君がため

晦リリ

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本編

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 ざくざくと足音が近付いている。
 一睡も出来ず、水を少し飲んだだけで食事も摂らずにいたせいか、少しぼんやりする。それでも志郎が戻ってきたのだと気付いた穂摘が視線を向けると、がらりと引き戸が開いて布まみれの体躯がのそりと入ってきた。その背には、昨日の朝に出て行ったときも背負っていた籠がある。
「なにも食べてないのか」
 出て行ったときと家の様子が全く変わっていないことに気付いたらしい志郎がぽつりと呟き、どさりと籠を下ろした。中からあけびを取り出した彼は、黒い実をさくりと割って、座り込んだままの穂摘に差し出した。
「食欲がなくても、少し食べたほうがいい」
「……」
 白い身がむき出しのあけびは美味そうで、どこか麻痺したような心境でも口をつけると実際甘かった。穂摘が少量のそれを小さく食んでいると、志郎はその横で、白い小さな紙片に小指の爪よりも大分小さな粒を包んでいた。それを丁寧に畳むと片手に握って薬草の部屋に入って行き、ごそごそとなにかしている。音だけを聞きながらあけびを食べ終わると、紐のついた手のひらほどの巾着を片手にした志郎が戻ってきた。
「そろそろ、行くか」
 どこに、とは言わなかった。それでもしっかりとした重みを持つ声には動かしようのない決心があり、のろのろと立ち上がると、志郎は穂摘を抱き上げた。
 火傷で立ち上がれずにいた時から何度も抱き上げてくれた腕は馴染んだ感覚で、ひどく心地よい。それなのに、今から別れるために抱き上げられていると考えると、今すぐにでも逃げ出したい心持ちにもなった。
「少し跳ぶ。怖かったら、言ってくれ」
 跳ぶとはどういうことかと穂摘が問うより先に、家から出た志郎は唐突に驚異的な跳躍力で飛び上がった。一瞬で景色が後ろへ流れていく。走っているのではなく、彼はまさに跳んでいた。
 ひとっ跳で二ヶ月も暮らした小屋が見えなくなり、気付けば既に山の中だった。
 風が耳朶を裂くような音を立てて過ぎて行き、あまりの速さに志郎の衣服を握り締めると、穂摘を抱いた腕が一瞬強張り、尚更しっかりと抱きなおした。
 緑と光と樹木の色が、視界をおびただしく埋めては流れていく。山の中であるということ以外全くわからないままでいると、ぶわっと一瞬にして視界が闇に包まれた。そうして気付けば、また山の中だった。
「…穂摘」
 不意に、志郎が立ち止まった。
 腕に抱かれたまま穂摘が見渡すと、小山の中腹にいた。眼下に広がる集落には、ぽつぽつと民家が並び、ちょうど集落の真ん中にあるのは周りの建物より大きな屋敷があった。そして、その近くには黒く焼け焦げた小さな小屋。
「あ…」
 穂摘の育った村だった。
 大きな屋敷は、柏木の屋敷だ。そして近くにある、ほぼ全壊している焼け焦げた建物は、穂摘の家だった小屋だ。
 数ヶ月ぶりに見る集落を呆然と眺めていると、志郎がそろりと身体を屈めて穂摘を降ろした。
「ここからは、ひとりで行けるな?」
 幼い子どもを宥めるように穂摘の頭を撫でた志郎は、背負っていた籠を降ろしてがさごそと中を探り、出掛けに持っていた小さな巾着を取り出した。
「これを持って行け。お前を守ってくれるお守りだ。いざとなったら開けるんだ」
「いざとなったら?」
「薬が入ってる」
「毒…?」
 まさかとは思うが、彼の扱っている薬草の中に毒になるものも含まれているのを穂摘は知っていたし、志郎もまた、触れてもいいが口にはしないようにと手伝いを頼むときに注意を促していた。
 しかし紐のついた小袋を穂摘の首に潜らせた男は、首を横にも縦にも振らずに言葉を続けた。
「相手に飲ませるんだ。茶にいれてもいい。それから、これも持って行け」
 言いながら再度籠に手を入れると、志郎は瓢箪をひとつと、握りこぶしほどの巾着を穂摘に差し出した。その両方を受け取ると、瓢箪からはちゃぷりと水音がし、巾着はずしりと重かった。
「体調が悪くなったら、瓢箪の水を舐めろ。すぐに治るはずだ。火傷や湿疹なら、かけてもいい」
「薬液ですか?」
「…そうだ。これでお前の火傷も治した」
「これで…」
 言われてみると、確かに火傷が酷かった時期によく薬液を飲んでいた。あの薬液は、この瓢箪の中のものと同じものなのだろう。
 瓢箪の口に近い位置まで満たされている薬液を零してしまわないようにと穂摘が栓をしていると、脇に挟んでいた巾着がどすりと音を立てて落ち、その弾みで紐で括られていた口が開いて中のものが少量零れた。それは、眩い金の粒だった。
「し、志郎さ、…これ…」
 きらきらと輝く金の粒は、この一粒で穂摘が半年は食いつなげるほどのものだ。
 驚きに声を震わせると、志郎は石でも拾うように無造作にそれを巾着に戻してしっかりと紐を括りなおし、穂摘の手につかませた。
「持っていけ」
「でも、こんな…」
「俺が持っていても使い道もそうそうない。お前が使ってくれ」
「だけど、俺、志郎さんによくしてもらってばかりで」
 彼がいなければ、穂摘は確実に鬼籍に入っていた。それを救い、回復させてくれたのは志郎だ。こんなにもよくしてくれたのに、なにも返せていないと穂摘が詰め寄ると、志郎は布で覆われた口許を少し笑ませたようだった。
「いいんだ。…お前と居れて、楽しかった。火傷ももうない、綺麗だ」
 大きな手のひらが落ちてきて、穂摘の頭を撫でる。その感触は胸が苦しくなるほど優しく、気付けば穂摘の頬は双眸から零れ出した雫で濡れていた。
「今度は幸せになれ」
 無骨な指が近付いてきて、繊細な仕草で目尻の涙を拭う。
「っ…あ…」
 溢れた涙で前が見えず、ぎゅっと強く瞼を瞑って開いた瞬間だった。
 まるで元から何もなかったかのように、志郎はいなくなっていた。
 ちちち、と鳥が鳴く音がどこからか耳朶に滑り込み、さあっと風が凪ぐ。その風は頬に筋を描いた涙の痕を冷やしたが、つい今し方まで確かに志郎の触れていた目尻だけはじんわりと熱を持ったままだった。



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