて、毎日欠かさず警護に当たっている。他にも馬の世話をする牛頭鬼や、鋏の形をした両手を忙しそうに動かして庭の木を剪定していく網切や、氷室の番をしている雪女など、みながそれぞれの仕事についている。蘇芳は芹の護衛のほかに黒縒の御用聞きもしているし、穂摘も子どもを育てながら夫である薬師の志郎を手伝っている。芹だけがなにもせずにいると気付いたのだ。
「けれど、毎日自由に好きなようにさせていただいています。……なにか、俺がここですべきことはないのでしょうか」
事情があって幽閉されていた以前ならまだしも、今はそれなりに自由だ。ただ飯をひたすら消費していくのではなく、自分に出来ることがあるならそれに従事したい。
訴える芹をじっと見下ろして、黒縒はしばらく考え込んだようだったが、すぐに答えをくれた。
「お前はいるだけで良い。その神気があるだけで、俺にとっては十分な役割を果たしておるよ」
「いるだけで、ですか」
「そうさ。お前の神気がここに…俺の神域にあるだけで、今は十分よ。むしろ、毎日健やかに過ごしてくれ。神気が濁らぬよう、揺らがぬよう、尽きぬようにな」
「……はい」
そうは言われても、芹にはなにもわからない。
なにをすれば、自分に宿るという神気とやらに影響が出るかなど、生まれから一度も意識したことがない。
せっかく自分の特異な性別についての悩み事が解消された今、なにをどうすれば自分がここに居続けられるのか、蘇芳の傍に居られるのかを悩み始めた芹にはなにもかもがわからな過ぎて、ただ頷くことしか出来ない。
肩を落とした芹の頭を、しかし黒縒は慈しむように大きな手のひらでそっと撫でた。
その日の夜から、黒縒は夜更けにたまに訪れることが増えた。
初めこそ緊張したが、黒縒は大らかで穏やかだった。今日は何をした、良いことはあったかと芹の話を促し、にこやかに聞いてくれる。芹からも何か話をとねだると、様々な話をしてくれた。
「……それでな、うっかり山頂で眠ってしまったのよ。しかし酔っておってな、うっかり寝返りをうったらそのまま転げ落ちてしまった」
「蛟のままですか?」
「そうとも。それも、八尋の太さの姿でな。そうしたら、そのまま落ちた先が細く長く窪んでしまって、そら、村の近くに川があっただろう。あれは俺が昔転がったせいで出来た川よ」
「えっ、あの大きな川、黒縒様の寝返りで出来た川だったんですか」
「まあ、もう五百…いやもっとだったかな。昔の話だがな」
「き、気を付けてくださいね、今はあのあたりはたくさん人が住んでいます」
「はは、今はもうせぬよ。さすがにあれは痛かった」
そんなふうに互いにひとしきり話をして、一刻もすれば黒縒は帰っていく。その前に、必ず芹の頭を撫で、溢れ流れているという神気とやらを確認してから、黒縒は腰をあげていた。
そのたびに芹は、自分の役割は本当にこれだけでいいのだろうかという気持ちが大きく膨らんでいくのを感じていた。
10
お気に入りに追加
86
あなたにおすすめの小説
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です!
小説家になろうでも10位獲得しました!
そして、カクヨムでもランクイン中です!
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。
いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。
欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・
●●●●●●●●●●●●●●●
小説家になろうで執筆中の作品です。
アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。
現在見直し作業中です。
変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
【完結】運命さんこんにちは、さようなら
ハリネズミ
BL
Ωである神楽 咲(かぐら さき)は『運命』と出会ったが、知らない間に番になっていたのは別の人物、影山 燐(かげやま りん)だった。
とある誤解から思うように優しくできない燐と、番=家族だと考え、家族が欲しかったことから簡単に受け入れてしまったマイペースな咲とのちぐはぐでピュアなラブストーリー。
==========
完結しました。ありがとうございました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる