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しおりを挟む幼い頃、阿賀野は私立の幼稚園に通っていた。
まだ物心ついたばかりの幼児ではあるものの、アルファ家系であったり、その発達や才覚から将来はアルファに分類されるであろうとされる子どもたちばかりが入園している名門の幼稚園だった。
そこでの阿賀野は、同年代の子たちに比べると抜きんでていた。
体格にも恵まれていたし、五歳になる前には九九も間違えずに覚えていた。英会話教室に通わされていたので、英語も出来た。
優秀な子どもたちの中にあってもお前はアルファになるのだから、さらに上を行きなさいと父親から言われていた阿賀野は、物心ついた頃から完璧を求められていた。
そんな中、それはまるで突然の天変地異だった。
「とくまくん、おやさい、たべないの?」
今でも阿賀野は覚えている。
初夏の風が涼やかな日の事だった。
給食の時間、白いセラミックのプレートに彩りよくよそわれていたのは、和風ハンバーグのあんかけとご飯、人参のガレット、ポテトサラダ、春菊の和え物だった。
当時もそれほど人参は得意ではなかったが食べられてはいたし、ポテトサラダも好きだった。けれど、春菊は食べたことがなかった。
ほうれん草かな、と箸の先でちょんとつまんで口に入れたとたん、独特の風味と苦味をうけて、口の中にじゅわっと唾液が溢れる。あやうくこぼれそうになって思わず飲み込んだが、口腔にはあの味が残っていて、幼い日の阿賀野は凍りついてしまった。
「ねえ、とくまくん」
ハンバーグも食べ終わったし、人参もポテトももうない。ご飯も一粒も残さず平らげた。
けれど、春菊が食べられない。
周囲はにがーい、おいしくなーいと文句を言いながらも半ば丸飲みしている子もいれば、もういらないと残す子もいた。
けれど、阿賀野にはそれが出来なかった。
アルファはひとの上に立つ者であり、そうなるべく恵まれた才能を持っている。けれどそれには見合うだけの言動や知識が伴わなければならない。弱さや怯えは己で克服すべきものであって、逃げていいものではない。
そう強くしつけられた阿賀野には野菜を残すという選択肢がそもそもなかった。
食べなければならない、でもあの一口だって脂汗が出るほど大変だった。
もしお腹が痛くなったり、ブツブツが出たり、苦しくなるのはアレルギーというものだから食べなくてもいいというのは知っていたが、そんな状態は出ていない。
(ぼくが、たべられないだけなんだ)
好き嫌いで食べられないだけだ。それはわがままというもので、許されるものではない。そういうふうに幼い阿賀野は解釈した。
十分ほども硬直したまま箸を握りしめて悩み考えた阿賀野は、一気に春菊の和え物を口に入れた。
結果、苦味と風味に悶絶して慌てて飲み込もうとして喉に詰まらせ、死ぬ思いをして口に含んだ牛乳ごと全部吐いたうえ、そのまま気を失った。
気付いた時には阿賀野家かかりつけ医の経営する病院の一室にいて、母が傍にいた。
母は大丈夫かとか、好き嫌いがあるなら無理をしなくてもとかそういう事を言っていたようにも思うが、
阿賀野はよく覚えていない。
ただ、その日をさかいに、野菜を食べることをやめた。
「……いま考えると短絡的だな。でも、そうでないといけないと思ったんだ。出来ないことがあるなら、それをなくしてしまえばいい。弱いところを見せてはいけない、嫌いなものも作ってはいけないと…思い込んでた」
『幼稚園の子なら、嫌いなものなんていくつもありますよ』
「そうだよな。子どもなんだから、好き嫌いの一つや二つ、あったっておかしくなかったのに」
アルファの家に生まれ、当時はまだ性徴がわかっていなかったとはいえ、十中八九そうだろうという期待の中で育った。兄がいるので家を継ぐわけではないが、それでもアルファである以上、将来は人の上に立つのだから、完璧な人間でいなければならない。
