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しおりを挟む人ならざる男は、上機嫌で森の枝から枝へと疾走していた。
契約は成功した。なんとも運がよかった。
目をつけていたあの赤子と、赤子を抱いていた青年は親子だった。まだ年若いながら、ここいら一帯を総べる長の家の跡取りだった。
「お前たちを守ってやろう。清三」
そう告げると、彼は訝しさと驚きに満ちた双眸の中に、すがるような光を宿した。無理もない。彼らは人間だが、今対峙している危機は、人間からもたらされているものではない。
鬼の襲来など、人災でなく、天災でなく、ただの災いと称するしかない。しかも、今回が初めてでないことを、男は知っていた。
赤ん坊が母親の胎に宿り、命火を灯しはじめてから見守ってきたのだ。土地柄か、神気の多いこの界隈は妖や鬼が出やすく、男が見ている間にも二度ほど鬼に襲われたこの村では死人は出なかったものの、怪我を負ったものが数名と幼児が一人攫われており、行方は杳として知れなかった。
それでも男は救おうとは思わず、その騒ぎを屋敷の裏山から見ていた。目を付けていた赤ん坊を孕んでいる母親に危害があるようなら下りて行って手助けをしたが、そうでないならば助ける道理もない。だからこそ、今回は接触を図ったのだった。
赤ん坊は生まれ、既に一人の人間として存在している。けれど、それを理由なく攫うことは出来なかった。
なぜならば、彼は鬼でもなければ物の怪の類いでもなかった。
「名前、なぜ、なぜ名前を知っている…ま、ま、守ってやる、とは……お前は一体…」
がたがたと震えながら、藤村家の跡取りであり、赤ん坊の父親である清三はそれでも尻をすりながら横に移動を始めた。おやどこに行くのかと動向を見ていると、どうやら布団に伏したまま、青ざめて横たわっている女を背に庇おうとしているようだった。
赤ん坊が生まれた今、母親はどうなろうと男にはどうでもよかった。死のうが生きようが構わない。けれど、死んだように瞼を伏せた風情にふむ、と頷いて、少しばかりは温情を与えようと思った。
「お前の名など、どうとでも。清三、俺はお前が生まれるよりずっと昔、七代前よりも前から居るものよ」
「七代、前、より……」
この村だけでなく、山をはさんだ先にある村二つまでも、藤村の家は統治している。だからこそ男も覚えていたが、さすがに二百年より向こうの記憶は、自分にとって必要なもの以外はあやふやだった。
「八代前だったか、九代前だったかも知らんが……まあ、覚えとらんな。お前たち人間は、こと寿命が短い。覚えてもすぐに死んでしまうからな」
「おま……あ、いや…あなたさまは………」
ぶるぶる震える清三は、居住まいなどは一切ただせないまま、けれど言葉だけはどうにか取り繕った。混乱しながらも、目の前の相手が人ならざる者、それも負のものではないと思ったのだろう。
馬鹿ではないようだと浅く頷いて、男は少しだけ口角をあげた。
「人間に教えて良い名ではない。だが、不便か……俺の事は、そうさな、八尋と」
「八尋様…」
呆然と清三は呟いたが、それに被るようにどこからか甲高い女性の悲鳴が響いて、ぎくりと肩を揺らし、胸に抱いた首も据わらない赤子を抱きしめた。
ついのんびりと言葉を交わしていたが、襖をはさんだ向こうは襲撃を受けて上を下への大騒ぎのさなかだ。折角なのだからそれらしく厳かに取り引きを行いたかったというのに、こんなにも無粋に早急にしなければならないとため息を吐きながら、とりあえずの名を八尋と名乗った男は清三、とおもむろに声をかけた。
「はっ、はい……」
「それの名はなんという」
「それ、とは……」
「赤子の名よ」
「あ、こ、これの名は…まだ……」
「………それでは、今つけよ」
名がなくてはいけない。頑是ない子どものようではあったが、八尋が急かすと、清三はええと、あの、と目を白黒させながら天井のあちらこちらを眺め、それから背後で目を閉じたままの妻を見て、最後にお包みの中で静かにしている子に視線をやった。
清三にはすでに息子が二人がいることを、八尋は知っている。安易に三郎だろうかなどと考えていると、思い切ったように清三が顔をあげた。
「せ、……芹、と」
「芹か」
「はい」
