君がため

晦リリ

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本編

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 夜陰を裂くような猫の鳴き声が合図だった。
 いきり立った異形の者たちは障子を蹴倒して部屋になだれ込み、あっという間に重吉と穂摘を囲んだ。昏倒した穂摘をするすると長い首が包み込んで引き寄せるのを茫然としながら眺めていた重吉は、ばりばりと音を立てて隣の部屋にまでなだれ込むほど数を増している異形に目を剥いた。
「ひっぎ、あ、あああ」
 ぴんと立った耳まで裂けた口を大きく開けた化け猫に、夜の闇にも負けない赤ら顔と長い鼻を誇らしげに掲げる天狗、なんだかよくわからない毛むくじゃらのかたまりや、目も鼻も口もない女、ぶよぶよとした肉の塊に無数の目が付いたものなどが、まるで百鬼夜行を行っているかのように座敷間にひしめいていた。実際のところ、部屋に入りきらなかった妖が庭先に多数いたのだが、目の前に座した巨大な蝦蟇に視界をふさがれた重吉には見えようもなかった。
 ぬらぬらとした苔色の肌を月光に晒した大蝦蟇は、三畳ほどもあった。ずんぐりとした頭は天井についており、その大きさたるや、牛などよりも巨大だった。
「あっ、ああ」
 腰を抜かしたのか、畳にへたり込んだ重吉を丸い双眸でじっとりと見下ろす大蝦蟇は、ざわざわと蠢き移動していく妖たちの中でも微動だにしない。
 おもむろに、切れ目のような口がぬらりと開いた。
「穂摘は死んだと思え」
 闇に沈むような低い声が重吉に落ちる。あまりの恐怖に反応出来ないのか、重吉が黙ったままでいると、ざわりざわりと蠢いていた妖たちが一様に動きを止めた。
「嫌なのか」
「そうか」
「そうか」
「ならば」
「愚か者め」
「仕方あるまいて」
「それならばそれで」
「どうする」
「どうもあるまい」
「食ろうてやればよい」
「そうさな」
「そうするだけよ」
「あれはもう、戻さぬからの」
「怒らせてしもうたからの」 
「仕方ないのう」 
「お主が悪いのだぞ」
 柏木の屋敷は、いつの間にか妖だらけになっていた。
 使用人や父親の叫び声を遠くに聞きながら、重吉は降ってくるおぞましい声にごくりと唾を飲んだ。
 妖の気配がぞわりと膨らんだ瞬間、大蝦蟇が再度口を開いた。
「穂摘は死んだ。いいな」
「は、はい…」 
「今後、太郎山へは脚を踏み入れるな。入ったら最後だ」
「はい…」
「ならば良い。決して破ろうと思うな。これは、蝦蟇の呪いだ」
「…はい…」
 項垂れた重吉を前に、大蝦蟇はゆっくりとした動きで手をあげ、胸元に指先を近づけた。とろりとした粘膜がびちゃりと落ち、顔をひきつらせた重吉に言い聞かせるように殊更ゆっくりと大蝦蟇は呪いを紡いだ。
「破ったら最後、お前は腐れて死ぬ。いいな」
「っひい…」
「いいな」
「はいっ…」
「その言葉、しかと聞いたぞ」
 ざあっと部屋の中を風が吹き渡った。
 次の瞬間、屋敷中にあふれかえっていた無数の妖たちは跡形なく消え去っていた。だがそこに確かに居た証のように、風ほどの速さで消えた妖がひっくり返しでもしたのか、部屋の隅にあった小皿がひっくり返って火が畳に落ちて燃えはじめていた。
 慌てて手のひらで火を叩くも火傷を負うばかりで、着物を脱いで小火を覆って足で踏むと、どうにか収まった。
 畳の焦げた匂いを嗅ぎながら再度へたり込んだ重吉は、じんじんと痛む手のひらの火傷と、自分の胸元を見比べた。
 蝦蟇の粘液が伝った箇所は痛みはないものの、紫色に爛れている。破壊された屋敷の中、女中の悲鳴と父親の狼狽する声を聞きながら、重吉は壊れた障子が転がっている庭を茫然と眺めた。
 にゃあと一つ猫が鳴いたが、猫の姿はどこにもなかった。



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