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4話目
しおりを挟む春になった。
世の中がどこかふわふわ浮かれて、けれど新しい日常への緊張感もそこかしこにあるようななかで、俺は昼飯のために社屋を出ていた。
社ビルの隣にあるコンビニが改装工事だとかで昼飯を調達できず、仕方ないと少し歩いたところにある中華料理屋で昼飯を食って戻る途中、俺はふと立ち止まった。
大きな商業施設のショーウィンドウに、『New Arrival』とかたどられたポップのすぐそばに、同じデザインの色違いのベビー服が並んでいた。
桜色、水色、黄色、白。一押し商品なのか、傍にはその服を着たマネキンがベビーカーに乗っている。人形はちょっとリアルで怖いなと思ったけど、ベビー服は可愛かった。
生まれたばかりの子って、こんなに小さいのか。でも、この大きさが腹に入るって、すごい。少なくとも、メルのあの薄くて細い腹に入るとも思えない。でも、俺が最後に見た時のメルの腹はふっくらしていたし、あれから四か月が過ぎようとしていた。もしかしたらもう産まれているかもしれないし、もうやがて産まれるのかもしれない。
でも、俺にそれを確かめるすべはない。
あの日から、図書館に行ってみたりインターネットで使ってみたりして、異世界への行き方だとか、ワープの仕方だとかを調べてみた。全部眉唾だったし、調べた後には必ず、まあそうだよな、そんなん現実的じゃないよなって脱力感があった。あと、もうメルには会えないのかもしれないっていう、胸にズンとくる気持ち。これが絶望ってやつなのか。
そんな気持ちをずるずる引きずりながら、それでも毎日を生きてる。
夢だったのかもしれない。でも、俺の部屋にはあのティッシュみたいなひらひらふわふわした布が残っている。
四か月前のあの日、メルが素っ裸で帰ってから忘れ物に気づいたけど、届けることも出来ないし、とりあえずランドリーネットに入れて手洗いモードで洗濯して日影で乾かしたあと、俺の部屋のポールハンガーにかけてある。とりあえず一ヶ月に一度は洗って、いつでも返せるようにはしてる。
でもメルは姿を現さない。
まるで、昔話にある天女だかなんだかの話だ。あの話の男は羽衣を隠して天女が天に帰れないようにしたけど、俺の場合は布だけおいてかれた。どうせなら昔話のパターンが良かった。それならメルは、ずっとこの世界にいてくれたはずなのに。
「はあ……」
ランチに華やぐ街中で、ため息が抑えきれない。
肩を落としてしまいながら、俺はスマホで時間を確認した。昼休憩が終わるまで、あと20分ある。
男の子か女の子かわからない場合は、黄色がいいんだっけ。でもメルに似て褐色の肌の子なら、白もきっと似合うだろう。
「すみません、ディスプレイに飾られてるやつの白と黄色ください」
手持ちは3059円。クレカ持ってて本当によかった。
同僚になにそれ、どうしたの、子どもいたっけ、と追及されては、知り合いへの出産祝いだとごまかしてベビー服の包みを脇に抱えて、帰途についていた。
今日の夕飯はどうしようか。不純な動機で始めた自炊も、今では苦でもなくなってきた。でも今日はいつもの通勤カバンに、荷物までぶら下げてる。たまにはカップ麺でもいいかなとまっすぐマンションに帰ることにした。
ついベビー服なんて買ったけど、どこに置くべきか。メルが来た時に、すぐに出して渡せる場所というなら穴が開く場所の近くがいいんだろうけど、どこに出来るか予想もつかない。もし今度出来るなら、せめてバスタブの上などではなく、落ちてもクッションになるベッドの上、それもなるべく低い位置からにしてほしい。そうでないと心配だ。
せめて高さが調整できればなーと考えながら家の鍵を開けて入る。家の中は当たり前に薄暗い。けれど、物音がした。
無人の家で鳴る音といえば冷蔵庫の製氷機が氷をガラガラと落とす音だとか、不意の家鳴りだとかだ。けれど、リビングから繋がる俺の寝室から、それ以外の音がした。
ぎし、とベッドがきしむ音。それと、
「っふ……うぅ…」
