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8.金栄
しおりを挟む金栄は泣いていた。
もともと涙もろいのだ。追いかけられては泣き、からかわれては泣き、それだけでなく感動してもよく泣いた。それでも今日のように声も出せずに泣くのは初めてだった。
泰然が清真と体をあわせている現場に遭遇してから、どうやってここまで来たか、あまり覚えていない。けれど自然と体は幼い頃にも何度か隠れた洞穴に向かっていた。
幼い頃は奥行きはそれほどなくてもそこそこ広いと思っていた洞穴も、もうしっかりと成人した金栄では、屈んで入るような狭さだ。幸いにも今日は雨天ではないので濡れることはないが、それでも金栄はできるだけ奥に入り込んで膝を抱えた。
もう限界だった。
泰然のことは好きだが、清真に思いを寄せているなら、金栄に出番などない。きっと見合いに応じてくれたのも、親や周囲に言われての事だろう。嫌われてはいないと思いたいし、仲良くいることは出来るかもしれないが、干支神として、縁や絆を司るものとしてはあまりに分不相応で不誠実だ。そもそも金栄のような、人に触れられることにさえ怯える撫で牛が引き受けていいようなことではなかった。
結婚も干支神も、すべては金栄には重すぎる役目だったのだ。
(もう嫌だ、もうだめだ、干支神なんて務まらない、泰然の隣にはいられない……)
情けなさに拍車がかかるほど、涙は尽きず溢れてくる。このまま目から溶けてなくなってしまいたい。そうすれば、自分には重すぎた干支神の務めからも解放される。泰然と結ばれたいなどと思い上がっていた自分を恥じずにすむ。
消えてしまいたい、とより強く膝を抱えていた金栄だが、ふと顔をあげた。
近付いてくる足音がある。走りよってきたかと思うと、周囲を巡るように足音は左右に揺れ、やがて目標を定めたように、金栄のいる洞穴に向かってきた。
「え、え、あ……」
顔はぐしょぐしょだし、こんな狭いところにこもっている姿など見られたくはない。誰だか知らないが、逃げ出そうと膝を抱えた腕を解いた瞬間だった。
「みっ…、…見つけた……」
洞穴の入り口を隠してくれている茂みが左右に分かれる。ようやく昇りきろうとしている陽光を背に現れたのは、泰然だった。
肩で息をしながら体を屈めると、泰然は逃げを打とうとする金栄を追い詰めるように立ちふさがった
「金栄様、話が……」
びくっと震えるのが、金栄自身にわかった。
さっきは消えてしまいたいと思ったが、真実を聞くのが怖かったからかもしれない。現実を突きつけられてしまえば、金栄はもうどうしようもないのだ。
動けないまま、金栄が出来ることといえば、一度はほどいた腕で自分の膝を抱え、うつむいて強く目をつぶることだけだった。もう手も足も震えて動けない。
すべてわかっているから、いっそのこと何も言わずに去ってほしいとさえ思っていた金栄だったが、ふいに感じた熱に、今までにないほど体をこわばらせた。
出来る限り小さくうずくまろうとする金栄に、なにかが覆いかぶさった。まぎれもなく、泰然だった。金栄に比べると細いが、しっかりとした筋肉のついた腕が背中に回ろうとして、けれど膝まで抱えた金栄の体では厚みがありすぎる。肩の後ろに大きな手のひらが回って、そこだけが脈打つように熱くなった。
「話が、ある。金栄」
「……っ」
思わず目を開いてしまったのは、驚いたからだった。結婚してから今までずっと、泰然は金栄に敬語を使っていた。夫婦にはなったものの、撫で牛である金栄の方が身分としては上にあたり、家柄も金栄の方が上だ。だからなのか、ずっと敬語を使われることを、金栄は寂しく思っていた。
夫婦なんだから、普通に話してほしい。けれど、それさえ言えないほど、金栄と泰然は会話をほとんどしてこなかった。
なにを言われるのだろう。なにを突きつけられるのだろう。
不安と困惑はぐるぐると渦巻いて色を濃くしていくのに、こんな時でさえ、泰然が自分を抱きしめていると思うと、ぞくぞくと震えあがって熱を帯びてしまう体がいっそ恨めしかった。
ごくんと泰然が唾を飲む。そんな音さえ明確に聞こえるほど、距離が近い。就寝するときでさえ布団を別にしているので、こんなに近づくのは初めてのことだった。
「ご……誤解なんだ」
まだ少し荒い呼吸の隙間からこぼれてきたのは、まさかの言葉だった。
えっ、と声をあげそうになったが、ぎゅっと抱きしめられるとくすぐったさとむず痒さが下腹の底からじわっと湧き上がるようで、無闇に口を開けない。そうしていると、二度ほど深呼吸をした泰然が、改めて口を開いた。
「誤解だ。金栄さ…金栄が、思っているようなことじゃない、……と思う。清真とは何もない。俺の治癒……治癒? 平癒? を頼んでただけだ」
「へっ……」
