花と娶らば

晦リリ

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 器用な手が、腫れて熱を持つ足にするすると布を巻きつけていた。
 庭先で足を洗った後、蘇芳は芹を抱き上げて離れに入ると、上がり框に座らせて、すぐに手当てを始めた。様々なところに打ち付けた腕や足についてしまった傷や汚れを拭うと、手にした包みから取り出した軟膏を細かいところまで見逃さず塗りつけた。最後に、腫れた足に残りをすべて開けて擦りこむと、不思議と痛みは拭ったようになくなった。
「沁みますか」
「大丈夫……痛みも引いてる。これ、もしかして昔俺が火傷したときの?」
 蘇芳が取り出した軟膏の小さな壺には見覚えがあった。
 幼い頃、庭で芋を焼いているそばでちょろちょろと走り回っていた芹がうっかり転び、触れた燃えさしが腕に当たって火傷をしたことがあった。あっという間に水ぶくれになってしまったそこはじくじくと膿み、その晩芹は熱を出した。痛みと熱とにうなされて力なく泣く芹をあやしながら蘇芳が塗ってくれたのが、この軟膏だった。
「とてもよく効きますが、誰かに知られると取られてしまうかもしれない。内緒ですよ」
 そう言って火傷に塗りこまれると、すっと痛みが無くなり、そのまま芹は寝入ってしまった。翌日には何事もなかったのように熱も下がり、水ぶくれもすっかり消えて、その後三日ほどで火傷は跡形もなくなった。
 あまりにあっさり完治してしまったため、芹も火傷したのは夢だったのではと思っていたが、この壺は確かに熱と痛みにうなされたあの夜に見たものだった。
「覚えていましたか。そうです、あの時の軟膏です」
「骨と筋にも効く?」
「塗れる場所なら、大体は。俺の知り合いのあちらの薬師が作ったものです。よく効くので、いくつか貰っておいたんです」
 軟膏を塗った膝下から足首までしっかりと布を巻き終わると、瓶のふたをしめながら、蘇芳はさらりとあちらと言った。
 それに芹は気付き、また蘇芳もその言葉の意味に沈黙した。
 蘇芳が言うあちらとは、神として祀っている八尋がいる場所のことだろう。それはどこなのか、まずはそこから、芹は知りたかった。
「……蘇芳は、どこから来たの」
 父の清三の話では、自ら藤村の家の門を叩いてきたという。八尋から遣わされた事以外、出身も生家も語ることはなく、蘇芳について芹が知っていることは、驚くほど少なかった。
「俺は、瑞治山から来ました」
 ぽつりと零された問いかけに、蘇芳は言いよどむこともなく答えはじめた。
「瑞治山には大社があります。さち様の母君のご実家です」
「お祖母さまの実家…?」
「はい」
 瑞治山の名前は聞いたことがあった。ここから少し離れたところにある山並みの中で一番大きな山だ。芹は行ったことがなかったが大社が置かれており、手厚い信仰を集めているというのを書物で読んだことがあった。
「瑞治山大社に祀られているのは八尋様です。ですが、大社にあるのは飽くまで信仰の媒体となるもの。八尋様ご自身は、神域にて過ごされています」
「神域ってなに?」
 聞き馴染みのない言葉だ。今までに読んだ本の中にそんな言葉はあっただろうかと記憶の中をさらっていると、蘇芳は包みの中に瓶や布をまとめて隅に寄せて立ち上がった。
「神域は、神がいらっしゃる場所です」
 喋りながら居間に上がった蘇芳は、開け放しているせいで一間のようになっている芹の私室に入ると、押し入れを開いて布団を引き出した。
「俺はそこで育ちました」
 芹の知らない過去を話しながら、けれども手ではいつもの通り布団を敷いて寝床を整えた蘇芳はまた戻ってくると、芹の脇と膝裏に手を差し入れて、ひょいと抱き上げた。そのまま布団まで運ぶと、尻から下ろし、芹の手が敷き布団に触れると、布を巻きつけた足を最後に下ろした。
「……鬼は、悪いものばかりじゃないの?」