かすかな泣き声。通勤カバンもベビー服の入った袋も放り出して、俺は寝室に駆け込んだ。
うちが角部屋で、寝室側がお隣さんじゃなくて本当によかった。でも多分、俺が走ったので階下の人は迷惑だっただろう。ごめん。でもそれどころじゃなかった。
薄暗い部屋のなか、俺のベッドのうえに誰かいた。暗いのでぼんやりとしか輪郭は分からないが、ベッドの上で丸まって、癖のある長い髪がベッドからこぼれてる。そして、丸まった体の一部がふんわりと金色に光った。下腹に絡みつくように描かれた、あの蔦のタトゥーだった。
「あ、あ……トダナオヤ……?」
泣き濡れたか細い声。まぎれもなくメルの声だった。
「メル」
ふらふらと起き上がる体に歩み寄る。あの甘くてスパイシーな匂いがした。
「メル」
「……よかった。会えないかと思った。…ぎゅってして、トダナオヤ」
広げられた腕のなかに入り、細い体を抱きしめる。すん、と鼻をすする音がする。肩口に小さな頭が押し当てられて、俺のワイシャツはそこだけしっとりと湿った。
メルだ。
もう来ないかもしれないと思った。来てくれるかもなんて期待を抱いて毎日早く帰って、今日なんかベビー服も買ったけど、もう会えないのかもしれないと、どこかで思っていた。
けれど、待ち望んだ存在がここにある。メルがここにいる。信じられないほど嬉しくて、ありえないほどの、幸せだっていう感情があふれた。
俺が抱きしめ、メルも抱きしめ返してくれる。なんだかようやく息ができたような心地になった。
どれだけそうしていただろう。もしかしたら数秒だったかもしれないし、もしかしたら数分だったかもしれない。どれだけにしても、最長で10分しかいられないメルとの時間はとにかく短い。
はっと気付いて上を見たが円はなく、メルの肩越しに見たベッドそばの壁に、最初から備え付けられたミラーのように円があった。それは低い位置にあって、初めて俺は円の中を覗くことができた。
円の向こうには、真っ赤な絨毯が敷き詰められたとんでもなく広い部屋があった。すぐそばに巨大なベッドがあって、ベッドだけでも6畳あるこの寝室と同じくらいありそうだった。いわゆる天蓋ベッドというものらしく、高い天井からはいつもメルが着てるような薄い布がカーテンになってベッドを覆っていた。
まるでアニメ映画で見たような王族の寝室だ。でもそこは、荒らされてぼろぼろだった。
床には脚の折れた椅子が転がり、壁際に見える本棚は引き倒されている。粉々になったシャンデリアが無残に散らばり、絨毯の一部は焦げてさえいるようだった。窓は割れて破片がそこらに散らばり、壁も一部崩れている。天井から吊り下げられてベッドを覆う薄いカーテンは引き裂かれてズタボロで、シーツもぐしゃぐしゃになって絨毯に流れていた。
ここからメルは来たのか。むしろ、こんなところで生活していたのか。
「このわっかの向こう、メルの家?」
問いかけると、メルは頷いた。
「うん。でも、もう終わったから……」
「終わった?」
「うん」
なにが、と聞きたかったが、まるで猫のように、メルは俺の肩口に顔を押し付けてくる。けれど、今日はそれ以上セックスになだれ込む様子もなかった。
そういえば、前に会った時にメルのお腹はふっくらしていた。あれから四か月近く経っている。それに、メルがどれだけ俺にくっつこうとしても、二人の間に挟まるもののせいでぴったりくっつくことは出来ずにいた。
抱きしめていた手をほどく。そろりと手を前にすべらせると、メルも腕をほどいて、そっと体を離した。
薄暗い中で、あのタトゥーもどきが光ってる。前に見たよりも範囲を広げた金色の蔦は、脈打つように強弱をつけて輝いていた。そして、そのキャンバスになっているメルの腹部は、すっかりまるく実っていた。
「大きくなったでしょ。この子もがんばってくれた。だから……だから、本当はっ、っふ……本当は、だめだけど……会いたくてっ」
ぽたぽた、とお腹に雫が落ちて、薄暗いなかで光る。ふとメルがいつも着てる、あのティッシュみたいな薄い布もぼろぼろだということに気付いた。