男女の区別が付きづらい名ではあるものの、悪くはない。なにより、これで取り引きを行うことが出来る。
思わず上がってしまう口角を隠しもしないまま、八尋は一歩歩み寄って距離を詰めた。
「清三よ。俺と契約をしようではないか」
「契約……?」
「そうさ。契約だ。応じるならば、この村を…いや、この藤村の家が統治する全ての村を、守ってやろう」
「守る……守るとは、鬼からですか」
「そうだ。悪鬼に困っているのだろう? 俺と契りを交わすならば、悪鬼を遠ざけてやる。望むならば日照りからも、洪水からも守ってやろう」
「………契り」
さすがに清三は疑りの目を向けては来るが、どれもこれも八尋にとって難しいことではない。
疑うならば見せてやろうと、八尋は親指と中指の先をつけて輪にし、口にそれを食んだ。
ふっと息を吹き込むと、ぴゅーいと高い笛が鳴る。同時に、ざあっと大きな風が屋敷を囲んだ。ぐらぐらと揺れたかと思うと悲鳴が増え、先ほどよりもどたばたと大きな喧騒が聞こえたが、それはやがてもせずにやんだ。かと思えば、おもむろにぴしゃぴしゃと水音が聞こえ、やがてもせずにそれは雨音に変わった。
「とりあえずは、屋敷にいる悪鬼は追い払った。雨も降らせておいたぞ。見てくるがいい」
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った中で清三は目を見開いたままだったが、よろよろと腰を上げ、腕に芹を抱いたまま出て行き、すぐに戻ってきた。
「お、鬼たちはどこへ……雨まで…なぜ…」
「掃った。いくらかは滅したかもしれんが、逃げたものもいるはずだ。まあ、しばらくは来んよ」
喧騒から一転して静寂が満ちた障子の向こうからは、止まっていた時が唐突に動き出したように人のさざめきが聞こえてくる。もちろんすぐにこの部屋にも足音が近づき、旦那さま、と声がかかった。
「旦那さま、ご無事ですか。お開けしてもよろしいですか」
障子にはあたふたとした様子の数名の影が陽光越しにぼんやりと映り、彼らは今にもその戸を引いてしまいそうだった。
「わ、私らは無事だ。先に清介と康清を見てくれ。あと、村の見回りを。怪我人がいるようなら喜兵衛さんを呼んで診てもらってくれ」
「わかりました」
とっさの清三の言葉にばたばたと足音が遠ざかり、部屋の中にはまた静けさが戻る。清三は随分と焦っていたようだが、八尋としては、どうでもよかった。人力では開かぬようにと術をかけていたからだったが、それを口にすることはなかった。
浮かしかけた腰をどうにか落ち着けながらも額をわずかに浮いた汗で濡らした清三は、腕の中で静かにしている芹を抱き直しつつ、おそれを隠しきれない視線を八尋に向けた。
「それで……その、八尋、様。契りとは…契約とは……いったい何をお求めなのですか」
清三はおそらくわかっているのだろう。八尋の力が紛れもない本物なのだと理解したからこそ、それと引き換えにしろと言われるものを理解して、隠すように芹を抱きこんだ。
先ほどまでちらちらと見えていたまだ赤みの強い頬が白い包みに隠されてしまうと、八尋は目を細めた。
「それよ」
「………それ、とは」
「わからぬふりをしたとて、結果は変わらんよ。芹を寄越せ」
「それは…っ、それは出来ませぬ!」
生まれてまだ数刻も経っていない。そんな子を手放せるはずもないと清三は悲愴な声をあげて後ずさったが、寝ている妻にでも触れたのか、それほど八尋と距離を置けないまま止まった。
「この子だけは」
「お前、そんなに焦るものではないよ。なにも今連れて行こうというわけじゃない。子どもは七つまでは神の子よ。まずは育ってからさ」
生まれた姿は人の子でも、子は総じて七つを過ぎるまでは神の眷属である。生まれたばかりの芹を手にかけるなど、言語道断だった。
「それでも、七つを過ぎればという話なのでしょう」
「まあ…悪いようにはせんよ。それに、赤子は…芹は、人里で過ごすには特異すぎる生まれよ」
泣きもせずにいるのは、おそらく眠ってしまったからだろう。それでも漂う神気は絶え間ない。この後どう変異するかは八尋にもわからないが、この異能を狙って、今日のような怪異からの襲撃が増えることは目に見えていた。