 抱き上げられたときに密着していた体が離れると、今まで重なっていた場所が妙に寂しく感じる。無意識に右手で左腕を撫で下ろすと、寒がっていると思ったのか、すっと立ち上がった蘇芳の手が、衣文掛けにあった羽織を芹の肩にかぶせた。
 鬼妖は、恐ろしいものと幼い頃から聞いている。父の清三に言い聞かせられ、養母の妙が幼い頃に読み聞かせてくれたお伽話でも、それらは悪しく恐ろしい存在だった。実際、今日見た鬼は恐ろしいものだった。禍々しく、人に害をなした。
 けれど、自分を鬼だと言い、鬼に変化する蘇芳を、決して悪しき存在などとは言えない。また、彼は神が治める土地で育ったと言う。悪しき心は持たず、神に仕える鬼などいるのかと感嘆と疑問に満ちた声に、蘇芳ははいと頷いた。
「人里に下りるのは悪鬼が多いです。奴らは人に害を与え、家畜を奪い、時には疫病をもたらす。そういう性分です。ですが、人間が十人十色であるように、俺のように八尋様に…神に仕え、使役される鬼もいます」
「それなら……蘇芳の本当の姿は鬼?」
「そうなります」
「いま、鬼の姿に…なれる?」
 小袖と括袴姿に脚絆をつけているだけの蘇芳は、人間にしか見えない。しかし恐る恐る零した芹の問いかけにすっと立ち上がった蘇芳は、失礼と言い置いて小袖を抜き、括り袴も緩めた。脚絆を取り外すと、芹から少し離れた。
「……あ……」
 芹から三尺ほど離れて胡坐をかいて座った蘇芳の体が、まるで水面に結んだ像のようにぶわりと揺らめき、それがしっかりとした形を持った時には、そこには赤銅色の肌をした鬼が座っていた。
 改めて見ると、やはりあの青錆色の鬼と同じか、それ以上に大きかった。
 しなやかな筋肉がついていた首筋から肩にかけては太く隆起し、そこから伸びる腕も、若い樹のようなしなやかさと力強さがあった人間の腕からは二回りほども太く長い。元から日々の生活や剣術の鍛錬のために大きかった手のひらは更に広くなり、芹の頭などやすやすと一掴み出来そうなほどだ。胸板は厚くなり、腹筋もでこぼこと隆起している。人の形をとっていた時は二巻して腹の真ん中で結んでいた紐が解かれてようやく括袴に収まっている程度に腰周りも太くがっしりと逞しさを増し、胡坐をかいている脚も頑健なものになっていた。
 まるで違う外見になったものの、顔つきは青錆色の鬼に比べて幾分も穏やかで、人間に酷く近い。人と比べると少しばかり口は大きいようだったが、牙が飛び出しているということもない。目も鼻も、色こそ黒ずんだ赤をしているものの、よく見ると顔のつくりは蘇芳そのものだった。
 けれどそれを一蹴するように、額より少し上のあたりに、二本の太い角が生えていた。
 磨き上げた黒檀のように滑らかに光をはじく黒い角。わずかに内側に丸く湾曲したそれは決して小さなものではない。座っていても見上げるほどに大きいため、それが実際どのくらいの大きさなのかと芹が呆然と見上げていると、ひょいと蘇芳が頭を下げた。
「どうぞ。作り物ではありません」
「触っても大丈夫?」
「無理に折ろうとしたりしなければ大丈夫です」
「そんなことしない!」
 かっとなって声をあげると、俯いている蘇芳が笑った気配がした。張りつめていた空気が少し緩み、どこかほっとしながら目前にまで下りてきた角に手を伸ばす。
 黒光りするそれは、冷たくもなければ、温かいわけでもなかった。見た目通りしっかりとした感触があり、撫でると磨き上げた石のようにすべすべとしている。するりと先端まで撫で上げて突端に触れてみたが、僅かに丸みを帯びていて、触れても芹の肌を傷つけはしなかった。
「本当に…角なんだ」
 なめらかな感触が心地よく、上から下まで撫で、生え際はどうなっているのだろうと覗いてみる。するとそこはまるで爪とその生え際の境のようになっていて、角が生えている場所以外からは当たり前だが、髪が生えていた。
「芹様、あまり触るとくすぐったいです」
「え、あ、ごめん」