ベッドわきのサイドテーブルにに置いてあるリモコンで明かりをつける。小さな電子音の後、ふわっとライトがついた。
明るくなったなかで見たメルは、傷だらけだった。
頬や腕にはかすり傷やらすっぱり切ったような切り傷がある。髪はぐちゃぐちゃにほつれ、焼けてちぢれて短くなっている部分もあった。着ているティッシュみたいな布もあちこちがやぶれて、よく見るとうっすら赤いものがついているところもある。脚や胸元も同じで、切り傷やらかすり傷やらが多かったが、まんまるなお腹のあたりだけはまったくの無傷で、きらきらとタトゥーもどきが輝いていた。
「なん……なんでこんな」
どこかで引きずりまわされてきたのかとさえ思うような、ひどい状態だ。少なくとも、こんなにお腹が大きい妊婦? 妊夫? が負うような怪我じゃない。
思わず絶句した。でもメルは涙で濡れた目できょとんと俺を見て、ああ、と今気づいたみたいに言った。
「セイセン中だったから」
「セイセン?」
どう変換すればいいんだ? 生鮮? 政戦? 見当もつかない。
思わずオウム返しすると、メルはえっとね、と話し始めた。内容は、明らかに一回目、もしくは二回目に会った時に言っておいて欲しかったことばかりだった。俺は内容になかばついていけず、とりあえず冷やしちゃいけないと、俺の春用毛布でメルを包んで抱きしめながら、その話を聞いていた。
「今…じゃないや。もう終わったんだった。1000年に一度くらいなんだけど、戦争してて。戦争中ってすごく疲れるから、人間から精力もらおうって思って繋いだら、トダナオヤのとこに出たの」
「う……ううん?」
「どこに繋がるかはランダムだから、次も同じとこに行けるなんてほとんどない。だからトダナオヤとももう会えないのかなって思ってたんだけど……赤ちゃんできたから、この子が繋いでくれて、来れるようになったみたい」
ありがとう、とメルは目を細めてお腹を撫でる。俺はといえば、頭が全然おいついていなかった。
なんとなくというかそんな気はしていたけど、メルはやっぱり人間じゃないのか? っていうか1000年に一度戦争ってなんだ? ほかにも聞きたいことは山ほどある。でも、それを言おうとした俺の胸に、メルの小さな頭がとんと預けられた。
「……今はあっちも大変だろうから気づいてないと思うけど……次来たら、きっと捕まっちゃう。……今日が最後になるよ。だから、トダナオヤ、手、繋いで」
思わずごくりとつばを飲んだ。毛布越しにお腹を撫でていた手を取る。指を絡めて、もう片手で肩を抱き寄せると、小さくメルは笑ったようだった。
「ね、トダナオヤ。ぼく、精力もらうためにエッチばっかりしてたけど……君とするの、すごく気持ちよかった。赤ちゃんできたのも、すごくうれしかった。大好きだよ。本当に、ありがとう」
「メル……」
俺の方こそ、お礼を言うべきだ。
メルと出会わなければ、俺は今でも毎日残業漬けで、倦怠感と眠気を引きずりながら会社と家の間を行き来するだけの日々を送っていただろうし、今でこそ楽しくなってきた自炊だって、毎日外食三昧だったはずだ。
そこそこ仕事は忙しいけど、自分を大切に出来るようになったのは、メルとまた会いたいという一心があったからだ。
「俺も、ありがとう。……セックスばっかりしてたけど……でも、俺、メルのこと愛してるよ。もうこれが最後だなんて嫌だ。俺がんばって働くよ。だから、ここで俺と一緒に……」
ぶわっと、ふいに円が歪んだ。時間だ。10分が、もう来てしまった。
言いかけた俺の言葉を最後まで聞かず、メルが首を横に振った。
「そう思ってくれるだけでうれしい。でもぼく、戻らなきゃ」
ごめんね、とメルが笑う。微笑んだ目じりに透明な粒がぷくりと浮いて、傷だらけの頬にぽろぽろとこぼれた。
メルが泣いてる。さっきも泣いていたけど、さっきとは違う涙だ。本当に、これが最後の別れなんだ。
「めっ、メル!」
「うん?」
「ちょっと待って!」
せめてあのティッシュみたいな布を返そう。あと、今日買ったベビー服も。
