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しおりを挟む短い黒髪がかぶさる前髪の合間から、黒々とした二本の角が天を向いている。芹を襲った鬼の角とは違い、艶やかで、まるで磨き上げた黒檀のようだ。
禍々しいもののはずなのに、なんてきれいなんだろうと呆然と見上げていた芹は、芹様、と蘇芳とよく似た声で話す、蘇芳とよく似た鬼にぎこちなく視線を向けた。
「離れで隠れているように言ったはずです」
「す……蘇芳…?」
「すり傷だらけになって…脚も腫れてる。離れに戻りましょう。すぐに手当てをします」
「蘇芳」
「大丈夫ですよ、これはもう俺が斃しました。すぐに朽ちて、跡形も残らない」
「違う、蘇芳」
「どうしました」
「お前、蘇芳なの……?」
抱きかかえられているのが恐ろしくなるほど高い上背は、青錆色の鬼と同じか、それ以上に高く、あちらこちらが破れた服をまとう肌は、赤銅のように赤黒い。蘇芳の腕も鍛えているので、芹程度なら抱いて運べる、しっかりとした骨太さと筋肉があったが、それ以上にまとった筋肉は武士の着こむ甲冑のようですらある。そんな様相は鬼そのものだったが、声は生まれた時から聞き続けた蘇芳のもので、芹は混乱しながらも両手を伸ばし、赤銅色の頬に触れた。
「あ………はい、……」
焼けた鉄が冷えていくときの色に似ているが、頬はそれほど熱くなかった。けれど、その感触も、ようやく自分の様相が変わっていると気付いて漏らした声も蘇芳そのものだった。
「……はい。俺です」
視界の端で、青錆色の鬼がぐずぐずと崩れていく。けれどそれを気に留めることも出来ないまま、芹はなぜ十五年もの間、自分は蘇芳を人間だと思い込んでいたのだろうと、今更ながらに思った。
燃された灰が崩れるように、こまかな塵になって風にさらわれ出した鬼に抱いていた恐怖などは微塵も抱かないまま、芹は呆然と、赤銅の頬に触れたまま、けれど変わらない蘇芳の黒い双眸を見続けていた。
* * *
騒ぎから半刻後、芹は離れの庭先にいた。
あの騒乱のあと、蘇芳は芹を抱いたまま跳躍した。人間の脚ならばそれなりに時間がかかるだろうに、鬼に変化した蘇芳は半刻もかからずに村を移動し、屋敷の外から高く跳躍して離れの敷地に着地すると、ようやくその変化を解いた。
実際、変化を解いたのか、それともそもそもの姿が鬼なのか芹には知る由もない。しかし、庭にある沓脱石に芹を下ろした蘇芳がその場で大きく胴震いをすると、見る見るうちにその巨躯は縮んでいき、瞬きをしている間に、その姿はいつも通りの芹の従者の姿になった。
変化したことで破れてしまった小袖は脱ぎ捨て、どうにか着衣としての体裁は保ててる括袴だけをつけて腰のあたりで紐を結んだ蘇芳は、まるでなにもなかったかのように芹の前に片膝をつき、いつの間にか草履も脱げてしまっていた裸足の踵を掴み、軽く持ち上げた。
「……痛みますか」
「痛む…けど……」
「水を運んでおきますので、脚を洗っていてください。すぐに戻ります」
芹の困惑をよそに、蘇芳はいつも通りそつのない動きで水瓶から水を汲んで芹の足元に置くと、留める間もなく離れから出て行ってしまった。
先ほどは跳躍して塀を飛び越えてきたというのに、今度はきちんと門を潜るのを見送り、閂までかけられていく音を聞きながら、芹は足元に置かれた桶に足を浸した。
桶の水はひんやりと冷えていて、腫れて熱を持つ足には心地よい。響くようだった痛みがじんわりと冷やされていく感触は確かなもので、目の前で繰り広げられた出来事は決して夢ではないのだと教えてくれているようだった。
「……蘇芳…」
芹が生まれた翌日から、蘇芳はこの藤村の家にいた。まだ寝返りもうてない頃から従者として芹の傍にいてくれ、芹が離れに幽閉されることになっても、それは変わらなかった。
あまりに近くにいすぎて、考えもつかなかった。
蘇芳は、父の清三が約束を交わしたという八尋から遣わされているのだ。その八尋も、鬼を遠ざけ、天候を自在に操るからには神の類いだろうと祀っているが、正体は知れなかった。そんな彼から遣わされた蘇芳だ。人間でなくとも、それはそれで合点がいった。
それならば、鬼なのか、人なのか。
長年一緒にいるが、蘇芳が鬼になったことなど、一度もなかった。けれど今日、蘇芳は赤銅色の鬼に変化して芹を助けた。人である姿から鬼になったのか、それとも鬼である姿をひとに変化させていたのか、どちらなのだろうかと悶々と考えながらも言われた通り脚を洗い、水で腫れを冷やしていると、手に包みを持った蘇芳が戻ってきた。
さすがに着替えてきたのか、小袖も着こんできている。そうすると尚更先ほどの鬼への変化が信じられず、思わず芹は目を擦った。
「目にもなにか、障りがありましたか」
「ち、違う。ごみが入っただけ……」
慌てて取り繕いながら手をどけた先に、芹の足元に膝をつく蘇芳を見つける。
短い黒髪に、切れ上がった涼しげな目元。筆で一閃したような眉。むっと引き結んでいることが多く、機嫌が悪いと誤解されがちな口は今も横に真一文字になっており、牙など見えようもない。
どこからどう見ても鬼などではない。蘇芳だ。
見れば見るほど混乱してきて、けれどその胸中は露わにしないまま目前の従者を見つめていた芹は、ついと上がってぶつかった視線に驚いて、後ろにのけぞった。
「わっ、あっ」
「なにかついてますか、俺の顔」
「つ、ついてない。……それより、蘇芳。あの…」
「俺は、鬼です」
聞くべきか、聞かないで忘れたことにすべきか。
そんな事を考えながらもごもごと言い淀んでいた芹だったが、途端に切り出された言葉は、そんな戸惑いを一掃するものだった。
いま蘇芳はなんと言ったのか。信じられない気持ちで見つめる芹に、珍しく蘇芳はぎこちない笑みを見せた。
「まずは手当てを。それが終わったら、話します」
そう言って、桶から出した脚を丁寧に拭いてくれる蘇芳の頭をじっと見下ろしたが、綺麗なかたちをした頭のどこにも、あの黒々とした角は見つからなかった。
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