 見慣れないものに夢中になるあまり、気付けば蘇芳の頭を抱くようにしながら角に触れていた。声をかけられて慌てた芹が角から手を離すと、のっそりと蘇芳が顔をあげる。ごきごきと音を鳴らしながら首を大きくひねると、芹が触っていた角の付け根あたりがまだくすぐったいのか、指先でかりかりと掻いた。
「まがい物ではないと、信じていただけましたか」
「うん」
 付け根も確認したし、その感触も、牛や何かの角を取ってきてつけたようなものではなかった。
 すごいものに触れたと興奮しながら大きく頷いた芹だったが、あ、と気付いて思わず顔を俯けた。
 紛うことなく本物であるということは、蘇芳が人ではないなによりの証拠だ。鬼だろうが人だろうが蘇芳は変わらないが、どうしてと心の中には靄が広がる。けれど、その靄の正体がいまいち掴めない。
 蘇芳は鬼だった。けれど、いい鬼だった。それでいいはずなのに、晴れない胸中に芹が俯いたままでいると、視界の端がゆらりと揺らいだ。ちらりと見ると、いつも通りの、人間の姿になった蘇芳がいた。
「お疲れになられましたか」
「……そうじゃないんだけど…でも、少し休みたい」
 もやもやとした胸の内が不快でならない。それに、足の腫れから来ているのだろう。体が少しばかり熱っぽかった。
「葛湯をいれましょう。先に横になっていてください」
「うん……」
 さっと身繕いを整えた蘇芳は、先ほどまで巨躯の鬼だったとは思えないほど、普通の人間らしい身のこなしで土間に下りて行った。その後ろ姿を眺めながらもぞもぞと布団に横たわり、慣れた手つきで火を焚いて湯を沸かす背中を眺める。
「蘇芳」
「なんですか、芹様」
 芹が声をかけたのは、かまどにかけられた鍋の中で、くつくつと湯が沸けた頃だった。持ってきた包みから薬包を取りだし、その中身がさらさらと碗に注がれる。そこに湯が入ると、むわっと湯気が立ち上がった。
 碗を持ってきた蘇芳が傍に座り、芹ものろのろと体を起こす。受け取った茶碗は暖かく、なかにはとろりとした葛湯が入っていた。
 ふうと息を吹きかけて冷ましながらもやもやの糸口を探した結果、するりと口から零れたのは、純粋な疑問だった。
「蘇芳は、なんで俺にずっと隠してたの」
「………」
 落ちた沈黙は、今まで蘇芳と一緒にいた時間の中で、感じたことがないほどの居心地の悪さをもたらしている。
 聞かなければよかったと思いさえしながら茶碗を傾けて葛を舌に載せると、気まずい雰囲気にそぐわないほど温かく甘かった。
「……そうですね」
 こくりこくりと一口ずつ飲んで、葛がほとんど残らなくなった頃、ようやく蘇芳が口を開いた。
「隠していたわけではないと言えば、嘘になるかもしれません。ただ、……ただ、芹様をお守りする上で必要がなければ、知らせずとも良いだろうと思っていました」
 最後の一口が、すっかり冷えてとろりと喉を滑っていく。それをこくんと飲み干して、碗を膝の上に置いた。
「それは、……どうして」
 問いかけながら、おもむろに襲ってきたあくびを噛み殺す。温かいもので胃の中が程よく満ちたからだろうか。泥のような眠気が急激に襲ってきて、ぐらりと体が傾いだ。そのまま倒れるかと思ったが、それより早く伸びてきた蘇芳の腕が芹を支え、ゆっくりと寝床に倒していく。すっかり横になりながら、それでも返答が聞きたいのだと、すぐにでも閉じてしまいそうな瞼で間隔の長い瞬きを繰り返す。けれども、すぐにそれは大きな手のひらで宥めるように閉ざされた。
 眠ってしまったら、ちゃんと答えが聞けない。そう思うのに、馴染んだ体温と暗闇が、抗いようもなく穏やかな眠りへと引導を渡す。
「……怖がらせたくなかった」
 小さな声がした。
 けれどそれは芹の想いに反するもので、そんなことないのにと返そうとしたが、もはや唇を動かすことさえ無理だった。



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