ベッドから飛び降りて、ドタバタと玄関に走る。走りながら、頭のなかがぐるぐるした。メルが帰る。もう、本当の本当に会えなくなる。そんなの嫌だ。そんなの嫌なのに、俺は会いに行くすべがなくて、どうしようもない。他になにかないのか。俺がメルと一緒にいられる方法はないのか。きっともうこんなことはない。たった四回しか会えなくて、それも10分ずつで、それなのにこんなに好きだ。こんな恋は、きっともうないのに。
「うわっ」
すっかり陽が落ちたせいで、玄関はまっくらだった。そこにいきおいよく駆け込んだものだから、どうやらベビー服を入れた袋を踏んだらしい。思いきり滑ってそのままバンとドアに激突した。
「いってえ……」
「トダナオヤ? 大丈夫、どうしたの?」
「大丈夫!」
とっさに袋をつかんで駆け戻る。寝室ではメルが春用毛布に包まったまま俺を待ってくれていた。そして、その背後の円は歪みを増して、もうやがて閉じそうだった。
「メル、円が」
「うん」
低い位置にあるから、窓を越えるみたいにメルは自分で円の向こうに戻った。
荒れ果てた部屋を背景に、メルがぽつんと立つ。ひどく寒々しくて、俺は情けなくなった。
こんなところで、メルはこれから子どもを生んで育てるのか。そこがどこか知らないけど、誰の声もしないし、物音もしない。崩れかけたこんなところで、たった一人で。それを放って、俺は会社に行って仕事して、そこそこ片付いた部屋で特に不自由なく自分で飯を作ったり弁当買って食ったりするのか。そのうち彼女なんか作って、結婚したりするのか。
大好きで大切な子なのに、俺はメルをたった一人で戻そうとしてる。なにも出来ない。ベビー服を買って、渡すだけしかできない。
「……メル。これ、赤ちゃんの服買ったんだ。産まれたら着せてほしい」
「赤ちゃんの? うれしい、ありがとう。絶対着せるね」
ふわふわと形を歪めて徐々に小さくなる円のなかに、袋を差し出す。受け取ったメルは嬉しそうに破顔して、それを抱きしめた。
可愛いメル。ずっと傍にいたい。離れたくない。
俺は、ごくんとつばを飲んだ。
それならーーーメルがここにいられないならーーー俺が行けばいい。
「メル、そこどいて」
「うん?」
なあに、と言うようにメルが小首を傾げながらそっと横に寄った。
円は徐々に狭まっている。俺は深く息を吸い込んで深呼吸すると、ぎりぎり入れそうなほどに小さくなったその穴に、上半身を突っ込んだ。ちょうど、水泳の飛び込みみたいに。
「なにしてるの、やめて、戻って!」
「いや、だ、もどらないたたたたたた」
狭まろうとしていた円が、俺の腰をぎゅうぎゅうと締め付ける。やめろ、スラックス脱げたらどうすんだ。容赦なく締め付けられるが、ふちに手をかけてぐーっと伸びあがるのを繰り返しているうちに、すぽんと腰が抜けて、そのまま俺は床に落ちた。すぐに円はなくなって、俺の帰路は閉ざされた。
「いったた……絞め殺されるかと思っ……」
「ーーーばか!」
「うぶっ」
腰に痣出来たかもしれない。そんなことを考えながら起き上がるなり、罵声とさっき渡したばかりの袋が飛んできた。ぼすんと顔に当たって、思わず間抜けな声を出す。次いで飛び込んできたメルに、今度はぽかぽかと叩かれた。
「トダナオヤのばか! なんで来るの!」
「ちょっ、いたい、メル痛い、そこさっき玄関でぶつけたところ」
叩かれた肩甲骨のあたりこそ、痣になってるかもしれない。さっき玄関のドアに激突してぶつけたところだ。思わずうめくと、あ、ごめん、とメルの手が止まった。
「いった……満身創痍だな。はは、メルとおそろいだ」
「おそろいなんて……ばか、本当ばか。なんで来ちゃったの。ぼく、ちゃんとお別れしようってがんばったのに」
床に座り込んだ俺の前で、メルはまた泣いた。目をぎゅっとつぶって、涙をぽろぽろこぼしてる。でも、俺はほっとした。
メルは、俺が来たことが嫌だから泣いてるんじゃないんだ。俺をここに来させたことを泣いている。がんばってお別れをしようとしてくれていたのだから。でも、そんなことは出来なかった。
社会人として完全アウトだけど、仕事も放って来ちゃったし、親兄弟になんも言ってない。もしかしたら失踪扱いになるかもしれない。そんな現実的なことを考えなかったわけじゃないけど、手を離しちゃいけないと思ったのだ。