「芹には強い力が……人には備わるべきではなかった力が、生まれながらにして潤沢に備わっている。それこそ、溢れんばかりにな。その力は、妖にも、俺のような者にも必要とされる。だが、悪しき妖たちに捕まってしまえば、そら、お前もろとも肉塊になってしまうだろうよ」
八尋は芹が七つを過ぎるまで手を出すことは出来ないが、悪意ある妖たちにとって、神の子である七つまでという制限は無きに等しい。それまでに、護りも何もない芹が無事に生きられるかというと、明日にでも妖たちに襲われて食い散らかされてしまってもおかしくはない。
「しかしだ。俺ならばそんなことはせぬ。少なくとも、七つまでは加護しよう」
「七つを過ぎたら、八尋様へ差し出さねばならぬのですか」
「早ければだ。いつが頃合いかは、俺にもわからん。八つで迎えに来るやもしれんし、七十まで声がかからぬかもしれぬ。生死と同じ、どうなるかは俺にも知れぬよ」
「生死と、同じ………」
清三は途方に暮れたような目をしていた。
にわかには信じられないはずだが、今まさに襲撃はあったばかりだ。それを八尋は口笛ひとつでおさめ、ついでにと降らせた雨は未だ屋根を叩いている。そんな相手に言われた、生まれたばかりの我が子に宿ったもはや呪いのような力とそれにまつわる予言じみた言葉に、ただならぬ不安を覚えているのは明確だった。
目の前の得体の知れない力を持った男を曲者と追い払うべきか。けれどそうして明日にはまた鬼やら妖やらが屋敷に溢れ、授かった赤子を喪ってしまったらどうしよう。
もしかしたら迎えに来ないかもしれないことに願いをかけて、ここはひとつ取り引きに応じるべきか。上手く事が運べば、この底知れぬ力を持った男からの加護を得られる。しかしもし時期が来て催促されたら、芹は渡さなければならない。その後、この子がどうなるかは清三には知れない。
どうすべきか。どうすべきか。
八尋に他人の心を読む力はないが、そういった煩悶の間で右往左往している清三の心中は、見ているだけでわかった。
さて、この男はどうするだろう。
八尋とて、芹はようやく見つけた珠玉だ。今断られたとしても、手を変え品を変え、契りを交わすまでは諦めるつもりもなかった。
「……お前さま」
応えを出すまでどれほど待つやらと、芹の呼吸に合わせて規則正しく少し膨らんではしぼむ包みを見ていた八尋は、ふとあがったか細い声に、膝に肘を立てて手のひらの上に乗せていた顔をあげた。
「さち……」
声に顔をあげたのは清三も同じで、背後の妻を振り返ると、その傍らに芹をそっと置いた。
「さち。この子の、名を決めた」
「ええ……聞いていました。良い名をありがとうございます」
お産ですべての力を出し切ってしまったようにさちは囁くように話し、覚束ない手で傍らの芹を撫でた。
白い手がなぞるように包みに触れるのを見ながら、八尋は耐えられず嘆息を零した。
「お前さま」
すやすやと眠っている芹を撫でながら、さちは傍にいる八尋に気付いているだろうに、まったくそのことには触れないまま落ちかけの花のような淡い声を零した。
「芹を、八尋様へ託してください」
「なっ……聞いていたのか」
「おぼろげにですが…聞こえていました。お前さま、私は長くありません」
さちの声は、しっとりと、溶けいるようだった。
「私は儚くなるのに、芹を誰が守れましょう。この子を授かった時からわかっていました。私の血が強すぎたのです。この子には、悪いことをしてしまった」
今にも閉じてしまいそうなさちの目尻から、白い耳まで、すっと一条のしずくが辿って行く。
それを見ながら、八尋は浅く頷いた。
「そうか、さち、お前、山三つ向こうの社の娘だな。巫女にはならなかったか」
「父が神主をしております。巫女は姉が継ぎました」
「なるほど、合点がいった。確かにお前の血が強かったのも一因だろう」
さちの父は生まれ順で姉を巫女に据えたようだが、死に瀕しているさちは、それでも神気だけは一般の人間が持つ量とはかけ離れていた。
並々ならぬ神気を持ち、生家が神に仕える家ならば、彼女には八尋の正体がわかっているのだろう。お願いです、と涙の滲む声で彼女は懇願した。
「芹をお守りください。あなたさまは、悪いようにはなさらない。そうでしょう」
「お前、俺をわかって言っているのか」