思わず声が出てしまったのは、治癒や平癒という言葉が出たからだった。話はほとんどせずとも、毎日顔を合わせている。それなのに、撫で牛に力を借りようと思うような病やけががあったことなど、金栄は知らなかった。
「た、泰然……」
とっさに顔をあげると、顔の真横に泰然の頬が擦れた。その感触も思わず金栄を震わせて逃げ出したくなったが、どうにかこらえることができた。
「平癒って…治癒って、どこか悪いところがあるんですか……」
あの時、泰然の手は清真の胸や下半身を触っていた。胸の病か、それとも下半身になにか重篤な問題を抱えているのか。一気に飛躍した思考は、あっという間に金栄の血の気を下がらせた。
金栄の震える声を受けて、泰然は口を真一文字に引き結んだ後、決心したように開いた。
「………勃つんだ」
低く、押し殺すような声だった。
「え?」
聞き間違いかと思い、もう一度と促すように声を上げると、がばっと泰然が顔を上げた。両肩をしっかりと手のひらで掴まれ、けれど金栄は違うことで体を震え上がらせた。初めて真正面から見た泰然は、眉をきりりとあげて勇ましくも真面目な顔をしていた。
「金栄を見ていると、俺は勃起するんだ」
「……え?」
言われた言葉の単語は理解できる。金栄は自分の名前で、見ているというのは泰然が金栄を視界に入れているということだ。そして、勃起する、というのはいわゆる陰茎が性的興奮などで勃ちあがることで、そういった言葉ひとつひとつは、ちゃんと聞き取れた。聞き取れたが、だからこそ金栄は混乱に陥った。
(俺を見てると勃起する……俺を? 俺を見て? なにかあるのか、俺はなにか、そういった呪いでもかけられていた? それとも、知らないうちに不埒なことをしていた……?)
頭の中では考えがまとまらないまま、動揺と困惑がないまぜになっていく。それでも、自分が知らないうちに、泰然が勃起してしまうようなことをしていたのかと思うと、青くなった顔は恥ずかしさといたたまれなさから真っ赤に染まり、たまらず金栄はうつむいた。
「おっ、お、俺は、何か……はれんちな…不埒なことを……」
「金栄は何もしてない。何もしていないが、その無自覚が、その反応が、……あと、体が、皆を惹きつける。俺も、その一人だ。金栄を見てると反応してしまうから、清真にそれを治めてもらおうと思ったんだ」
「清真は精力増強とかを得意としてるから、逆は……。……それなら、泰然は清真と好きあっているわけではないんですか?」
「知り合いなだけだ。俺には金栄がいるのに、他を見る必要はない」
干支神の伴侶として金栄に付き添う時以外は、鍬をふるったり犂を曳くこともある体温の高い熱い手のひらが肩をしっかりと掴んでいる。
ついさっきまで頬を濡らしていた涙はまだ肌を冷やすし、触れられたところからくすぐったいようなむず痒いような感覚は尽きず伝わってくるが、金栄は泰然から目を離せないまま、唇をわずかに開いた。
聞いてもいいのだろうか。これが夢でなく、泰然が自分を伴侶だと言ってくれるなら、今までなら思い上がりも甚だしいと言葉にすらできなかったことを、尋ねてもいいだろうか。
冬の空気の乾燥だけではなく乾いた唇を動かして、どうにか金栄は声を絞り出した。
「俺は……泰然の伴侶でいて、いいんですか」
「当たり前だ」
つい昨日まで敬語で話していたとは思えないほど、泰然は素早く言葉尻をなかば遮る速さで答えた。
「百年も二百年もその先も、永きを共にと誓っただろう」
「……っ」
まだ名残があった涙が、また粒を結んだ。声も出さずに泣き出した金栄を、泰然の腕が抱きしめる。接触に敏感な肌はやはり震えてしまったが、そのなかに恐怖や怯えはない。ただ甘い疼きが、体を揺らす。ずっと触れてほしかった、けれど怖いばかりだと思っていた泰然
に抱きしめられて、金栄は泣きに泣いた。
一年をかけてようやく己の伴侶の思いを知ることができた丑の干支神夫婦は、屋敷の眷属たちが、今日の主役がいなくなったと慌てふためいて探し回っていることなど気付くこともない。
金栄がようやく落ち着き、陽が昇りきるまでそうして抱き合い、結局予定は押しに押した。干支神の引き継ぎさえ数分遅れたものの、子の干支神である白重は穏やかに「丑は遅れてやってくるものというから」と取り成してくれた。
ようやく年が終わり、年が明ける。引き継ぎ自体は滞りなく行われ、金栄は丑の干支神として一年を守護する運びとなった。
そうして結局、泰然とはまだ交われないまま元日から一週間経った。正月の社巡りも終え、あとは例大祭などの大祭がない限りは、それほど忙しいこともない。
金栄はあらためて、泰然と布団の上で向かい合うこととなった。
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