ぽろぽろ涙をこぼすメルの顔を、ポケットに入れっぱなしにしてたハンカチで拭う。俺と一緒に円に絞られてしわしわになってたけど、無いよりマシだ。
涙を拭いて、それからメルの手を取った。
「ごめん、メル。でも、もうそれはしないでいいよ。あのさ、メルさえ嫌じゃなかったら、俺と……俺と、結婚してください。赤ちゃんのこともちゃんと責任取りたいし、メルとずっと一緒にいたい。だから」
「う、ぅ……うわあぁぁん!!」
結婚してください、ともう一度言おうとしたけど、とんでもない声量があがった。もちろん声の主はメルだ。
これまでどれだけ泣いても声を出さず、静かに泣いていたというのに、まるで子どものように声をあげてわんわんと泣いている。涙もまたあふれて、傷だらけの褐色の頬はあっという間にびしょ濡れに戻った。
「メル、メル。あんまり泣いたらお腹に悪い」
「わあああん!」
まるで脈打つように、あのタトゥーもどきの金色が明滅している。大丈夫なのか、これ。妊娠中はメンタルがどうとかって聞いたことあるし、あんまり良くないんじゃないのかと抱き寄せて宥めるように背中を撫でる。やがて泣き声はおさまったけど、それでもメルの涙は止まらなかった。
「メル、大丈夫か」
「だいじょっ、ぶ、ひっく…とっ、とだっ、なお、や、……うれしいっ、ぼく…、ひっく、ぼく、うれしくてっ」
しゃくりあげながらメルはどうにか言ってくれて、俺も安堵する。間違った選択をしたつもりはなかったけど、不安がなかったわけじゃない。でも、最初は怒っていたメルも喜んでくれている。よかった、と心底ほっとした。
「こっちじゃ仕事も探さなきゃだし、家……も、ちょっと片づけないといけないみたいだけど、俺頑張るから」
これでも元社畜だ。給料のためだけに頑張っていたころを思えば、メルやこれから産まれてくる子どものために頑張れるのは幸せだ。一緒に頑張っていこうなという気持ちを込めて宣言すると、けれどメルはまだひっくひっくと喉を鳴らしながら、ううん、と首を振った。
「しごと、はっ、ヒック……いいよ。ぼくのそばにいて」
「でもそれだと二人を養えな……」
ふいに、ドドドドッと足音が聞こえだした。とんでもなく重い足音は、明らかにこちらへ向かっている。それもひとつじゃない。まるで軍隊が攻めてきたと思うような複数だ。近づくにつれてわあわあと騒がしい声もあがる。
まさか、メルと戦っていた相手なのか。メルはこの通り身重だし、俺は特に武道の経験があるけでもない。中高とバスケ部だったし、大学は映研だった。それでも守らないと、とメルを抱き上げようとした時だった。
とにかく広い部屋についた、まるで美術館かどっかの入口みたいな縦にも横にもやたらデカい扉がバンと開いた。
竜がいた。獅子の頭をした騎士がいた。頭が七つある蛇もいた。背中に巨大な蝙蝠の羽をはばたかせた紳士がいた。姿かたちこそ人間だが、4メートルくらいありそうなちょっとした巨人がいた。体中から出した蔦をうごめかせている全身緑の美女がいた。ほかにも、その背後に無数の怪物がうごめいている。
扉の向こうに、ファンタジーの世界の人たちがいっぱいいた。
特殊メイクにしては出来すぎているし、妙に全員がしっくりしている。ああこれは、特殊メイクとかじゃないんだ、とあっさり思った。
「メル……」
俺はただの人間だ。魔法も使えないし、特殊能力もないし、頭が蛇とかというわけでもない。だから多分、彼らと戦えば負ける。世間では異世界転生とかで、あっちの世界に行ったら何かしら強くなってるとかいうのが流行ってたみたいだけど、俺はなんら変哲のないサラリーマンのままだ。戦うすべなどない。それでも、守らなきゃいけない。
とっさにメルを抱き上げた。確か、倒れた本棚の近くの壁にドアがあった。せめてメルだけでもそこに入れて、時間稼ぎをしなければならない。けれど、三歩進んで俺の足は止まった。
「陛下! 魔力の大放出があったようですが……まさか、そちらの方がトダナオヤですか」
へいか?