幼い日の阿賀野は、盲目的なほどにそう思い込んでいたのだ。
『いまも、野菜はだめですか?』
少し擦れた真柴の声が、今のお前はどうだと問いかけてくる。
がさついたその声は不快ではなく、阿賀野はいいや、と首を振った。
「だめじゃない。でも、うん、苦かったな。野菜ってこんな味だったっけって思った。でも、甘みもあった気がする」
『もう食べたくないとか、思いませんでしたか』
首を横に振る。
それは意地や嘘ではなく、素直な気持ちだった。
「それはないな。なんでだろう、食べられた。……そうか、俺、野菜を食べたんだな」
ふしぎな心地だった。
食べた時は確かに、怖れのような怯えのような、明かにマイナスな気持ちがあった。今までの自分ならば、確実になかったことにしていた気持ちだ。
けれど、それをさらけ出している。
完全無欠で隙のないアルファとしての立ち居振る舞いなど、どこかへ忘れてきてしまったようだ。
真柴の前ではどうにも崩れてしまう。声をかけ始めたころは確かに意固地になって通いつめたりもしたが、今は妙に穏やかな心持ちで、須藤や副島、諏訪園にさえ話したことのなかった野菜嫌いのゆえんなど話している。
どうしてだろうかと考えていると、小さく声がした。
『……お…』
「うん?」
ぼうっとしていたので聞き逃したのかと思って、聞き返すと、まるで消えそうな声が、震えながら受話器から零れた。
『お、…おめでとう、ございます』
「………」
返事をなにも返せないまま、阿賀野は自然と閉じていた目を開いた。
おめでとうと、真柴が言った。
「あ……」
ありがとうと、今までならスマートに返事をしたかもしれない。心の片隅で、馬鹿にしているんじゃないのかと相手への疑心暗鬼を抱きながら、それを笑顔で隠して笑顔を向けたかもしれない。
けれど、真柴の声はそんな浅はかなものではなかった。
やがて三十になろうという男が野菜を食べられたという、ただそれだけのことを笑わず茶化さず、真摯にその事を受け止めてくれた。認めてくれた。
嫌悪感はあったものの、野菜を食べることなど、いざ行動に移してみると日々こなしている仕事に比べたらなんとも拍子抜けするほど簡単だった。けれど、ずっと見ないふりをしていた大きな壁だったことは事実だ。
野菜が食べられないことが本当は恥ずかしかったし、でもそれを否定するためにサプリでいいと思っていたし、自分にそう言い聞かせていた。アレルギーがあるわけではないが、苦手なものを食べられないことが悪ではない。けれど、その奥にある、「弱い自分がいてもいい」ということを、あの幼い日から見失っていた。
そしてそれを、ようやく見つけた。真柴が気付かせてくれたのだ。
思わず震えた呼吸を零しそうになって、思わず阿賀野は自分の口を手のひらで押さえた。
気恥しさと、嬉しさ。高揚感。それと少しの目頭の熱。物心ついてから泣いたことなどなかったのに、こみ上げてくるものがあって、口を押えたまま、阿賀野は静かに息を逃した。
そして、好きだ、と思った。
つがいだから追い求めたし、つがいだから見つけられた。
けれどいま、阿賀野は運命だとかつがいだとかを度外視して、ただ好きだと思った。
「…ありがとう……」
どうにか返した声は擦れてしまっていた。
もしかしたら、真柴には気付かれたかもしれない。けれど、彼なら笑わずにきっと受け止めてくれる。
「ありがとう、真柴くん……」
声に乗ったない交ぜの感情の中には、嬉しさが満ちていたのかもしれない。
少しの涙と喜びに上ずった声に、いいえとどこか恥ずかしげな小さな声が返ってきた。
耳の奥に消えても胸に残るその声に改めて阿賀野は、真柴が好きだと思った。
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