今にも命の灯は消えそうなのに、さちの双眸は爛々と輝いている。思わず声を上ずらせそうになりながら、途端に居心地の悪さを覚えて、八尋は軽く体を揺さぶった。
「もちろんです。八尋様、私の母は瑞治山大社の娘でした」
「……お前、なにを知っている」
八尋は居心地の悪さの正体を察して苦く眉を寄せたが、さちは急ぐように口をせわしなく動かした。
「あなたさまの気配でわかりました。母より三代前、供物…」
「悪いようにはせん」
それ以上を言わせまいと言葉を遮ると、しかしさちはほっとしたように口を閉じた。
「まことですか」
「ああ。藤村の統治する場はこれから先…そうだな、七代先まで、俺の加護を与えよう。芹を守るため、遣いも寄越そう。妖に強く、手練れよ。護衛につけるとよい」
「ああ……それなら安心です」
「さち…さち、お前は一体なにを…」
得体の知れない男と妻のやりとりを蚊帳の外で見ていた清三が戸惑いも露わな声をあげたが、八尋にはどうでもいい。
芹を手中に入れるための取り引きはこれで成立だ。もうここに用はないと胡坐を解いて立ち上がった八尋は、ふと芹の収まった白い包みを見下ろした。
あふれ出す神気は相変わらず芳醇かつ潤沢で、目には見えないものの、奔流のような勢いで溢れている。その中に潜む、芹の気配。それは誰しも持つものだ。感情や精神状態などによって雰囲気が変わるそれの中に、珍しいものを確かに見つけた八尋は、清三を押しのけ、芹に寄った。
おくるみを覗き込むと、先ほどまで眠っていた芹はまだ満足に開ききらない双眸を薄く開けて、八尋を見ている。まるで人形のようにも見えたが、ぱちぱちと瞬きをすることで、やはり生きているのだなと八尋は思った。
「や、八尋様、なにを…」
「乱暴はせんよ」
包みを開いて、八尋は裸のまま布に包まっている芹をむき出しにした。真っ赤な肌をした赤ん坊はどこもかしこも小さなつくりをしていて心もとない。掴んでしまえば指先で事足りるような小さな足を掴んで少しだけ上にあげた八尋は、その脚の間を確認して、そっと脚を下ろした。
「やはりな。両性か」
「……はい」
ふたつの性を併せ持つのは大変珍しいことではあるが、もはや何事も八尋に抗うことは出来ないと察しているのだろう。我が子の性別をまじまじと確認されても、清三はうなだれるばかりだ。
「ならば、尚更都合がいい」
「都合?」
「お前は知らずとも良いことよ。……明日の朝、お前の所に使いを寄越す。仔細はそれに伝えておこう。先刻も言ったが、相当な手練れよ。妖にも引けを取らん。神気も備えている。今日のように妖が来ても、奴ならば多少は応じられよう。手に余ることがあっても、その時はすぐに俺も手を貸そう」
芹を元のように布で包んでやって、屈めていた体をあげた八尋は、さてと身を翻した。
「それではな」
すらりと開いた障子からそのまま飛び出した八尋の背中に、「ありがとうございます」というさちの声がわずかにかぶさった。けれど、それに振り向かないまま跳ね上がり、山をあがり、川を飛び越えていく。
予想外の縁があったものの、成果は上々だ。
もう百年以上も、八尋は強い神気の持ち主を探していた。東に強い修験僧がいると聞けば飛んでいき、西に名だたる巫女がいると耳にすれば矢も楯もたまらず駆けつけた。けれどそのどれもが、八尋が望むほどの者ではなかった。
そこへ現れたのが、芹だ。
尋常ではない量の神気を湛えているだけでも十分八尋の目にはかなっていたのだが、よもやと確認した脚の間には両性が備わっていた。それは八尋にとって、大きな意味があった。
清三には六十になっても声がかからない可能性もあるとは言ったが、おそらくは八つになったその日に、八尋は芹を連れて行くだろう。
早く七年が過ぎればいい。一刻も早く、あの子どもが欲しい。
興奮もそのままに森林を駆けた八尋は、機嫌よく口笛を吹いた。さっと冷たい風が吹いて、すぐにぽつりと雫が落ちてくる。それらはやわらかく細かな霧雨になり、衣擦れにも似た音を立てて、八尋がかけて行く山や、つい先ほどまでいた藤村の屋敷のあたりにも降り注いだ。
雲は見当たらないのに、さやさやと降りしきる細かな雨の中、浮かれた八尋の姿はやがて溶けいるように消えた。
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