「うん。あ、ちゃんと別れようとしたんだよ。でも、来てくれた。結婚してくださいって言ってくれたんだよ。ね、トダナオヤ」
俺の腕の中で、メルがにっこり笑ってる。可愛い。じゃなくて、陛下って?
「メル、あの、メルは陛下なの? 陛下って?」
陛下って、偉い人につくやつじゃなかったっけ。なんか、その、国の一番上のひととか、王様とか……。
混乱する俺に、獅子頭の紳士がごほんと咳をした。頭が獅子なせいかな、声がくぐもって、妙にかっこいい。
「ご説明をなされていないのですね。陛下に代わりまして、わたくしよりご紹介させていただきます。こちら、第85代王メル・ウェン・クランローゼ・ミカ・ロメラッカ・ガランジェット・ユーフリーエ魔王陛下でいらっしゃいます」
「メル・ウェン・クラ……なんて?」
名前、猛烈に長くないか? っていうか最後に魔王ってつかなかった?
「長いから、メルのままでいいからね、トダナオヤ」
「うん……」
そこじゃないんだけど、メルはにこにこ笑っている。涙は止まって、何度見ても可愛いと思える笑顔だ。
混乱して、足を踏み出したままの体勢でいる俺のメルが腕を回す。頬にくちびるがおしあてられると、おめでとうございまーす!と怪物たちが声をあげて室内になだれ込んできた。
「天界との聖戦も昨日で終わった、陛下のご結婚も決まった、そのうえ跡継ぎにも恵まれた!」
「めでたい! なんて良い日なんだ!」
「それもこれも、あのトダナオヤが陛下へ精力を与え、子種を授けたおかげ!」
「おめでとうございます陛下、おめでとうございますトダナオヤ!」
「第85代王メル・ウェン・クランローゼ・ミカ・ロメラッカ・ガランジェット・ユーフリーエ魔王陛下と後伴侶トダナオヤに幸あれ!」
和洋折衷百鬼夜行は俺たちの周りを取り囲み、わーっと盛り上がっている。正直俺はついていけてない。でも、メルは幸せそうに笑っている。ねえ、と囁きかけられた。
「ちゅってして、トダナオヤ」
もしかしなくても俺はとんでもないところに来てしまったのかもしれない。そのうえ相手がどうやら王様で、親に挨拶もしないうちから婿入りが決定してしまったようだ。けれど、後悔なんて微塵もない。
だから俺は、可愛いおねだりに応えるべく、目を閉じたメルにキスをした。また、わーっと歓声が上がった。
とりあえず、もう10分のタイムリミットに引き裂かれることはない。
出会ってプロポーズまで合計で大体一時間弱。でもこれから、俺とメルが一緒に過ごす時間はもっともっと増えていく。
「メル。好きだよ」
沸き立つ怪物たちに囲まれながら、メルにそっと囁く。するとメルは、きょとんとしたあと、ぼくも、とないしょ話するみたいに俺の耳に囁いてくれた。
ここまでが、俺が可愛くてエッチな魔王陛下に婿入りした話。でもまだまだ人生は続くので、その話はまた別の機会に、ということで、ここでめでたしめでたし、をつけて一段落としておこう。
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