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しおりを挟む「それでは、夕餉までには必ずお戻りください」
「うん」
「屋敷の外には出ても構いませんが、大鳥居より向こうは行かないでください」
「わかった」
「お小遣いも使いすぎませんよう。ご自分で持てるだけを買われて下さい」
穂摘と約束をした日、初めて一人で外出することになった芹は朝餉を平らげてからずっと小言を言ってくる蘇芳に辟易していた。
外出とは言っても、一の館で穂摘と待ち合わせをして、そのあとは市でも覗きながら、聞きたいことを少し聞くだけだ。夕餉どころか陽が沈む前には戻ってくる予定だが、芹を一人で外に出したことのない蘇芳は心配らしく、あれやこれやと言い立ててくる。それを聞き流しながら、書庫に返す書物を揃え、すべて持っていくのはさすがに怖いからと、小分けにした袋に少しだけ金の粒を入れたものを懐に入れてしまえば準備は万端だ。
そろそろかなと庭を見やると、そろそろ影が一番小さくなる時間になろうとしていた。
「あ、そろそろ行こうかな」
「芹様、もし外で迷子になった場合は」
「大丈夫だってば。穂摘もいるし。もし迷ったときは、すぐにお店の人に話すから大丈夫」
「……わかりました。それでは、お気を付けて」
「うん、行ってきます」
仏頂面にまだなにか言いたげな雰囲気を漂わせる蘇芳に見送られて五の館を出た芹は、ここ数日で覚えた一の館までの廊下を迷わずに辿って、書庫までやって来た。
まだ足を踏み入れていない館もいくつかあるが、外への出入りの際に必ず通る一の館と五の館内は全て歩いて回ったので、迷うことはない。すんなりと着いた書庫で書物を返し、約束していた『は』の棚のあたりで書物を見ながら待っていると、やがてもせずに穂摘が現れた。
「すみません、遅くなりました」
「ああ、うん。さっき来たから大丈夫」
走ってきたのか、少し息の切れている穂摘は、ふうと一息つくと、にこりと笑った。
「昼餉は食べましたか?」
「まだだよ。穂摘は食べた?」
「俺もまだです。市でなにか物色しましょうか」
連れ立って屋敷を出た二人は、先日も訪れた市をどこへ行くという目的もなく歩き始めた。
神域に来るまでは外出と言えば祠参りくらいのものだった芹の、初めての蘇芳以外との外出だ。緊張して変な事を言ってしまったり、常識はずれな事をしてしまわないだろうかという心配はあったが、穂摘の穏やかな雰囲気は、その緊張を柔らかくほぐしてくれた。
「……それじゃあ、家は近いんだね」
「はい、ここからなら歩いて半刻もかからないです。もっとも、通り道を通ってるので、実際どのくらい歩いてるかはわからないです」
「通り道って?」
「なんて言えばいいんだろう……例えば、すごく離れたふたつの池があるとして、俺たちはそこに住む魚です。飛んで行くことは出来ないし、陸に上がったら死んでしまうんですけど、不思議な力…神気で、池から池に移動できる。そんな感じです」
「じゃあ、穂摘の住んでいる里と、黒縒様の神域は、普通に歩いては行けないの?」
「そうですね。普通の人なら、歩いても歩いても同じ場所をずっと歩いているだけになってしまうと思います。俺も最初はそうで、一人では来られなくて。でも、今は神気で行き来してるから……ああ、この店はどうですか。煮物が美味しいんです」
癖だという丁寧な言葉で説明をしながら促されたのは、簡単な膳を出してくれる一膳飯屋だった。二人でそれぞれ煮物と茶椀飯を注文すると、やがて注文したものがやってきた。
湯気を立てる煮魚と根菜の煮物を持ってきてくれたのは若い女性だったが、彼女が料理を置いてくるりと背を向けると、その首元にもばくりと大きな口が開いていて、「ごゆっくり」と言った。明らかな妖だったが、意外なほどに順応している芹は、わあすごいという感想を、口に出さない程度に抱いた。
「いただきます。……そういえばさっき、最初は一人で来られなかったって言ってたけど、誰が連れてきてくれてたの?」
「ああ、それは志郎さんです」
「志郎さん?」
「…あれ、話していなかったですか? 俺の夫です」
「おっと…?」
それは一体なんだっただろうかと、咄嗟の単語に反応できずにいる芹の目の前で、穂摘は少しばかり頬を赤らめて微笑んだ。
「はい」
恥ずかしげにも見えるのに、幸せなのだとわかる笑みで頷く穂摘が嘘を言っているようには見えないが、その実、穂摘はどう見ても少年だ。男だが、夫がいる。夫がいるが、男で、少年で、どういうことだろうと悶々と考えながら、箸に挟んだままだった大根を口に運ぶ。出汁の染みた大根はやわらかく、口の中でほろりと崩れる。それをもぞもぞと咀嚼して飲み込んで、ようやく芹は口を開いた。
「穂摘は、その…男の人と祝言をあげたの?」
「そうです。ええと……十年前ですね」
「えっ、穂摘って二十歳超えてるん……超えてるんですか」
どう見ても十代半ばで、よもや年上には見えない。慌てて言葉尻を改めると、年齢不詳な友人は楽しげに笑った。
「言葉づかい、そのままでいいですよ。俺のは癖みたいなものだし。二十はもう超えているけれど、俺の年齢は十七あたりで止まってしまったので、これ以上は老けません」
「十七で止まった?」
確かに言われれば、その年頃に見える。どういう事だと箸を止めると、穂摘は冷めますよと言って、粟ご飯の盛られた茶碗を持った。
「はい、その頃に子どもが出来たので」
「えっ、穂摘、子どもいるの」
促されてつまんでいた魚が、驚きでぐっと握った手のせいで動いた箸の間で真っ二つになって皿に落ちる。跳ねはしなかったが、さすがに行儀が悪いと気付いた芹は、大きな声を出してしまった恥ずかしさも相まって縮こまりながら、美味しそうに根菜を口に運ぶ友人に、「ご飯終わったら、詳しく聞かせて」と囁いた。
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