焦る獣の妻問い綺譚

晦リリ

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5.恵慶

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 新しい一年が始まり、一夜にして気持ちも新たに世界がひときわ違って見える元旦。
 街でも一、二をあらそう商家の長男である恵慶えけいは、ひとごみのなかを従者を連れて歩いていた。例年通りのあいさつ回りだが、まだ幼い息子にも会わせてのちのちに繋げる意図もあり、傍らには五つになったばかりの息子、恵徳えとくがいた。
「つぎの家はどこだ」
「はい、反物屋の……あっ。坊ちゃん、だめです、はぐれてしまいますっ」
 あいさつ回りに訪れる家々を記した帳面を従者がめくったときだった。奥から聞こえてきた大道芸の音にそわそわしていた息子が走っていってしまった。
 ちいさな背中があっという間に人ごみにまぎれてしまい、あわててあとを追う。従者もうしろでばたばたと騒いでいたが、彼には家々に配る土産物を持たせていたので、身動きがとりづらいようだった。
「恵徳、待ちなさい、恵徳!」
 おとなの体ではすぐに行き交う人々に邪魔されたり、知り合いに声をかけられてしまってなかなか進まないが、子どもの体はするすると隙間をすり抜けてどんどん遠ざかる。やがて見失い、恵慶は息をあおがせながら周囲を見渡した。
 いつの間にか、街に唯一ある神社に出ていた。参詣する人々が多く出入りし、道のわきには露店がいくつも並んでいる。一口酒を売る店もあれば餅や炒った豆を袋に入れたものを売っている店、子どもが喜ぶような竹細工が並んでいる店もある。それらをひとつひとつ覗き込んでいた恵慶は、深緑の着物を着た子どもの背中を見つけて、手を伸ばした。恵徳も、同じ色の着物を着ていたのだ。
「えと……」
洛墨らくぼく、あまり離れてはだめだと……」
 息子だと思った子どもの肩に手をかけた途端だった。反対側から伸びてきた手が子どもの反対側の肩に置かれて、思わず顔をあげた。
「あっ」
 声をあげたのは、相手のほうだった。今にも生まれそうな大きな腹をしていて、派手ではないが、白い上等な着物を着ている。豪商の家の人間かと思ったが覚えはなく、けれどどこかで引っかかった。
 優しげな面立ちをしていて、大人しげな風情。黒い髪は肩口でまとめられており、落ち着いた雰囲気は良家の内君に見える。
 近隣の豪農や商家の家は把握しているはずなので、どこかで会っただろうかと思っていると、つっかえそうに大きな腹に手を当てながら、相手が深々と頭をさげた。
「申し訳ありません、この子が、なにかいたしましたでしょうか」
「あ……ああ、いえ。すみません、私も子どもを探しておりまして。似ていたので……」
 本当にだれかに似ている。けれど、誰だろう。見たところまだかなり若い。二十にはならないといったところで、三十になろうとしている恵慶よりはだいぶ年下だ。
 知り合いにそんな年頃がいただろうかと思ったが、頭の中ではこれだという人物にはいきあたらない。
 年下で、このくらいの年齢で―――
「朱烏!」
 人なみの向こうから、大きな声があがった。
 見ると珍しい髪色の男が足元にも背にも前にも、それどころか腕にも子どもを抱えてこちらに向かって来ていた。
「洛墨はいたか」
「はい。洛墨、父さまに謝りなさい。みなに心配をかけたのですよ」
 やわらかい声だがぴしりと子どもを叱りつける横顔を見ながら、恵慶は大きく目を見開いていた。
 朱烏という名を知っている。十年以上前に恵慶の家にいた使用人の一人だ。
 恵慶の両親に雇われており、幼い頃は一緒に遊んだものだった。けれど、その見目と体に抱える秘密にどうしようもなく劣情を抱えてしまい、恵慶と弟で手を出しかけたところを両親に見つかってしまった。それがきっかけで冷遇されているのを申し訳なく思っていたが、あと数日で年季が明けるという冬の日に行方不明になってしまった。
 雪も降り、屋敷中の門も閉ざされていたというのに内側からかかった閂はそのままにいなくなり、屋敷中総出で探したものの、朱烏は結局見つかることはなかった。
 神隠しにでもあったのか、それともなにかしら事件が起きたのかと噂もされたが、結局それ以降姿を見るものはおらず、そんなおおごともやがては生活の中に埋もれて探すこともなくなっていた。
 横顔には面影があり、それどころかそれほど年を取っている様子もない。けれど、両親に厳しく当たられるようになってからはいつも俯いて体を縮めていた姿とはまったく違う。
 かさついて荒れ、あかぎれや泥で彩られていた頬は白くなめらかで、梳かす櫛も持たないせいでいつもぼうぼうとして、適当にひもでくくられていたような髪はすべらかに光を弾いている。そして、大きくせり出した腹。
 ―――誰とも違う、特殊な体をしている気の毒な子だから優しくしてやりなさい。
 朱烏を引き取った時に両親はそう言っていた。けれど、その体に悲愴な雰囲気は微塵もまとわらない。
 やってきた男の周りにいた子どもたちがわらわらと駆けだし、恵慶と朱烏、その子どもに寄ってくる。大きな子で十歳ほどで、男が胸と背と腕に抱えている三人の赤子も合わせると、子どもだけでも七人ほどにもなった。それぞれにかあさまかあさまと言われながら取り囲まれる朱烏はにこにこと微笑んでいて、あの頃に抱えていたさびしげな風情などかけらも見えなかった。
 行方不明になってから、なにがあったのかなど恵慶は知らない。なぜいなくなったのかもわからない。五年前に亡くなった母は、あの子にはかわいそうなことをしてしまったといまわの際でも涙していた。今は隠居している父も、年の瀬になるたびに朱烏を思い出しては、見つかったら謝りたいのだがとこぼしている。恵慶と一緒に朱烏を襲おうとしてしまった弟も、一緒に酒を飲むたびに朱烏と遊んだ幼い頃のことを語ってはため息を深くした。
 けれど、そんな後悔とはまったく切り離された場所で、朱烏は幸せそうだった。
「……朱烏」
 なにか言いたいことがあったわけではないが、思わず声をかけていた。
 下からわらわらとじゃれてくる子どもの頭をやさしい手付きで撫でていた朱烏が、緩慢な仕草で顔をあげる。
「……あの時は、すまなかった」
 するりと口をついて出たのは謝罪だった。
 大きく見開かれた目が恵慶を見て、それから、ああ、と吐息がもれる。そんな唇さえ、ひびなどなくほんのりと血色がよかった。
「はい」
 微笑みながら、朱烏はひとつ頷いてくれた。それからは言葉をつなげることもなく、それでは、と頭を下げると、子どもたちと夫らしき男に囲まれて人なみにまぎれていった。
 やがて完全に姿が見えなくなるころ、なにごとか言われた朱烏が隣の男を見上げた。少し笑い、寄り添って見えなくなる。
 活気のある雑踏に佇みながら、恵慶は近々墓参りに行こうと思った。最期まで朱烏に詫びていた母の墓前に、伝えたかった。
 自分たちが冷たく当たってしまったあの子はいま、幸せに生きているのだと。

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